+ 前夜 +
それは、まだ僕らが出会う前
白銀の髪に藤の瞳の少年だった。まだ幼いその彼は、白くきれいな肌を薄い朱に染めて微笑んでいた。隣りにいるのは少年の母親だ。少年は母親似なのだろう。髪や瞳の色は違っていたが、そのまだ幼い顔立ちからもはっきりとそれを見て取れる。 優しそうな、きれいな女性。それが少年の母親だった。 少年の母もまた微笑んでいた。自分を嬉しそうに見上げてくる我が子の瞳にその視線を向け、優しく微笑んでいた。 少年と母親は小高い丘を上っていた。 丘は少年と母親の暮らす国からほど近い場所にある。丘を登るとそこからは彼らの国が一望できる。その向こうには広く広く森が続いている。 少年は丘の上から国を、そしてその向こうに広がる森を見た。 少年の肩に細くしなやかな手が置かれる。少年の母親の手だった。 少年はその手に促がされるようにして顔を上げた。見上げた母の表情は優しく、しかしその瞳の奥はとても厳しく強かった。 「紫苑、よく見ておいて。あれがあなたの父上の守る国。あなたと、私と、そして私達の大切な人々が生きている国」 彼の母親は丘のすぐ眼下――少年と彼女自身が生まれ、そしていま生きているその国を指して云った。 少年は真っ直ぐに母親の指の指し示す先に瞳を向けた。 これから、自分が生きていくところ。 この先、自分が守るべきところ。 自分はそこを守るために、この世に生まれてきた。 少年は幼い心で思った。 それは、少年としてもあまりにも幼すぎる頃から思っていたことで、まるで生まれたときか知っていたことのように感じられた。物心ついた頃にはもう、そう思っていたのだ。 だから何の疑問も持たなかったし、嫌だとも思わなかった。 その国は、まだ歳端も行かぬ少年にそう思わせるほどに豊かで、暖かであることは確かだった。 しかし次に母親が言った台詞に、少年は困惑の表情を浮かべた。それにしたって、少年の歳の子供が浮かべるにはあまりにも大人びていたが、彼の母親はそのことについては気を止めたりはしなかった。 少年の母は云ったのだ。 「あれはあなたの父上の守る国。治める国。けれど紫苑。あなたが守るべきはそこだけに収まりません。紫苑、あなたはもっと遠くを見なければなりません。もっと遠く広く。この倭の島全体を見、感じ、そしてあなたは選ばなければなりません」 「何を選ぶのですか?母上」 見上げた母親は、どこか遠い空の果てを見つめているようだった。 少年はそんな母親をこの日はじめて見た。いつも優しく、そして聡明な母を少年は慕っていた。だから今回もそうだった。不思議に思っても、驚いても、少年は黙って母親の次の言葉を待った。 自分の投げ掛けた問いに対する、母の答えを待った。 「あなたの、守るべきものを」 「私が守るのは父上の治める、私達の生きるあの国です。国の人々の笑顔あふれる暮らしです」 少年は母の瞳をまっすぐに見つめながら云った。 曇りのないその瞳。その表情。 少年の母はまた優しく微笑んだ。 「紫苑。あなたのその思いを、母上もそしてあなたの父上もとても嬉しく、そして誇りに思います。けれど紫苑。あなたは選ばなければならないのです。あなたの守るべきものはもっと大きく、そしてもっと重い。ここよりもずっと広く大きく、遠く、あなたはきちんと見据え、そして選ばなければなりません。あなたにはそれができます」 「ここより広く大きく、そして遠くを守ることは、ここを守るよりも重いことなのですか?――母上、私は父上の肩にたくさんの命の乗っていることを知っています。けれど命の重さはみな同じではないのですか?そして、守るべきものの重さも。私には、父上の支えには、代わりを務める役目は勤まりませんか?」 「いいえ、紫苑。あなたは父上にとって、そしてこの母にとってももうすでに十分な支えになっています。私の云うことは、いまのあなたには分かりにくい事かもしれません。けれどあなたはいずれそれを知ります。命の尊さはみな同じなれど、その重さは人によって違うということを。そしてあなたは選ばなければなりません。いえ、選ぶことになるでしょう。紫苑、その思いをずっと忘れないで」 「はい…母上」 少年は頷いた。 母の云ったことすべてを理解できたわけではないけれど、納得したわけではないけれど。自分がこのままではいられないことを、自分で考えていかなければならいことがあるということを、自分自身で選び取っていかなければならないことがあるということは、分かったから。 母親はおそらく少年のそんな思いをわかっているだろう。そして、それでいいと感じているはずだ。 いずれ知りたくなくても知るときがくる。選ぶべきときがくる。いくつもの道が示され、少年は選択を迫られる。 それを憂わずにはいられないけれど。 我が子に架せられた運命の大きさに、重さに、その悲惨さに、母として嘆かずにはいられないけれど。我が子がこれから直面するであろう悲しみの深さに涙を零さずに入られないけれど。 けれど、この愛しい子が悲しみを知るときに、手を差し出してやることはできない。孤独に泣いているとき、そばによって抱き締めてやる事ができない。 そんなことを知る力などなければよかったと思う反面、そんな力に感謝もしている。 いま、この国の歯車が真に回り始める前に、自分は一生分の笑顔を我が子に与えよう。そして一人でも立っていけるだけの強さを与えてあげよう。自分で考え、平等に答えを出すことのできる知識を、智恵を与えよう。 そして何よりも豊かな心を育んでいけ。る環境を与えてあげたい。 まだ幼いこの我が子が、どれほどに辛く厳しく、そして悲しい現実に相対しても進んでいけるだけの、強い感情を。 この倭国にある、豊かな大地と、空と海と木々と。すべての生命に触れさせてあげよう。 生命を愛し、生命に愛されるように。 気がつけば辺りは茜色に染まっていた。 母親は少年に微笑みかけ、その小さな手を引いて帰路を促がす。 少年は母親にその手を引かれ、ゆっくりと歩き出した。 東の地平からまだ朱に染まった月が顔を覗かせている。西には真昼からは想像もできないほどに優しく輝く太陽が、もう眠りにつくと云いだげに傾いている。 これから夜が来るのだ。 せっかちな星は、まだ幾分明るい夕焼けの空の中で、もう輝き始めていた。 「母上」 「なぁに?紫苑」 国への帰路の途中、少年は母親に呼びかけた。母親はそれに優しく応えた。 まるでいまこの刻の世界を染め上げる、夕焼けのいろのような穏やか微笑。 少年は自分を見つめる母の視線を感じながら、しかしまだその顔を上げようとはしなかった。ただ真っ直ぐと、自分の歩む方向を、自分達の国のある方向を見つめている。 そして口を開いた。 「私は、何があっても、何を選ぼうとも…忘れません」 「紫苑……」 「――私はずっと忘れません。そして守り続けます。国を、月代国を、私は忘れません。そこに生きている民のことを、その笑顔を、苦しみを、思いを、私は決して忘れません。そしてその心を受け継ぎます。その願いを守り、叶えます」 そこで少年はようやく顔を上げた。母親に向けて。 何かを悟ったような、晴れ晴れとした静かな微笑がそこにはあった。 母親はそっとその瞳を閉じ、そして頷き、云った。一言。 母親の一言。 それに、少年は今度は歳相応の嬉しそうな笑顔を見せたのだった。 それは、まだ僕らが出会う前。 何もかもが動き出す前のこと。 嵐の前の静けさのような、平穏な日々だった。 |
まるで、朝が訪れる前の一瞬のような、朝でもなく夜でもなく
僕は、決してそのときを忘れない
その静けさを、穏やかさを、忘れはしないだろう
----+ あとがき +------------------------------------------------------
草上秋(Syu)さまに捧げますvv たいへん遅くなりましたが、サイト開設お祝い&相互リンク記念小説を贈らせて頂きますです。本当に遅くなりました、申し訳ありません;; そして内容の方も申し訳ありません!! オリジナルサイトさまに贈る小説…はて?どうしよう?(汗)状態で、結局邪馬台幻想記小説にしようと思い、さらに紫苑とかの幼い頃とか書きたいな。とか思ったのですが…あわわ。 あまりにもかって過ぎるオリジナル設定。 自分のサイトにUPするだけならともかく、人様に差し上げるのはどうだろう?と思いつつ、秋さまのために書きましたので、贈らせて頂くことにしました。というか、他に考えようとしても更なるオリジナル妄想設定になりすぎてしまうのでどうしようもなくなり…やはり私の原点(紅紫/爆)から外れたものを最近書き続けているせいか?とか思いつつ(笑) あとがきまでへんになってきたのでこのへんで。 本当にすみませんでした。受け取って頂けたら幸いです---2002/08/22 |
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