+ 葉中の洞 +










 隠されていたわけではあるまい。
 隠れていたわけでもあるまい。

 陰々(いんいん)として密(ひそ)むそれを見つけたのは、偶然か必然か。

 招かれたのか、それとも―――――。





「お前はこれを何だと思う」

 紫苑は訊ねた。しゃがみ込んだ姿勢のまま、じっと地面に目を向けている――もっと正確に言えば、彼が目を向けているのは地面ではない。そこに描かれている見覚えのあるような、しかしまったく知らない――つまりは自分の知りうる何かに似ているが、明らかにそれとは別の何かであるということだ――紋様だった。彼は、自分が声を掛けた相手を振り返りもしない。
 けれど声を掛けられた相手はそれには一切頓着しなかった。慣れていたからだ。答える。

「模様」

 紅真の答えは簡潔だった。その瞳はしゃがみ込んだまま紋様をなぞる紫苑の背中と、その奥に紋様を背景として写している。
 辺りは薄暗く、彼の掲げる松明の光が唯一の光源だった。

「装飾のための?」
「だろう?」
「文字の可能性は?」
「俺たちの使う大陸の文字とは似ても似つかない。大陸の北の文字ともだ」
「似てるといえば?」
「方術の一つ。式を召喚するときに札に描く模様」
「それが文字である可能性は?」
「俺には考えられない」

 記号と文字の違いはそれほど大きくないのかもしれない。文字とて、もとは記号であったらしい。装飾のための模様と文字はどうか。文字を装飾に使うとき、それは文字ではなくなるのか。意味はなくなるのか。
 彼らの会話は続く。
 紫苑が問い、紅真が答える。それでも、彼らにとっては会話だった。

「式札に描く模様に意味はあると思うか?」
「あるだろうな。じゃなきゃ模様によって召喚される式を使い分けることにどこかで例外が生まれるはずだ。――模様の一つ一つの意味を知っている奴なんて、もうどこにもいねぇけど」
「そうだな。だとすれば、これは相当強大な式を呼び出した跡(あと)だな」

 紫苑は紋様を指していった。
 彼らのいるそこは一辺が四メートルほどの洞穴だった。その岩壁全体に隙間なく、文様は描かれている。いくつもの小さな紋様が集まって、一つの大きな紋様を作り出しているようだ。それは空洞の円柱の内側に「円」を描こうとしているように見えた。
 紫苑が見つめているのは、その中でも特に大きな一つの紋様。おそらくは円の中心になるだろうと思われる部分だった。

「意味が解明できればな」
「いっそ式を召喚してみた方が早いかも知れねぇぜ」
「何が出てくるのか分からないのにできるわけないだろ」

 紅真の案に、紫苑は首を横に振ることで答えた。式を呼び、それが制御できるものであるかどうかさえ分からない状態なのだ。紫苑は自ら進んでしなくても良い危険な賭けをすることを好んではいなかった。
 もっとも、力が不足していて術が使えないという危惧だけは、二人ともに持っていなかったが。

「おい、紫苑」
「何だ?」

 紫苑は紋様を見つけてから久方ぶりに顔を上げた。紅真が呼び掛けたからではない。紅真が呼びかけると同時に、その手に持っていた松明の灯りの位置を変えたからだ。
 灯りによって新たに照らし出されたそこには石版があった。小さな石碑だ、縦三十センチ、横二十センチほどの石碑が、岩陰に埋め込まれていた。

「紋様に夢中で気がつかなかった」

 紫苑がポツリと零した。そのまま石板(せきばん)に駆け寄る。
 軽く手のひらを触れさえ、塵と埃を払う。紫苑が何を言うでもなく、紅真は彼の横に松明の灯りを持ってきて、紫苑が石板をよくよく観察できるように、光源を提供していた。

「文字だ。間違いない」

 紫苑が断言したそれは、先の紋様となんら変わりがないように見えた。一見すると、並び方のせいで文字が書かれているように見えるだけにすぎないように思える。石板には細かな紋様が一本の横線を描くようにして並んでいる。その線は石板の上から下まで、順に整列していた。

「石碑かもしれないというか、石碑だな。これは」
「読めるのか?」
「無理だな。でも…」
「でも?」

 紫苑が言葉と止めて苦笑したので、紅真はいぶかしんで訊ねた。苦笑するようなことなどあっただろうか。
 紫苑はそんな紅真の心情を正しく把握していた。苦笑をより深くして、石碑の下方を指す。そこを境にして、横線を形成している紋様の種類が、上下を分けて明らかに異なっていた。

「ご丁寧なことだ。訳してある」
「訳?」
「そうだ。これは…歩青(ほせい)期の文字だな。これなら、なんとか読める。その下には赤進(せきしん)期の文字だ。内容は同じか?だとすると、一番上のものは立黄(りっき)期のものか、もしくはそれ以前の…たとえば創始期のものかもしれない」
「誰も読めなくならないように、同じことをそれぞれの時代の文字で書き直していったってことか?」
「おそらくな。おかげで全文読むこともできそうだ。赤進期の文字はほぼ完全に解読できる」
「赤進期はもう千年以上も前だろ?」
「ああ。大陸には「殷」という巨大な王朝があったらしい」
「それより以前の創始期なんて伝説もいいところだろ?お伽話の世界じゃねぇか」
「そうだな。だが、お伽話にはその元になった事実がある。そう信じてないと、古学(こがく)なんてやってられない」

 よく見れば、石碑には少しずつ継ぎ足されてきた跡がある。

「すごいな。ここまで完璧に、石をつなぎ合わせるなんて」
「鉄をつなぐほうが簡単だったんじゃねぇのか?」
「鉄を使えない理由があったんじゃないか?」
「鉄そのものがなかった可能性もあるだろ?」
「どうかな。この文を読む限りだと、それはないようだけど」
「なんて書いてあんだよ」

 紅真に促され、紫苑はそれを声にして語る。
 要約するとこういうことだった。

 創始期より遥か以前を、ここ(石碑中、歩青文字)では「神聖期」と呼んでおり、その時期が人(倭人)がもっとも栄えた時期だっただろうと語っている。その後にやってきた時期を「混沌期」とし、最盛期の只中であると同時に、文明の急落期でもある。
 人は「神聖期」に神の国ともいえる地(石碑中ではそこを「凪の華」と呼んでいる)を見つけ出し、そこにある空間(高天)移住した。築かれた都を高天の都と呼ぶ。
 しかしそこは人には過ぎた場所だった。
 そこで生活を営むことが不可能になり、仕方なくそこを投げ出してもといた地(現在の倭国。この石碑の発見されたあたりか?)に戻ることとなった。しかし、そこで混乱が起こった。混乱を引き起こした者がいた。それによって神の国の均衡が完全に崩れ、そこに蓄積されていた「力(神威力と名づけたとある)」が故郷たる地(倭国のこと)に溢れ出した。
 溢れ出した力によって、人は文明も文化も失った。木に上れない猿に返った。返るしかなかった。
 生き残ったのは僅か。力を持つ者はさらに少ない。
 記録を残すこと、あまりに難しく、その術(すべ)さえ絶たれ。それでも、ここに短い文を残す。と、いうことだった。

「高天の都と神威力…」
「重要な手掛かりであるようで、なんの手掛かりにもならないな」

 紫苑が語り終え、紅真が聞き覚えのあるその単語に唸りを発した。それに返す紫苑の声はそっけない。彼が欲しいのはそれが何であるではなく、どうすればそこに辿り着けるのか、それを手にすることができるかである。

「これで云えば、俺たち全員、高天の民の末裔ってことにならねぇか?」
「高天へ向かい、そこに都を築いたのがすべての倭国人だったとは限らないだろう。彼らが高天へ赴き、その後にこの地へやってきた者がいたかもしれない」
「なるほど」

 会話が止まる。

「で、どうする?」
「高天へ行く」
「場所、わかんねぇじゃん」
「行くしかないだろ」

 紫苑がため息を零して云い、歩き出した。紅真は黙ってそれに続いた。

「石碑の前に敷かれた模様はけっきょくなんだったんだ?」
「術だ」
「なんのだよ」
「この洞窟が…というより、あの石碑が崩れないように補強するための、だな」
「なんだ、つまんねぇ術のこしたもんなだ」
「術士のほとんどが神威力に飲み込まれたらしいな。助かった術士も、力のほとんどを失っていたらしい。絶頂期からゼロに突き落とされて、単純な生活、生産でさえ困難だったらしい上に、あまりにも衝撃的な体験に記憶も随分と吹っ飛んでしまったみたいだな」
「軟弱」
「神が人になるっていうのはそういうもんだ」

 前方に光が見え出す。
 出口だ。

「……その、混乱を引き起こしたって奴は、どうなったんだろうな」
「あの石碑には何も書かれていなかったな」
「そうか…」

 洞窟の外に出た。春を間近にした冷たい風が二人の肌を刺すように撫でて流れていった。
 空を見上げれば日(ひ)を隠(かく)さんばかりに立ち込める灰雲の群れ。洞窟の内側から見ると随分と明るく見えたそこは、木々の鬱蒼と茂る鬱々とした場所だった。
 眼前に道を塞ぐように伸びた枝葉を意にも介さず、足を踏み出す。紅真は松明にしてた焼き木を適当に放り捨てた。湿った土の上に落ちたそれは、重いが中身のない音を立てて地面に転がり、やがて止まった。
 もうしばらくすれば雪が降り出すだろう。それさえ意に介さず、二人はただ歩き続けた。
 ここへ来ることは、もう二度とないだろう。





 歩みが止まる日は来るのか。
 歩みを止めることを赦される日は来るのか。
 鬱々とした碧。
 苔の匂い。
 澱んだ雲。
 ぬかるんだ土。

 それでも歩き続ける。
 どうせ、それを止めることなどできないのだから。










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 あとがき +------------------------------------------------------

 はい、勝手な設定をバンバン取り入れています。これは現実からも抜き出たパラレルワールドです。紫苑君を勝手に古学者にしちゃいました。簡単に言うと考古学者みたいなものです。消え去ろうとしている、あるいは消え去った歴史を研究、探求し、それを後世に残すことも目的の一つです。世界観は少し色彩シリーズの設定を引きずってます。たったこれだけ書くのに何時間(四時間くらい?)掛けたことか…(疲)
 とにもかくにも、夏休み最後の更新です。裏の更新なんぞなんも終わりませんでした(平謝り)
 ご意見ご感想い頂けたら嬉しいです---2003/09/28

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