+  光 +






この空の下で










「風が気持ちいいね、紫苑君」

 不意に掛けられた声に、紫苑は驚く様子もなく振り返る。そこには予測通りの人物がいた。
 風に靡く髪を片手で押さえつけながら、ゆっくりとした足取りでやってくるその少女の名は壱与。吹き抜ける風のためか、早朝の陽の眩しさのためか、常は生命力に輝いている翡翠の瞳が僅かに眇(すが)められている。
 それだけで、少女の雰囲気は大きく変わる。

「こっちは崖になってるから、気をつけろよ」

 壱与の言葉には直接応えずに、紫苑は彼女に声を掛けた。
 彼のトレードマークの朱色の外套が風に吹かれて、はためいた。色素の薄い彼がその外套を身に着けることで、その朱は誰が身に着けるよりも強烈な印象を与えていた。

「大丈夫。そんなにそそっかしくないから」
「そうか…?」
「そうだよ」

 有無を言わせぬ笑顔とともに彼女が肯定すれば、彼はそれ以上追求しようとは思わなかった。
 見ているとなんとなく居心地の悪くなる彼女のその笑顔から視線をはずし、再び大地の終着点から見晴るかす景色に目を向ける。
 別にここが本当に大地の終着点だというわけではない。ただ、眼下に広がる大地に降り立つには少々不便なだけだ。

「みんながご飯にしましょうって」
「そうか。――すぐに行く」
「うん。待ってるね」

 壱与は微笑んでそれだけを伝え、紫苑に背を向けて歩き出し、不意に何かを思い出したように歩みを止めた。
 どこにもともなく――あえて云えば周囲に群生する木々の葉の中に――視線を向けて、口元に手を添えて呼びかける。

「紅真君も、早く来てね〜」

 呼び掛けに応える声はない。代わりに心底おかしいとでもいいた気(げ)な笑い声が響く。
 紫苑だった。

「もう、なんで笑うの、紫苑君」

 振り返り、腰に手を当てて頬を膨らませてみせる。
 壱与には背を向けたまま、片方の手を腹に当て、もう片方の手を口元に当て。堪えきれぬ笑いを必死に押し隠そうと態度だけは示している彼の人の震える肩。
 それを見て、壱与は息を吐き出すとともに肩の力抜いた。もともと本気で怒りを抱いていたわけはない。

「くっくっく、ごめん、壱与。あんまりおかしくて…」

 振り向いた紫苑は目じりに涙まで浮かべている。何がそんなにおかしかったのか、壱与にはいまいちよく分からない。
 それでも、彼がそうやって笑うことは決して不快ではない。むしろ嬉しいといい表(ひょう)しても過言ではないだろう。
 だから、壱与の視線は自然やわらかいものになる。

「何がそんなにおかしいの?」
「さっき。本当についさっきなんだけど…」
「うん、それで?」

 壱与は僅かに小首を傾げて、先を促す。

「初めて、常世の森に言ったときのことを思い出してた」
「―――あー、それで」

 納得。
 あの時は、殺し合う仲だった。

「嬉しいと思った」
「何が?」

 ようやく笑いを収めて、紫苑は今度はおかしいのとは違って微笑んだ。
 その彼の微笑があまりに優しげできれいだったので、壱与は三度首を傾げる。その不思議な色の瞳をさらに眇めて、紫苑は口を開いた。

「出会えたこと」

 答えは一言だった。
 壱与は瞳を見開いた。
 それから、先の紫苑のように、腹に手を当てて笑い出した。「く」の字に折れ曲がる壱与の体の形は、先ほどの紫苑とまったく同じだ。

「うん、そうだよね」

 目尻にたまった涙を拭いながら答えれば、紫苑が微笑を深くした。しばらくはその風が辺りを包み続ける。
 壱与は前屈みになっていた体を起こした。笑いによる震えを収め、一つ微笑むと、くるりと紫苑に背を向ける。それから首だけを巡らせて彼を見つめた。

「ああ、そうだ。紫苑君」
「ん?」
「そこから、飛び降りないでね」
「は?」

 こんな風に口も目も見開いた彼の表情など、そうそう見られるものではない。再び声を出して笑いたくなるが、それ以上に伝えておきたいことがあった。話すタイミングを逃してしまわぬよう、壱与はその笑いを胸中の中だけのものにした。
 それが非常に残念で、苦笑じみたものになってしまったが。

「私たち、進むべき道は、けっきょくのところ個々で決めてるでしょう?私も、紫苑君も。ここまで来るのに通った道も違う」

 邪馬台国の女王としての道を辿ってきた壱与。
 陰陽連の刺客の道を辿って今に至る紫苑。

「でも、道は重なった。それは、私や紫苑君や他のみんなも、遠く離れたところにいて、それでもずっと同じ気持ちでいたからだと思うの。だから今、同じところに辿り着いた。だから、これから先の道も、一緒に歩いていきたいんだ」

 ここは彼らの目指す道の最終地点ではない。否、彼らの道程には、歩みを止めることのできる最終地点などないのかもしれない。

「でもね、その道を選ばれると、ちょっと着いていくの厳しそうだから」

 険し過ぎる道を選ぶことを否定はできない。だが、できれば隣を、後ろを気に掛けて歩いてくれると嬉しい。
 壱与が伝えると、紫苑は軽く目を瞬(しばた)いてから、俯いて小さく笑い出す。
 そして、云った。

「そうだな」

 壱与も笑って、返した。

「うん、そうでしょ。あ、これ、紅真君にも伝えておいてね」
「ああ」
「約束だよ。じゃ、早くご飯食べに来てね」

 大きく手を振りながら、今度こそその場を駆け去っていく壱与の姿が見えなくなるまで、紫苑はじっと佇んでいた。
 元気な彼女の姿が見えなくなると、入れ替わるように現れたのは、赤い瞳の鮮烈な話題の人物。
 紅真だった。

「壱与に会えばよかったのに」
「嫌だ」

 紫苑の台詞に、紅真は顔を顰めてそれだけを返した。
 視線を向ければ、腕を組んで佇むぶっちょうずらの紅真。妙におかしくて、小さな笑みが洩れた。
 出会ったあの頃には、まったく考えも及ばなかったその姿。




 限りなく広がる空に
 僕らは何を臆することがあろう
 眼前に広がる蒼穹
 大地は途切れ、風が強く吹き抜ける
 光り射すこの空に
 何を立ち止まっていられるだろう
 光り射す大地とはどこかと探すより
 光りを生みだす術(すべ)を探したい
 それは本当の光でなくともかまわない
 たとえ僕らが暗闇にあってもなお
 歩くこと、笑うこと、生きること
 できる光であるならば
 その真実など問いたりはしない
 なぜならそれこそが
 僕らにとって、光の真実なのだから




「楽しそうでなによりだ」
「冗談じゃねぇよ」

 笑って云う紫苑に、紅真は苦々しげに返す。それでも、彼がこの重なった道をいまさら外れる気がないことを、彼自身が誰よりも知っていた。

「さて、食事に行こうか」
「……」
「安心していいぞ、紅真」

 数歩だけ歩んで紫苑はすぐに立ち止まる。
 未だ歩き出そうとしない紅真に、肩越しに顔を向けて声を掛けた。

「今日の食事当番は、壱与じゃない」

 そう云った紫苑の瞳があまりに楽しそうだったので、紅真の表情はますます顰められたが、それもまた、紫苑の笑いを誘うものでしかなった。














君と出会えた喜びを









----+ こめんと +----------------------------------------------------

 久しぶりにシリーズの続きでもなんでもない短編です。しかも(あくまで私の中では)原作テイストです。邪馬台幻想記本編の最終回の、あの最後のページが場面だと思って下さい。
 間に入ってる詩だかなんなんだかは、当初は本文の上と下にくっついてました。さてどこで切れていたでしょう(笑)ヒント。上の方だった部分は一応邪馬台幻想記の最終回の最後のページをイメージして書きました。
答えは六行目と七行目(光り射す大地とは〜から一番下にありました)。
 ご意見ご感想お待ちしております---2003/10/05

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