+ 歓喜の歌 +










思い通りになることなどどれほどあるというのか










「ここで生活するのか?」

 少年は眼前に広がる隠れ里から視線を上げて、少年をそこまで連れてきた男を見上げた。口を開きかけ、閉じる。視線を逸らして何かを口篭もるその様子に、男は自分が未だ少年に名乗っていないことに気がついた。

「シュラだ」

 少年は瞬間何を云われたのか分からない様子だったが、すぐにそれが男の名であると思い至ったのだろう。軽く頷くように顔を上下させてから、隠れ里に視線を戻した。

「わかった。俺はこれからどうすればいい?」

 少年が自分の名を呼ばなかったことに僅かに気を落としながらも、男はそんなものおくびにも出さずに答えた。
 胸中で顰められた眉が物悲しいのは、男にもあずかり知らぬこと。

「部屋は用意してある。西の塔へ行けばわかるはずだ」

 少年は男に視線もよこさず、声も発さずに、ただ一度頷いただけだけで歩き出した。その様子には迷いもためらいもない。
 男はまた、僅かに落胆した。





 白銀の少年は真紅の少年に出会った。
 男はそこでまたもや密かに落胆した。
 なぜなら、真紅の少年もまた、男の名を呼ばなかったからだ。



 少年たちの心は荒れている。それは男が仕向けたことであれば、この結果は男の自業自得なのかもしれない。
 少年たちは話さない。
 少年たちは笑わない。
 少年たちは強さを求めた。

 少年たちは男の言葉を信じ、男の言葉に従いはしたが、男を信用することも信頼することも、まして男に好意を抱くことなどは奇跡が起きてもないだろうという状態だった。
 男は落胆した。
 少年たちが男の元に来て、二年が過ぎようとしていた。
 男は未だに少年たちに名を呼ばれたことがない。

 男は諦めようとしていた。
 少年たちの心は荒れている。彼らは同年代同姓でありながら、友人ですらない。それは友を作る気も、友を作るだけの余裕もないからだ。
 ならば二人の少年たちの互いの関係よりもさらに遠いところにいる男になど希望さえない。


「紅真、いい加減に離れろ(怒)」
「やだ。だいたい、紫苑が抱きしめていいっていったんじゃねぇか」
「お前が一人で泣いてるからだろう」
「嘘云え!!泣いてねぇだろ!!」
「泣いてただろう!!」
「泣いてねぇ!!勝手に話を作ってんじゃねぇよ!!」

 そこには楽しげに抱き合う少年たち(男視点)の姿があった。
 男はその風景を見て、どこかここではない遥か彼方を見つめるような目をした。これはあきらかに錯覚であるが、男の周りにだけ春が来たように見える。
 温かな木漏れ日と、舞う蝶々と、揺れながら落ちていく花びら。
 これは明らかに錯覚であったが、男はどこか、たいそう物悲しく感じながらも幸せであった。
 そして、そんな男を不幸にも偶然に目撃してしまったものたちは、幾ばくかの嘔吐感と、拳を握り締めても涙は見せない漢泣き的な嘆きと、脱力気味の不信感に見舞われた。



 男は諦めようとしていた。
 少年たちは男の名などもう忘れているに違いないのだ。
 否、端(はな)から少年たちは男の名など覚えてもいないのかもしれない。いっそ覚えていなかったのだと割り切って考えることができればどれほど幸せだろうか。
 男は黄昏た。


「そういやぁ…紫苑、聞いたか?」
「何をだ?」
「シュラがボケたって噂」
「……紅真、それは滅多に口にするもんじゃないって、噂を聞くときに一緒に云われなかったか」
「あ?―――ああ、たしかにそんなこと云ってたな」
「だったら―――」
「だって、シュラだぜ。あの万年すっとぼけ男がボケた…なんて、噂にのぼるってことは、口に出してもいいって上の奴らに公認されたようなもんじゃねぇか」
「たしかに…そうなんだけど」
「じゃぁ気にする必要ねぇだろ」
「でも、なぜかシュラはあれで誰よりも冷静だと思われているらしいんだ」
「そっちの方が嘘だろ」
「そうでもないみたいだぞ。ここに来たばかりの頃、いろいろな奴に話を聞いたけど、みんなシュラは「とにかくすごい」って憧れと畏(おそ)れを抱いてた」
「とにかくすごいって表現はあたってる気がするけどな…」
「意味が違うんだって。憧れだって云っただろ」
「でもなぁ…今のシュラ見てもそんなの考えられねぇよ」

 少年たちの話題に上っていたのは男のことだった。
 男にはその話の内容がなんであるのかまでは頭に入っては来なかった。
 なぜなら、男が少年たちの口から男の名を聞いた瞬間に、男の意識は天にも昇るの表現がなぜかうまい具合にぴったりと嵌(は)まる様子になったからだ。
 天にも昇るなどというのはもちろん比喩だが、男はそれほどまでに幸福感に満たされていた。

 それはやはり錯覚でしかないのだが、男の頭上にはどこまでも神々しい光が満ち溢れ、穢れを知らぬかのような真白き小鳥たちがその光の中心へと舞うように羽ばたいていた。小鳥たちの羽が舞い散る様(さま)が聖(きよ)らかで、歓(よろこ)びと幸せを織り上げたような美しい音色が流れているのだ。
 それはたしかに錯覚であるのだが、あるいは男の頭の中では現実として起こっていたのかもしれない。それほどまでに、男の表情は幸福に満ちていた。
 まるで、そう、こんなものは現実にはあり得ぬのだから、あくまでも例えなのであるが、男の表情はそのとき、無欲な善人のように穏やかであやしかった。
 そして、そんな様子の男にふと気がついてしまった少年たちはこの時、きしくも同時に、とある思いを脳裏に過(よ)ぎらせることになったのだった。




 ―――遠くない日に、この組織から抜けるような気がする―――



 それはもしかすれば現実になるかも知れぬことでありはしたがしかし。あまりにも幸福の泥沼に沈みいって、でろでろの泥に満たされまくった男には、まったくあずかり知らぬこと。
 少年たちの男を見る目がさらに白くなったが、男はその幸福の泥に長いこと包まれていたので、様様に気がつきはしなかった。
 そして、そのことが男にとっては唯一の幸福であったのだと、後に真紅の少年は白銀の少年に語るのであった。












引き返せない道へと踏み込む













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 あとがき +------------------------------------------------------

 今まで入ったことのなかった分野に入ろうとして道に迷った結果、わけの分からないまったり風味のものができあがりました。腹を壊しても作り手はなんの責任も追いません。ってか、負えません。
 ご意見ご感想ありましたらぜひお寄せくださいです---2003/10/25

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