+  恋せよ乙女 +





あの人のことを思うだけで
この心が満たされていく
愛するあの人を視界の隅に止めだけで
私の全ては喜びに埋め尽くされる




 この国はいい国だ。誰に聞かれたとしても、私は胸張ってそう答えることができるだろう。
 この国の女王はまだ歳若い。たったの十五だ。私とそう変わらない。美人で明朗で、この人なら大丈夫だと思わせる何かを持っている。この人がいれば、そこに希望があると根拠もなく信じられてしまう。そんな人。
 そんな女王の側近護衛として、最近年若い女王よりも更に若い、つまりはまだ幼いといってもいい少年がやってきた。女王は気さくな方で、国中の誰とでも分け隔てなくお話してくださるが、お忙しく尊いその身であるから、誰もが気安くその姿を見ることも会話を交わすこともできるわけではないのが実情。その新しい護衛の少年は常に女王の傍を離れることがないけれど、それに反して人々の前に姿を現すことが滅多にない。女王の直属の護衛はヤマジ隊長だと思っている人は、まだまだ圧倒的に多い。むしろ、少年の存在を知っている人間は極限られていると云っても過言ではないだろう。
 つまりは、少年が守るべき対象としている女王と、彼女を守るという立場で少年と同じような立場にいる兵士の人たち、そして女王の極身近で働いているものたちである。
 私は畏れ多いことに、女王のお世話係として働かせてもらっていた。そのことを、私は私に関する何よりの誇りであると感じている。
 主な仕事は、女王の身の回りのお世話で、つまりは食事の支度やお召し物の用意やそのお手伝いなどだ。寝所の用意や朝夕の身支度のお手伝いもする。洗顔用のお水を汲んできたり、洗濯をしたり、その仕事が尽きることはない。
 彼と出会ったのは、そんな日常の中での偶然だった。
 女王が目を覚ましてまず初めに使う、洗顔用の水を桶に汲んで部屋までお運びしているときのこと。川下の水ではなくで川上の、生まれたばかりの冷たくてきれいな水をお運びするために、私はいつも日が昇るずっと前に起き出して日が昇る前に戻る。川上への道は女王のお住まい兼国の政務の中心地である建物の裏手の山を登るものだ。獣道が少し発展した程度の、細いその道は、四方を高い木々に囲まれているため常に薄暗い。それでも、獣たちは人が通ると分かっているそこへは積極的に現れたりしないから、不安はそれほど大きくはない。
 獣が通るか風が吹かなければ音などしないはずのそこで、その日、私は風を切る音を耳の端に捉えた。思わず肩を揺らし、足を止める。風は吹いていない。梢は揺れていない。
 恐る恐る首をゆっくりと巡らして、そっと辺りを窺い見つけたのは、その当時、なんだか女王のお傍にいると眼の端に何気なく入るようになっていた少年だった。女王のお傍を付かず離れずの距離で見守るようにして立っているその少年が新しく入った護衛であると知ったのは、彼のことを思い切って尋ねたナシメ様に教えて頂いてのこと。それでもそのときは、まだなんだか最近ちょくちょく見かけるな…くらいの印象で。いったいこんな空も暗い頃から、こんな森の――しかも道を逸れた森の中で何をしているのかといぶかしんだ。
 あまりにもぶしつけに見ていたせいか、その少年の感覚が研ぎ澄まされていたからか。おそらくはその両方の要素が合わさってだろうが…少年は私に気がついた。振り返ったその姿を見て、まるで時間が止まったかのような感覚を味わった。
 雪のように白い肌に、剣のように光る髪、そして菫のように鮮やかな瞳。
 まっすぐに射るように見つめてくるその瞳に射すくめられたかのように、私は身動きの一つも取れない。きしくも彼と見詰め合う形になっていた私のその様子は、さしずめ猫に追い詰められた鼠のようなものだろうか。窮鼠猫を噛むの気持ちで、ただただ必死に言葉を紡いだのを覚えている。

「な、何をしているの?」

 声は間違いなく震えていた。張り上げるつもりあげたその声は、実は相手に届いているかどうかさえ怪しいほどに小さなものだったのかもしれない。それでも、彼から答えが返ったのは、私の態度があからさま過ぎたためかもしれない。

「鍛錬」

 簡潔で、言葉少なな答えでした。

「こんな、早い時間から?」
「護衛対象が目覚めて活動を始めてからじゃ、できないだろう」
「こんな、ところで?」
「兵舎の中でだといろいろと五月蝿いんだ」

 本当は、女王が眠っているときであろうともその周囲の気配に気を配っているのだろうと気がつくのは、ずっと後になってからで、それでは彼の心の休まるときはいつなのかというの考えにいたるのは、そのすぐ後だった。そして、その答えは今でも分からないまま。
 分かることは、この、人々が置き出す直前の時間がとても危険で、決して寝てなどいられないことだけ。夜間の見張りは夜が明けるこの時間に、もっとも気を緩みやすく、敵はそのことを熟知しているということだけ。それでも、彼は他の護衛たちのことを信頼していなければならず、他者の領分に踏み込みすぎてはいけないから、こうして、気を研ぎ澄ませているということだけ。
 言葉も出ない私に、私からすれば思いもかけないことに彼からの問いかけがあった。

「で?」
「え?」
「お前は何をしてるんだ?」
「…お水を汲みに」
「こんなところまで?川下でいいだろう」
「女王にお出しするものだから、特にきれいなものを用意するんです」
「ふ〜ん」

 いつの間にか私の緊張は解けていて、変わってなんだかすごく優しい気持ちに満たされていた。子供なのか大人っぽいのか分からない、彼の不思議な二面性に魅せられたためだった。きっと。
 しばらく考えるように押し黙っていた彼が顔を上げる。思いがけないどころか、信じられない言葉が発せられた。本当に私に向けられて発せられたのかが今思い出しても怪しい気になるが、それでもあの場には私と彼の二人だけしかなく、彼は私をまっすぐに見て口を開いたから、その言葉は私に向けられていて、だから、私の答えを彼が聞いたのだ。

「付き合う」
「え?」
「水、汲みに行くんだろう?」
「あ、はい…」

 せっかくの好意に、あのときの私はお礼を云うことさえ、できなかった。
 このときには気がつかなかったが、私は怯えていた。不意に聞こえたあの音が、人を襲う獣の訪れを知らせるものなのではないかと。目の前にいるのが彼で、音の発信源も彼で、そのことを頭ではっきりと認識するまで、ずっと、私は怯えていたのだ。
 そのことに、私は気づきもせず、そして、彼の好意にさえ、気づけなかったのだ。





「おはようございます、紫苑様」
「おはよう」
「いつもお早いですね」
「お互いに、な」

 朝、女王のための水を汲みにいく。
 今までと変わらない日常の中で、滅多に獣は近づかないので、おそらくはこれからも大丈夫だろうという程度の不安定な山道を往復することで始まる私の仕事。
 一人で歩いていたその道程を、今は隣を歩く彼と共に歩いていく。
 私の手には木製の桶が、彼の腰には鉄製の剣が。

「いつも、ありがとうございます」
「いつも言ってるだろう。鍛錬のついでだ」

 それでも、いつも言わせてください。


 いつも、ありがとうございます。




彼と出会ったのは日常の中の偶然
その偶然が積み重なって
いつか必然に変わればいいと
何気ない日常を過ごしながら願う夢





----+ こめんと +----------------------------------------------------

 夢小説にできそうっすね、これ。思いがけずすっげぇ時間が掛かりました。
 ご意見ご感想お待ちしております---2004/02/28

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