愛猫家の猫たち
1、天国と地獄の訪れ




 あなたが大好き
 そう云ってくれるあなたを
 私たちも大好き




 赤い瞳の鮮やかな黒猫は、決して人には懐かない野良猫キング。愛猫家たちの憧れの的です。
 野良でありながら常に保たれている艶やかな毛並みは、どんなに手厚い手入れをされた猫の誰もが敵いません。覗く牙は鋭く白く輝き、その肢体のバランスと動きは芸術の域に達しています。人に媚びないその気高さは、愛猫家たちの愛すべき姿。
 幾多の愛猫家たちがその黒猫に手を伸ばし、手痛い返り討ちにあってきたのか…。愛猫家たちの間で語られる伝説は、日々確実に増えていきます。
 そんな黒猫は、いつだって自由気ままに生きています。今日も今日とて、彼は気の向くままに午後の散歩を楽しんでいました。
 そこへその辺の子供が「黒猫だ黒猫だ〜」とばかりに近づいて手を伸ばしてきます。うざったいそれを、黒猫は容赦なく、その華麗な爪捌きで撃退します。
 泣きながら去っていく子供たちを冷めた瞳で見つめる黒猫。無駄なものを斬ってしまったとばかりに、黒猫はその前脚を舐めて繕います。
 それは珍しくはない日常です。最近では滅多にこの黒猫にちょっかいをかけてくる人間はいなくなりましたが、それでも人間はどこにでもいるのですから、ちょっかいを出されることも完全にはなくなりません。そんな黒猫に声を掛ける猫もまた、黒猫の行動範囲内にはほとんどいなくなりました。
 それは珍しくもない日常でしたが、黒猫にとってとても稀有なものとなったのは毛づくろいをしているときに掛けられた声から始まったことでした。
「乱暴だな」
「んぁ?」
 非難するその声に、黒猫は睨みつけるように態度悪く顔を上げます。そしてその鮮やかな紅瞳を見開きました。
 きょとん、と見つめる黒猫の視線の先にいたのは、蒼みがかった光を放つすばらしい毛並みの白猫でした。アメジストのような透き通った紫色の瞳とあわせて、黒猫とは正反対の高貴な魅力を持つ猫でした。首には月色に月型の飾りの下がった赤い首輪が掛けられています。黒猫と見目の正反対なその白猫は、野良である黒猫とは立場も正反対の飼い猫のようでした。
 それに気づき、一瞬見惚れてしまったことを振り払うかのようにして、黒猫は強く睨みつけて文句を口にします。
「なんだよ、勝手に人に触れてこようとする奴らの方が悪いんだ」
「それにしたって、いきなりあんなに強く引っ掻くことはないだろう」
 傷が残ってしまいそうなほどに深い傷ではなくても、ちょっと威嚇程度に甘噛みするくらいで十分ではないのか。
 白猫が云うのに、黒猫は強く反発します。
「ふん、お前みたいな飼い猫様には、人間のガキの厄介さがわからねぇんだよ」
「む。お前みたいな野良猫には、人間の優しさがわからないんだ」
「んだと?!」
「なんだ?!」
 まさに一触即発。
 お互いに牙と爪を剥き飛び掛ろうとしたときでした。

 ――――紫苑く〜ん?

 遠くから人間の声が聞こえてきました。
 その声に白猫は敏感に反応し、耳をぴんとそばだてます。
「ん?どうしたんだ?」
「……壱与だ」
「え?」
 白猫は呟くと黒猫へ向いていた体を反転させて駆けて行きます。
「お、おい、待て!逃げるのか!!」
 黒猫は思わず慌てて追いかけました。
「……」
 黒猫が追いかけた先にいたのは、人間の少女に抱き上げられ頬を摺り寄せて甘える白猫の姿でした。黒猫はすぐに理解します。これが、あの白猫の飼い主だと。

 にゃん。

「ん?どうしたの?紫苑くん。―――あれ?その黒猫…あっ、引っ越してさっそくお友達ができたの?良かったね〜」
 白猫が前脚を軽く挙げて一鳴き(ひとなき)すると、その人間は足元の黒猫に気づいたようでした。初めは不思議がっていましたが、すぐに勝手な解釈を見つけたのでしょう。嬉しそうに白猫に笑いかけ白猫を下に降ろしてやります。
「……紫苑っていうのか?それがお前の飼い主?」
「そうだ」
「人間なんかに媚売って、何が楽しいんだ?」
「俺は、人間が好きだ。俺たちを好きな人間は、俺たちを痛めつけない。逆に、俺たちを痛めつける人間から助けてくれる。―――――俺も、助けてもらった」
「……」
「じゃあな」
 白猫はくるりと背を向けると、人間の下へ駆けて行き、人間を見上げるようにしてまた一鳴きします。そうすれば、その人間は「もういいの?」と首を傾げながらも、白猫が答えるように鳴くので、微笑んで白猫――紫苑を抱き上げて来た道を戻って行くのでした。
「ぁ、俺は―――!」
 黒猫の声に、紫苑が人間の腕の中から首だけを巡らして振り向きました。しかし、黒猫はそれ以上の言葉を紡ぐことができませんでした。
 黒猫には、名乗ることのできる名前がなかったのです。
 目を開き、歩き始めた頃には、黒猫はもう一人(一匹)でした。それからずっと一人で生きてきたのです。名前を呼びたい相手に会うことも、名前を呼ばれたい相手に会うことも、ましてや名前を名乗りたい相手になんて、出逢ったこともありませんでした。だから、名前の存在さえ、これまで気にしたことがなかったのです。
 だから、遠ざかっていく紫苑の姿を、自分のことを何も伝えることもできないままに、ただ見送ることしかできませんでした。


 その夜、黒猫は一人で歩いていました。紫苑という白猫との出逢いが忘れられず、食欲もなくただ歩いていました。
 自分は決して忘れられそうもないあの猫が、しかし自分のことはいつか忘れてしまうかもしれないと考えると、ひどくイライラしました。
 だからなのかもしれません。
 いつもはこんなに人間が近づいてくるまで、気がつかないということはないのに、今日はその後ろ首を掴まれて抱き上げられるまで、人間が自分にその手を伸ばしてくることに気づけずにいたのも、その手にあっさりと捕まってしまったのも。
 黒猫は慌てて手足を振り回します。しかし、宙吊りにされた状態ではどのような攻撃も人間の元へは届きません。
「ほぉ、すばらしい猫だ。もしかして、この子猫があの噂に名高い黒猫かな?」
 頭上から人間の声がしました。それと同時に、黒猫は人間の目線の高さへと吊られている躯を引き上げられます。
「ほお、見事な紅瞳だ」
 黒猫はその人間を睨みつけますが、人間は一向に気にしません。にこにことした――しかし何故か悪寒のする――笑顔で黒猫を見分し続けます。なんだか逆らわない方が見のためな気がして、黒猫は本能的に攻撃するの事を忘れました。
 人間は黒猫に近づけていた顔と視線をおもむろに遠ざけ、しかし黒猫は宙吊りにしたままで何がそんなに嬉しいのか嬉々として宣告しました。
「よし、お前の名前は今日から紅真だ」
 …………。
「はっ?!ふざけんな!!」
 黒猫は猛然と暴れ始めました。なんだかわかりませんが、目の前にいるこの人間は一人勝手に黒猫を名前をつけて飼う気になっているようです。
 猛然の抗議は、しかし悲しいことに人間には通じませんでした。
 当然です。人間は猫の言葉を理解することができる脳を持ってはいません。
「あっはっはっは。そんなに嬉しいか」
 しかし猫には人間の云いたいことが理解できる脳がありました。勝手なことばかりほざく人間にどうにか一矢酬いて、この煩わしい手から逃れたい!!黒猫は必死で抵抗しましたが、その行為もむなしく、気がつけばその人間の家に連れて行かれ首には勾玉の飾りのついた首輪。どんなに首を地面に擦りつけてみても外れないほどにジャストフィットしています。
「私の名はシュラだ。よろしく頼むぞ、紅真」
 にこにこ笑顔でなんだか勝手に名乗った人間――シュラに、紅真はもう抵抗するのも馬鹿らしくなって半眼無言で睨みつけるだけでした。疲れて零れるため息が洩れるくらいは許して欲しい。誰にともなく思います。

 ぴんぽ〜ん。

 高い音が響き、シュラはどこかへ歩いていきました。響く高い音は、黒猫――紅真にはあずかり知らぬことですが、インターホンといいます。
「ただいま〜」
「お帰り、壱与、紫苑」
「ただいま、お兄ちゃん」
 にゃぁ〜。

 聞き覚えのある声が立て続けにして、紅真は慌てて立ち上がり声の方へと駆けていきました。
「あれ?その黒猫」
「ああ、さっき拾ったんだ。きれいな猫だろう?」
「うん!あ、その猫、もしかしてさっき紫苑くんとお友達になった猫かも」
「おや、私よりも先に会ってたのか?」
「うん。ね?紫苑くん」
 にゃぁ〜。
 紫苑が壱与の腕から飛び降りて、紅真の目の前に降り立ちます。まっすぐと紅真を見つめて口を開きました。
「どういう風の吹き回しだ?」
「…別に」
「まあ、別にいいけどな」
「紫苑…」
「それで?」
「え?」
「お前の名前は?」
「!」
 紅真は目を見開きました。そしてその一瞬後、
「―――紅真」
 答えました。

「そうか。よろしくな、紅真」
「ああ…―――!」

 紫苑に話しかけていた途中で、紅真は突然抱き上げられて、その言葉を飲み込みました。
 抱き上げたのは壱与です。両腕で、赤ん坊に高い高いするようにして紅真を頭上に掲げ、兄から聞いたばかりの名とともに、その名付け親であるシュラに負けず劣らずの嬉々とした笑顔で告げました。

「私は壱与だよ。これからよろしくね、紅真くん」

 にゃ、にゃぁ…(お、おう…)。

 勢いにのまれて、紅真は弱々しいながらも声を上げます。
 それが嬉しかったのか壱与は紅真を頬擦りして抱きしめます。

 にゃっ!!にゃぎゃっ!!(や、やめろ〜!!)

 なんとかその腕から逃れようと暴れますが、その腕の拘束は一向に弱まる気配を見せません。ふと下方に眼を向けると紫苑がおかしそうに目を細めて笑っています。

 にゃ、にゃぎゃー!!(てめぇ、見てないで助けろ〜!)
 にゃぁ。(そのうち慣れるさ。今は耐えるんだな)

 そんな会話が交わされたようですが、猫たちの会話を理解する術をもたぬ人間に、その真相はわからないまま。
 愛猫家の猫たちは、こうして一つ屋根の下。




 あなたが大好き
 そう告げるあなたを
 私は拒みきれない




この日はこうして、黒猫にとってとても稀有な日となった。





----+ こめんと +----------------------------------------------------

 初め紫苑総受けっぽくしようと思ったんです。愛猫家=紫苑。猫たち=紅真、壱与。みたいな。飼い主の紫苑の寵愛を取り合って、紅真にゃんこと壱与にゃんこはいつも喧嘩ばっかりしてる、みたな?
 紅真の首に掛けられたのは、原作で紅真が首に掛けていたものとまったく同じものをイメージしています。色が分からないから書けない(泣)。単行本の二巻で紅真がカラーでいてくれて本当に良かったと、心から涙を流してます(だってそうでなかったら今頃、髪の色も眼の色もわからない…)。紫苑の首輪は外套の色と月の刻印をあわせた感じでイメージしていただけると嬉しいかと。
 壱与とシュラは…初めは全然赤の他人で、愛猫家同士のご近所さんくらいにしようと思ったんですよ。でもなんか(紫苑と紅真の再会に)うまく(短く)こじつけられなくて。…親子にしようかとも思ったんですが、壱与とシュラが家族だってことでも怒られるかもしれないのに、シュラを親父にしてしまったらさらに怒られるかも?!と…。二人は仲良し猫好き兄妹ってことで(乾笑)シュラは私の中ではどうしても紫苑や紅真に対して「親馬鹿」なイメージが抜けない…。
 なんか色物っぽいので裏行きにした方がいいですか?(不安)
 しかもコメントがこんなに長く…ごめんなさい。読んで下さってありがとうございます(もちろん本文も)。
 ご意見ご感想お待ちしております---2004/03/01

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