鴉 




どうすればいいというのか。





 彼は鴉のような漆黒の髪をしていた。濡れ羽色の艶やかなその髪を、彼に嫌われた色素の薄い少年は密やかに気に入っていた。それは自分の持ち得ぬものへの羨望であるのかもしれない。彼の放つ強烈な輝きに惹かれているだけなのかもしれない。それでも少年は、彼のその漆黒の色の髪が好きだった。
 少年の名は紫苑。この辺りではひどく珍しい白銀色の髪をしていた。
 蒼みがかったその髪は軽く、風が吹けばそれに乗り軽やかに揺れる。陽のひかりに照らされてきらきらと輝くそれは、父親譲りのものだった。ただし、父親のそれはもっと太く色の濃い、力強さを感じさせるものであったけれど。
 少年は自分のそんな髪が好きではなかった。もっとはっきりいってしまえば大嫌いだった。髪だけではない。彼はその瞳も肌も嫌いだった。
 彼の瞳は奇妙な黒色をしていた。墨を水で溶かして乾かしたような色に似ていた。漆黒の髪を持つ少年の瞳とは正反対だと感じていた。
 漆黒の髪の彼の瞳は鮮やかな紅だ。炎より赤く血よりも明るい。彼の持つ烈しさが体現したかのようだと紫苑は常日頃に感じていた。
 肌の色にしても、紫苑が病的に白いのに対して彼は鍛えられた農夫のように健康的である。引っ掻き傷が、蚯蚓が肌の下を這っているかのように毒々しい桜色に腫れ上がることもない。修行で傷を作る度に、紫苑は自分の肌の柔さに眉をしかめるのだ。
 自分の劣等感をかき立てて尚、羨望させるその魅力は、決して肉体的な部分に限ったことではないはずだ。でなければ、こんなにも目映く感じて惹かれるように憧れるはずがないと思う。だからこそ、彼に憎悪の目を向けられる度に切なくなるのだった。
 ただ彼に並びたいだけなのに、何がそんなにいけなかったのか。紫苑はことあるごとに自問する。いつだって答えはでない。差し出した手をはねのけられる理由もわからない。自分が理解しないからこそ嫌われるのだろうか。彼に対等に扱ってもらえたならばと思う。そうすれば、大嫌いな自分がほんの少しでも好きになれそうな気がするのだ。
 それだけが理由ではないけれど、だからこそといっても差し支えないほどの割合を秘めているだろう。紫苑はいつだって、真剣に取り組んだ。どんなに厳しい訓練にも、どんなに辛い任務にも。
 どれほどの痛みに見舞われようとも、どれほどの悲しみに襲われようとも。いつだって、真面目に取り組んできたのだ。
 彼の名を紅真といった。
 名前まで自分と対極にあるのかと苦笑した日は、今はもう遠い。あれから年齢さえ変わるほどの月日を経た今、彼が紫苑に向ける憎しみと…それは何に対してなのだろうか。激しい苛立ちの込められた眼差し。それらは収束の気配さえ見せないまま、今も一刻一刻と時を重ねるごとに増し続けている。
 それに気づきたくなかった。晒されたくなかった。
 紫苑の願いはむなしく無視されたまま、尚も月日は流れていった。


 紫苑がここ最近は滅多に鉢合わせすることもなくなった紅真と向かい合うような形で出会ったのは、蒸し暑い梅雨の深夜のことだった。互いに任務を終えて帰還してのことだった。
 肌に粘りつくような湿気の満ちる晩だった。満ちた月の明かりが恨めしかった。真の暗闇を歩いていたのであればこのまま、互いに気づくことなくすれ違ってしまえたかもしれないのに。
 向けられる激しい憎悪に切なさを覚えながらも、紫苑はその心奥が歓喜に震えるのを止めることができずにいた。その、命までも迸るかの如く烈しく、荒々しい力強さに惹かれずにはいられなかったのだ。
 少しでも気を抜こうものならば心を突き破って体までもが震え出しそうだった。
 紫苑は強く拳を握り締め、それに耐えた。

 どれほどそうしていただろうか。おそらくは緊張に――それは一方的なものであるのかもしれなかったが――耐え切れなくなったのだろう。紫苑は口を開かせた。
 自分にしてみれば戦慄くようであったのではないかと感じる。実際にはどうであったかなどは知る由(よし)もない。

「俺…紅真の髪が、好きだ」

 脈絡がなかった。何も考えていない、何も考えられない状態でなのだから当然ともいえた。自分の発した言葉の意味はもちろんだが、発した言葉さえ、紫苑は理解していなかった。
 あるいは、言葉を発したことにさえ、気がついていないのかもしれない。

 さくっ。

 湿った空気には似つかわしくない、乾いた音が響き、紫苑は我知らずびくりと肩を揺らした。紅真が一歩を踏み出した音だった。
 一歩。また一歩。
 紅真と紫苑の距離が短くなっていく。
 その距離が限りなく零(ぜろ)に近くなったと感じられたその瞬間。

「痛っ」

 突然こめかみの辺りの髪を掴み上げられて強く引かれ、紫苑は痛みと衝撃に顔を顰め僅かな悲鳴を上げた。

「なんだよ、それ」

 紅真が何を言っているのか、紫苑には理解できなかった。ただ、ゆっくりとその距離が縮まるのを見つめていた。
 触れ合ったそれは湿っていた。
 今宵に満ちる夜気のように粘りつくようだった。蛇のように絡まり、華のように瑞々しい。その感触に、眼前に写る真紅の瞳に、紫苑は我知らず振るえた。どんな感情による震えであるのかは、理解できなかった。
 再び距離は広がり、唇が朱く色づいていた。妖しいばかりに艶めいているそれを、紫苑は呆然と見つめていた。引きつられ続ける髪の痛みさえも忘れて、ただ、魅入られたように。心奪われたかのように、見つめるだけだった。


 今、あのときの距離から比べれば、途方もないと感じるほどに、二人の距離は離れている。
 紫苑は無言で、足元に落ちていた黒い鳥の羽根を拾い上げる。翼から離れ落ちた漆黒の羽根が一枚。先端を摘まみ、擦るようにして回してみた。
 突然、風が吹いた。
 紫苑の髪を舞い上げ、それに気をとられた瞬間。
 羽根もまた、空に舞い上げられていた。
 蒼く抜けるような初夏の空に、黒い羽根が一枚。舞い上がる。
 紫苑はそれを見送っていた。ふと、唇に触れる。何を思い出してというわけでもなかったが、妙に離し難く感じて、ゆっくりと擦るように指を動かしていた。
 瞳を閉じる。
 遠くから自分を呼ぶ声が聞こえ、紫苑は瞳を開ける。唇から指を離し、黒い羽根の消えた空に背を向けた。





この距離はもう埋まらない?





----+ こめんと +----------------------------------------------------

 パソ故障中に携帯電話で書きました。なので漢字の使い方とか改行の感覚とかちょっといつもと違うかもです。最近、紫苑→紅真ばっかり書いてますか?
 ご意見ご感想お待ちしております_2004/06/08

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