■ 暗黒の常春 ■
あまりにも暖かかったので、辺りの暗さなど、どうでも良かったのです。
「お前は日に日に亡くなった母上に似てくるな」 そう云って優しく頭を撫でてくれる大きくて暖かな手は、大好きだった。だから、紫苑の声は怒りとは程遠いもので満たされていたし、その瞳に映る光は穏やかなものだった。 「でも父上、母上は黒髪に黒い瞳でしょう?肖像画を見ているから知っています。僕の髪も眼の色も父上と一緒だし、僕は男だもの。父上に似てるでしょう?」 僅かに頬を膨らませて云う息子に、蒼志は彼の息子の頭を撫でる手を止めぬままに、穏やかな父の笑みで返した。まだ小さいその息子は大きな瞳をさらに大きく見開くかのように一生懸命に蒼志を見上げている。それがあまりにも愛らしくて、蒼志は瞳を細めた。 「お前が俺に似てるのはそれだけだ。あとは母上に似てるな。顔なんてそっくりだ」 蒼志は腰掛けていたソファから腰を上げた。息子に腕を伸ばし抱き上げる。 頭に腕を伸ばして抱きつく息子は、今度は父親を眼下に見ながらなおも言い募る。 「でも、僕だっていつかは父上みたいにおっきくなります。そしたら、絶対に父上みたく強くなります!!だから、父上に似てるでしょう!!」 「ははは、そうだな」 一生懸命に、半ば剥きになって言い募る息子が愛しくて、蒼志は声を上げて笑った。男らしいその豪快な笑い方は、紫苑の憧れる父親の行為の一つだ。 「さてと、そろそろ風呂に入って寝ないとな。また夜更かしをしたとばあやに怒られるぞ」 「……お風呂、」 「どうした、紫苑。父上と風呂に入るのは嫌か」 「……いえ、」 「あはは、今日も父上が紫苑を洗ってやるからな。紫苑も父上の背中を流してくれるんだろう?」 「…ハイ、父上……」 紫苑はぎゅっと、蒼志の頭に腕を回してその頬を蒼志の髪に押し付けた。蒼志が楽しそうに笑っている。紫苑は先ほどまでの愛らしい幼子の表情を暗く沈ませて、父が歩むに任せていた。 高く朱く燃え上がった炎の勢力は姿を消し、黒く細い煙を僅かに立ち上らせながら燻っているだけとなった。美しかった王宮は鮮血と瓦礫に染まり、鮮やかだった緑の草原は焦土と化している。王宮から見下ろしてもその賑やかさと明るさのわかった城下町は哀しみと疲労、不安と恐怖に彩られていた。 「よくも父上を!!」 憎悪に瞳を曇らせて叫ぶその姿に、シュラは口端を僅かに上げるただけだった。つい今しがた滅んだ国の王子。 煤と灰に汚れた全身に、手足を縛られて地面に転がされてなお、猛る鋭気を放つその瞳に写る自身の姿に、シュラは一瞥をくれただけで去っていった。彼にはまだやるべきことが多くあり、彼に意見を求めるものもまた多くいた。 薄暗い地下牢は、目が闇に慣らされたからこそ「薄暗い」程度で済んでいるのかもしれない。地面の剥き出しになった床に触れる部分が痛む。打撲、裂傷によって身の内に熱がたまっていた。汗が伝い躯が冷やされる感覚が気持ち悪く、しかし眉を顰める力さえも少年には残されていなかった。 荒い呼吸音が耳を埋め尽くす。自分の呼吸音であると、理性ではなく霞む視界が理解する。呼吸音を視界に捉え、激しく鼓動を繰り返す胸のリズムを全身で感じた。心臓が動くことが煩わしかった。 死にたいのではない。生きていたくないわけではない。 それが鼓動するたびに躯が打ち震えさせられるようで、体中いたるところに広がる打撲をさらに打ち付けられるような気にさせられるのだ。躯の打撲部位をさらに打ち付けられて、痛みを癒すために休むことさえできない。 もう少し、もう少し。 静かに呼吸ができればいいのに。 後ほんの少しでいいから、穏やかな呼吸を。 そうすれば、痛みはこれもやはりほんの少し引くだろう。痛みが引けば呼吸はさらに落ち着いてくる。そうしてやがて痛みは去り、再び立ち上がれるようになるはずだ。 紫苑は荒い呼吸を繰り返しながら、霞む視界の中で考える。 目に写るのは牢の不清潔な天井部分。明かりなどどこにもないのに、あたりの様子がわかるのが妙に不思議でおかしかった。これが、つまり闇に慣れるということだろうか。 声を出して笑ったつもりだったが、そんな体力はやはりなかったらしい。不規則で激しい咳き込みに、躯がバウンドしただけだった。 音がしたのはその時だった。 漠然とした意識の中でとらえていた自分の行動によって起こっているであろう音ではない。聴覚神経がとらえた不確定要素の「音」だ。 錆びた扉が開かれるような音だった。 聞き覚えのある音というよりは、連想に容易い音だ。蝶番の擦れる甲高い音と、地面と重量のある鉄版との擦れる音。密やかで煩わしそうな人の声。 牢とその外との世界を繋ぐ一枚の扉がゆっくりと開かれた音だ。 湿気の多い不衛生なここでは、治る傷も治らない。化膿し、膿んで、やがて腐っていくだけだ。 だから、乾いた足音などしないはずなのに、耳に程近い位置から響くその足音が乾いて聞こえた。もっとも、そんな足音の差異にまで気を止めたことなどなかったから、それはそう感じただけで、実際にはその音こそが、湿った地面を歩く音だったのかもしれない。 仰向けのまま、胡乱気な視線を紫苑は投げ掛けた。視界が霞んでいた。首をめぐらせ顔を動かそうとしたが、眼球が動いただけだった。それをとどめおくことさえ辛かった。 霞む視界にとらえられたのは色だった。 二対の朱(あか)が暗闇色の宙に浮かんで、まるでこちらを眺めているようだ。 紫苑はわらった。目を細め、口端を引き上げて笑ったつもりになった。 暗闇に浮かぶその鮮やかさがあまりにも残酷で、あまりにも美しかったから。笑わずにはいられなかったのだ。 それがどういうった種類の笑みであるのかなど知らない。ただ、どうしようもない感情に立ち当たったとき、人は知らず微笑むらしいかったので、その一種なのだろう。 「久しぶりだな、紫苑」 声がした。 久しぶりに聞いた声だ。 それも自分に投げ掛けられたものらしい。 紫苑はまたわらった。 そうすれば、その声の主(あるじ)もわらったらしかった。 「だっせぇ格好だな」 それは紫苑の姿を指して語っていた。 美しく煌めく銀の髪は灰色にくすみ、透き通るほどの白い肌は赤黒い打撲の痣に侵食されている。宝石のように煌めく澄んだ紫水晶の瞳は飢えに濁り始めていた。 紫苑は唇を歪めた。笑いたかったのだ。 目の前にいるはずの相手に、微笑みかけたかった。 「なんだ、もうしゃべることもできねぇのか」 紫苑は眦をゆるやかに弓なりにした。笑いたかったのだ。 目の前にいるはずの相手に、微笑みかけたかった。 声の出ぬ代わりに、微笑みかけて、キスをねだりたかった。 「紫苑…」 ――――――紅真。 紫苑は口を開いた。声を出したかったのだ。 目の前にいるはずの相手の名を呼びたかった。 自分は夢を見ているのだろうか。まさかこのような状況で、このような場所で、自分の中のもっとも麗しい記憶と直線で結びつく相手に相対できるとは思わなかったから。 きっと狂っているのだ。 狂ってしまいそうなほどの喜びに、心が震えている。 この熱も、荒い呼気も、すべてはその人に逢えたが故の、胸の高鳴り。喜びに頬が高潮し、胸の震えるほどの興奮に包まれる躯。 それまでこの身を包み込み、荒々しい激情と共に己を支配していた憎しみも怨みも何もかもが霧散して、ただただ喜びと愛しさに心が打ち震える感覚。 ――――――紅真。 呼べばいつだって答えてくれる魔法の呪文。 口にのせればいつだって力強い腕と温かな胸が包み込んでくれる、それは自分だけの魔法の呪文。 自分にだけ許される暖かな魔法。 紫苑は口を開きたかった。 なんとかして声を発したかった。 たった一言でいい。 その絶対の魔法の呪文はただの一言だ。 どんなに小さな声だろうと、それは音にして発すればかならず効力を持つのだから。 紫苑は瞳を閉じた。 視界が完全な闇になる。 どれほど闇に慣れようとも、この闇の中には何も見出すことはできない。 はじめから何もないのだから、まるで明かりが灯っているかのような錯覚を受けさせるなにものも、写らない。 米神にちりりと痛みが走った気がした。 涙が流れたなどとは、思いもよらなかった。 何もないはずの闇を落ちていくほどにクリアになっていく、気の狂いそうなほどの至福の時に、ただもう早く触れたかったので。 父親は優しくて逞しくて大好きだった。この人を妄信的に尊敬して、この人の後を継ぐことが自分の役目なのだと聞かされ続けることは、小さな胸を大きく膨らませるに足る誇らしいことだった。 父親の後を継ぐということは、自分の生まれた国の王様になるということで、周りにいる誰もが、それはとても名誉なことで責任も重いものだと語る。誰も彼もが皆、重々しく、したり顔で、概ね同じ内容のことを同じような台詞でもって得々と語るのだ。 芸のないそんな彼らの言葉の一つ一つに、真剣に耳を傾けて相槌を打っていた自分。教え込まれる一つ一つのことすべてを完璧にこなそうと努力する自分。できなければ眉を顰められ、それが次第に怖ろしくなってきた自分。それから逃れるために、ただただすべてのことに従ってきた自分。 気がつけば、否の台詞を忘れていた。 首を横に振ることが怖かった。できないと云えば、眉間に皺が寄る。その皺の意味に気がついてしまえば、声を出すことなどできないばかりか、顔を上げることさえできない。 ただ顔を俯けておく。 そうすれば、頷いているように見えるから。ほんのちょっと顔を上下に動かすだけで、彼らから発せられる疲れたような溜息は咽の奥に引っ込むのを知ったから。 ほんのちょっとだけなら、首を縦に動かすことができから。 これは弾み。弾みで首が動いて、まるで頷いて、肯定しているように見えただけ。 だから、できなくても、嘘にはならないよ。 必死に自分に言い訳をしてた。慰めていた。 嫌なことがあるたびに、それが自分にとって「嫌」なことであるという事実を必死に曲げようとしてた。 たいていは成功していた。 成功していると思っていた。 ただ我慢しているだけなのだと気がついたのは、突然現れた彼のせい。 朱い瞳の、彼のせい。 お腹の中にどろりとした白濁の液が溜まっているのを知っていた。気持ちが悪くて蹲っていたそこは、調理場に続く貯蔵庫の隅。 地下を石で固めたその部屋は広く、ひんやりと冷たい。所狭しと溢れんばかりの食材が積み重ねられることできた死角。 「けほっ」 いつものように息苦しさに咳をした。いっそ吐いてしまえたらいいのに。 飲み込んだときが逆流するように、べたべたと気持ちの悪いそれが息苦しい咳と共に流れ出て消え去ってしまえばいいのに。 今日はいつも庭を整えている若い人だった。名前は知らないが、いつも笑いながら花の話を聞かせてくれる、大好きなお兄ちゃん。 体中を触られて、舐められて、くすぐったかったり痛かったり。でも声を出しちゃいけないのも他の人と同じだと思ったからそうしたら、これもやっぱりいつもと同じ。「いい子だね」って頭を撫でられた。 何が楽しいのかわからないけれど、みんなはいつも笑ってる。 「お洋服を脱ぎなさい」って云って、ぼくが自分で脱がないと駄目な人と、「いい子にしててね」って云いいながら黙々と――これはいっそ切羽詰った様子で僕の服を脱がせていく人と。何も云わずにぼくを裸にする人と。 自分も裸になる人と、ならない人と。 これはいろいろだけれども、みんなけっきょくは同じことをして、同じことをさせる。ここでの「いい子」は、つまりは何も云わず、何も刃向かわず、すぐにこのことを忘れてしまうことだと、いつの間にか知っていたから、その通りにした。 「いい子」ではないことが酷く怖かったから、それは自然と自分の中で当たり前のことになった。多分、当たり前の事として受け入れていた。 だって、あの、僕を見つめる瞳の中に、絶望のようなものを見るのは本当に嫌だったんだ。 でも、それさえ自分への言い訳だった。 何も知らない無知で惨めな自分が、それでも漠然と感じ取っていた、「無知で惨めな自分」を認識しないための、言い訳。 みんなはぼくがきれいでかわいいからそうするのだと云う。でもぼくはこれには反論していいみたいで、だからぼくは云う。 ぼくはかわいくなよ。ぼくはおとこのだもの。父上みたいに、かっこいいでしょう。 そうすれば、みんな嬉しそうに目を弓なりに眇めて微笑い、ぼくを見た。 「けほっ」 また咳が出た。生臭さにむせ返るようだった。 気持ちが悪いのに吐き出せない。口元を手で押さえていると、空気の流れが変わるのを肌で感じた。 誰か来たのかしら? 少し心配になった。これは誰にも知られてはいけないことで、ぼくがここにいることは、本来褒められたことではないから。褒められないことは、つまり好ましくないということで、けっきょくは良くないこと、いけないこと。 してはいけないこと、あってはならないこと。 見られてはいけないこと。 地下の扉から風が入り込んできたのだろう。冷たい風が流れ込んでくるその先に視線を向ける。僅かな光の筋に埃が舞う様が、まるで万華鏡の中に迷い近かのように幻想的に見えて、その現実と受け取る心情とのギャップに可笑しさが込み上げる。 塵(ごみ)とて光に当てられて宝石のように輝いて見えることがある。今まさにそのように。 では、宝石もまた、芥のように誰の目にも止まらぬものに成り果てることがあるのだろうか。 「だ、れ…」 声を出す。口を開くと飲み込むことのできない粘液が顎を流れて行く量が増す。それが酷く惨めだと感じながら、なぜそう感じるのかなど知りようもなかった。 「バカだな…お前」 「君は、誰?」 ねぇ、このことを内緒にしてくれる? 「隠さないといけないって事は、良くないってことだろ」 光はないが、その色彩をはっきりと知ることができたのは、もうこの闇の中に、とうに目が慣れてしまっていたからだろうか。それとも、慣れていたのは目ではなく、闇の中に全身が浸かり、闇そのものに染まっていたからか。 「そう。見られたらいけなくて、知られてもいけないことなんだ」 だから、秘密にしてくれる? 「どうしていけないかって、知ってるのか?」 唇よりも朱が鮮やかな瞳を眇めて問いかけてきたので、紫苑はそれをもったいないと感じた。その瞳の色があまりにも美しかったので、それが僅かにでも隠れてしまうのもが惜しかったのだ。 「いけないことに理由はあるの?」 「理由もないのにどうしていけないと思うんだよ」 「みんながダメって云うよ」 「それが理由だろ」 「それだけじゃないよ。みんながそうしたら「いい子」だって云うもの」 紫苑は微笑った。 自分と同年代の少年を見るのは初めてではないが、こんなに近くにあって話したのは初めてだった。その少年の腕が持ち上がり、自分に向かって伸ばされるのをぼんやりと眺めていた。 ひたりと、少年の親指が紫苑の左頬に触れた。 思わず呟いた。 「…あれ、嫌じゃない」 その言葉に驚いたのは、言葉を発した紫苑自身。 「触れられるのは嫌いなのか?」 問いかけられたので、首を横に振った。触れられた指に邪魔にならぬように、それはとても微かな動きであったけれど。 そして小首を傾げるようにする。 「わからない。だって、今までそんなの感じたこと、なかったもの」 それよりも、ねぇ、このことを、内緒にしてくれる? 少年は眉を顰めた。 「元々、こういうことはむやみやたらに言い触らすことじゃねぇんだよ」 「そうなの?」 それなら安心ね。 少年はますます眉を寄せる。 それからおもむろに、紫苑を抱き込んだ。 「嫌じゃない?」 「嫌じゃないよ」 唇に触れられても、髪に触れら手も、べたつく気色の悪い状態の肌のどこに触れらても。 「嫌じゃないよ」 ねぇ、それよりも君こそ嫌でしょう? だって、ぼくはこんなにべたべたで、痣だらけで、汚らしくて、気持ちが悪い。 「お前…バカだなぁ……」 その少年は、どうにもこうにも、眉を顰めておかずにはいられないようだ。 泣きそうな顔をして笑うという、ほんとうに器用な表情をしていた。 抱きしめられてこんなに暖かいと感じたのは初めてだったので、紫苑はしばらくの間――それこそ、この見ず知らずの少年が体を離すまで――じっとそこにおとなしく座して、抱きしめられ続けていた。 人に触れられてこんなに心地良かったのは初めてなので、思わず、瞳を閉じてその心地良さに身をゆだねていた。 「紅真、今日もきちんとお断りしたよ」 紫苑は嬉しそうに報告した。 お城の中の一番下の一番暗いところ。紅真は自分を呼ぶときはそこに来るようにと云った。そこでなくとも呼べば応えてくれるけれど、紅真がそうする方がいいと云うので、紫苑もそうする方が嬉しかった。 「撥ね付けて脅してやればいいんだよ、あんな奴ら」 紅真の云う「あんな奴ら」というのは、これもまた紅真の云うところの「紫苑の体を今まで弄って喜んでいた奴ら」のことである。 紫苑は彼らに触れられることに痛痒を感じていたわけではないが、嬉しいことでないのは確かであったし、紅真がそれは「よいこと」ではないと云うので、嫌になった。良くないことに対して否をいうことに躊躇いはないので、判断が百八十度変更すれば、対応もそれに合わせて変更させられることになにを躊躇う必要があろうか。 何よりも、紅真が云うのだ。 そうして抱きしめてくれる。 腕を伸ばせばその手をとってくれ、しっかりと背中に腕を回してくれるのに。 「でもね、紅真」 紫苑はとたんに悲しい表情になった。怒られることはないけれど、失望させるだろうことを報告するのは心が痛む。 「親父は拒めなかったか?」 紅真が先回りして口にしたそれは、まさしく的を得ていたので、紫苑はただ頷いた。項垂れるのとたいした違いはないその姿に、紅真は口端を引き上げて眉を顰めた。 「父上には逆らえないんだ。いつも正しいし、とても厳しい人だから時には嫌な事だってあるけれど、嫌だからで済ませていいものばかりではないだろう?」 紫苑は云う。父王を崇拝して、信じきっている。疑うことを知らない代わりに、それは根が深い。 紅真は紫苑の伸ばしてくる腕を取り、その小さな体を引き寄せた。たいして体格の違わない自分の腕の中に抱き込むようにすると、紫苑は嬉しそうに笑う。そうして、ふっくらとやわらかな頬を紅真の胸に摺り寄せるようにして甘えてくるのだ。 抱きしめて、キスをする。 紫苑がそれを欲しがるから、紅真はそれを与えた。 その行為が禁忌だなどと紅真は思っていない。道徳的に良くないと知っていて、だから禁忌だなどと片付ける思考はしていなかった。 良いことがかならず正しいわけでもなく、良くないことがかならずしも正しくないわけでもない。人の心はそれ以上に複雑で、禁忌であるから止められるというものでもなかったし、嫌悪しているから避けられるものでもなかった。 彼にとっては紫苑が求めているものを無償で提供し続けることが重要で、その意味も善悪も必要ではなかった。 呼ばれれば必ず姿を見せた。 呼ぶというのは、その名を持つ存在の姿を目にしたいということだと理解していたから。 腕を伸ばしてくればその中に身を滑らせた。 手を伸ばすということは、伸ばした先にあるそれを手にしたいということを知っていたからだ。 背に縋るように腕を回されれば、同じようにその背に手を置き抱き寄せた。 誰かの背に腕を回すということは、その誰かを自分の方へと引き寄せたいということだと知っていたからだ。 決して、紫苑の求めているものを理解していたわけではない。 それでも紫苑はそれらの行為の一つと一つに、きれいに微笑みを返した。嬉しそうに笑顔を見せて、瞳を閉ざし、その好意から得られる幸福に身を浸からせた。 ゆっくりと口づける。 体内の温度を感じる。 それは触れ合うだけのどの行為よりも高い熱を、互いに伝えてくる。 寒い寒い暗闇のそこでは、どれほどの灼熱でもあっても得がたいもので。たとえこの身が焦がされても、その熱を放つ炎に触れずにはいられない。 「父上も、悪いことなの」 紫苑はそっと訊ねた。上目使いに紅真を見やるその紫水晶は、不安に揺らめいている。 紅真は無表情にそれを見やった。しばらく眺めてから、口を開く。 「いいんじゃねぇのか。紫苑がそれでいいなら」 その台詞は、紅真にとって実に複雑なものだった。 それをやめさせたいと叫ぶ自分が胸の奥深くで自分を乱暴に引き摺ろうとしているのを感じていた。それを無理矢理抑えつけて、理性を総動員する。 語るべき言葉を語るために。 こんなことは初めてなので、理由もわからなかったが、これはおかしいことなのだ。本当は、紫苑にそれをやめさせるべきはないのだから。 紫苑は微かに微笑んだ。 紅真からの許しが得られたことにほっとしているようだった。 紅真はそれに微かに笑う。紫苑が紅真の意向を受け入れるべき理由はどこにもないのだと知っていたからだ。 バカだなぁ…と、思う。 本当に、バカだ。 きちんと自分で考え行動できるのに。 誰よりも潔癖で誇り高い魂を持っているのに。 小さく愛らしいその姿は真っ白な心を内包したまま、白い心は永遠に染まらぬままであり続けるのに。 たった一条の陽光(ひかり)さえ浴びることができぬために。 たった一滴(ひとしずく)の水さえ得ることができぬために。 たった一撫での風さえ感じることができぬために。 芽を出すことができぬまま、暗い暗い土の中で、永遠に眠り続けている。 バカだなぁ…と、思う。 小さなこの種は、本当は、どのような姿を秘めているのだろう。 たった一条の陽光さえあれば。 たった一滴の水さえあれば。 たった一撫での風さえあれば。 この種は土の上に芽を出し、やがてその魂にふさわしい姿を咲き誇らせるだろうに。 「やっぱり、お前はバカだ」 いつまでたっても変わらない。 牢の鉄柵の向こう。うっすらと微笑を浮かべて横たわる紫苑に向けて云った。微かに開かれていた瞳には涙が溜まっていて、それがどういった種類の波であるのか、紅真には判然とはしなかった。 必死に何かを告げようと口を開閉させようとしていた。咽を振るわせようとしていた。 あるいは体を起き上がらせて、腕を伸ばそうとしたのかもしれなかった。彼が紫苑に会いに云ったときは、そうして抱きついてきたからそう思っただけで、実際のところは何もわからないままだ。紫苑がどうして微笑んでいたのかさえ、紅真にはわからなかったし、今現在、首を紅真へ向けたままの姿を最後としていることさえ謎のままだった。 「わけ、わかからねぇ奴」 最初から最後まで、わからない奴だった。 けれど、微笑った顔はとてもきれいだったから。 その瞳はとても温かかったから。 なんとなく。 なんとなく。 最後に読んだのは、彼がつけた自分の名前だったようだから。 紅真は不意に哂った。 彼を拾った男も、目の前で灯火(ともしび)の費(つい)えた彼も、みな自分に同じ名前をつけることに奇妙な感慨を抱いたらしかったからだ。そんな自分に軽く驚き、そんな自分におかしさを覚えた。そうすれば不意に哂いが口端に浮かんだ。 この紅い瞳が他人の目にはよほど印象的に写るらしい。 この顔も声も、なにものも覚えていなくとも、この瞳の色だけは誰もが記憶にとどめ置く。 そんな自分であれば、この名前はけっきょく自分の真名であるのだろう。そして、彼らはその深く浅い人格でそれを正しく見つけるのだ。 そうだ。 彼は深く浅い人間だった。 その表現を見つけたときに、紅真は初めて「紫苑」という人間についての理解が一つ深まった気がした。 深い深い理性と人格を持ち、あまりにも浅い願いのためにその感性を腐らせていた。 最後の願いもきっと浅いものだったのだろう。 だからというわけではないが、紅真はその場を後にした。 この広大な地下牢をお前に贈ろう。 厚く重いその扉を閉じて、その美しくも惨めな肉体が朽ちて土に還っても。 ここは永遠にお前のための墓地。 出会いは暗く冷たい地下の貯蔵庫。逢瀬はいつだってこの地下牢。二人で語ったことはすべてここに置いていこう。 あの扉を抜け、その扉の向こうにこの空間を閉じ込めた瞬間に、それらのすべてを忘れてしまうから。死者の手向けに贈るのもいい。 この世界を手に入れるために、この国が邪魔だった。 だからお前の前に来たんだよ。 俺に抱きしめられるお前は徐々に毒に体を蝕まれ、毒と化したお前の躯を抱くお前の父も病み衰えて。 やがて、この国を支える王は弱りきる。 バイバイ。 お前はどうやら最後に俺を呼んだようだから、二人の思い出は全部お前だけのものにしておいてあげる。 そんなもの、俺には欠片の必要もないものだから―――。 白い涙の少年は、瞼の奥の暗闇で、永遠の春に、華の如く愛らしい微笑みを咲かせ続けるのです。 そこが自分の咲き誇ることのできる季節ではないと知らぬまま、自分が咲き誇り、愛されている夢を見続けるのです。 永遠に。 永遠に。 辺りを闇で包まれた至福の時に、微睡(まどろ)み続けるのです。 至福の微睡みに、身を委ね続けるのです。 |
星の煌めきが永遠のものであるようでしたので、その下でなら咲くことができると。
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麟飛様に捧げます。リクエストは「裏でパラレルで紫苑総受け」でした。 冒頭部分はどうするか本当に悩みました。総受けだけど…だけど…これはいかんだろう?ということでぼやかしもぼやかしまくり。紫苑ちゃんはお風呂で蒼志パパに性的虐待を受けてるみたいですよ(ここで云ってたら意味ないんですけどね)。というか、やっぱり私には紅紫以外は無理でした(爆)。 それにつけてもたいへんお待たせしまくってしまって申し訳ありませんでした。リクエスト貰って軽く2ヶ月は経ってますね(滝汗)。裏になってますか?これ(泣)。 なんかもうキャラ壊れまくりで、本当に申し訳ないです…。意味もわからないですよね…。ほら、紫苑って秋の花だから(一応)。それに花って夜はしぼむ(眠る)でしょう。明かりがないと咲かないんですよね。同じ光でも、星の輝きでも陽光じゃないとダメなんですよね。…だからなんだと云われると辛いですが。 星が輝くのには華なんて全然必要ないし、太陽以外の星の輝きじゃ華は咲き続ける(そもそも咲く)ことができないというただそれだけ。 それでは、こんなんですが受けとって頂けたらありがたいです_(c)2004/11/13_ゆうひ |
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