red rum
-犠牲(いけにえ)篇-




それは絶望と憎悪と哀しみ…――つまりは狂気のこと。





 美しい稲穂が夕暮れの光に照らされて金色の波を打っていた。そろそろ刈り入れ時のそれらの合間合間に覗くのは人の頭だ。日も暮れだしたこの時刻、人々は一日の仕事を終えて家路に着く準備を始める。

 小さな村だった。村の人々は皆が皆顔馴染みというほどの人口の、子供も大人も農業に勤しむようなところだ。
 学校などというところはない。文字の読み書きをできるものもいない。
 家は簡素な木板造りのものばかり。衣服も擦り切れ汚れたものばかり。気候が穏やかであるので、重ね着の必要もないから、半袖一枚の人々がほとんどだ。

 村の一番高い丘の上に、それらとは異彩を放つ立派なお邸が建っていた。普段は首都に暮らす貴族の別荘だ。
 荘厳な石造りのそれは、村人の家の何倍もの敷地と高さと頑丈さをもって、そこに聳えていた。邸から村の出入り口からまっすぐに伸びた道には、村人が死ぬまで乗ることは叶わないだろう豪奢な馬車が走ることがある。貴族の所有物だった。

 村の少年だった。黒髪に、赤い瞳。日々農業に明け暮れ、野山を駆けるその姿は泥に汚れているが、なかなか整った鋭い顔つきをしている。
 名は紅真。年は十三。
 彼は、一度だけその邸の住人を垣間見たことがあった。まだ五つかそこらの頃のことだ。
 馬車に乗った人々。布の下げられた窓から覗いた顔。
 邸の広い庭で笑い駆ける少女。柵の間から覗き見た自分と年の変わらぬほどの少女。
 銀の髪など初めて見た。

 五つかそこらの頃のことだった。それ以来、垣間見ることすら叶わない姿。
 あんなにも白い肌の人間がいるのかと疑った。
 あんなにも細い人間が立っていられるのかと疑った。

 そして、その姿が今もなお、脳裏に鮮明に思い出される。





 毎年夏の終わりから秋の初めの頃に滞在する別邸。納涼を求めて行くそこは、本邸のある首都とは異なり、静かで落ち着いたところだった。
 陽が暮れて村人達がそれぞれの家路に着く頃。邸の二階の窓から、光輝く稲穂を見るのが好きだった。

 ゆるやかな風に揺れるその姿は、まるで黄金の海のようだ。寄せては返す波の如き姿を見ていれば、不思議なことに波の音までが耳に届けられる。たとえ音がしていようとも、窓の締め切られた部屋の中にまでは、突風の音さえ入って来はしないのに。

 稲穂の広がる一角をくだって行ったところに村人達の家々がある。夏の中頃に、そこは豊かな緑に溢れていて、少女は自室の窓からそれを眺めるのが好きだった。
 この村へ避暑にやってきて、一番初めに見る景色は、それだといつも決めていた。いつか、両側を背丈を越える緑の夏草に覆われたその一本道を駆けるのが夢だ。

 駆けるのだ。自分の足で。
 馬車に座って揺られるのではなく。
 だから、これは夢なのだ。

 いつも窓の外から眺めていた。緑から小金の世界を駆け回る、自分とそう歳の変わらない子供達の姿。
 どこにいても、いつだって檻の中で飼われるように駆けている自分とは違い、彼らはきっと、太陽の香りに包まれているのだろう。

 少女は窓に掛かるカーテンを引き、景色を部屋の中から断絶した。部屋の中へと首を廻らせれば、白銀の髪が流れて頬に触れる。
 名は紫苑。藤色の瞳を伏せた。
 今年で十三になる少女の唇は朱く色づき、ふっくらと艶やかな膨らみをもっている。肌は白く、けれど病的とは程遠い。

 紫苑は自分の細い腕を見てため息をついた。細く、何よりもあまりにも白い。母から渡された、花の香りの香水を振り掛けたそこからは、太陽の香りはしない。
 うっすらと掛けただけなのに、無香料の部屋にはやけに強く香る気がした。

 あれはもう五年以上も前。五つかそこらの頃だった。
 邸を囲む檻のような柵の内側からわずかに垣間見た、村の子供の姿。太陽の匂いがした。
 あんなにも逞しい人間がいるのかと愕然とした。
 あんなにも力強いものが人間なのかと疑った。

 あれはもう五年以上も前。五つかそこらの頃だった。
 自分と同じ年頃の少年。その姿が、忘れられない。





 少年と少女は十六になっていた。
 今年の夏は冬のように寒く、稲穂は常の輝きを失っていた。己が実の重みに垂れる常の姿は無く、土に根を張りながら、乾かされた藁葺きのような姿をしていた。
 それは一揆とでも呼ぶのだろうか。どのような呼び名でそれを説明しようとも、村人が貴族を襲った。それだけは違えようもない事実であった。

 少女は自室で座していた。窓辺に寄せた椅子の上。いつも、輝くような稲穂を見下ろしていたあの窓だ。
 カーテンが薄く開いていた。そこから夜の闇に映える炎のオレンジが覗いていた。
 稲穂は、今度こそ全滅だろう。まさにその一帯が輝いているのだから。

 乱暴に扉が開けられた。そちらに顔を向けた。部屋に付き従っている侍女が悲鳴を上げる。
 少女は思う。自分は残酷だと。
 侍女のことなど、どうでもよかった。両親がどうなんているのかなど、どうでもよかった。
 悲鳴を上げる気は起きなかった。恐怖も焦りも驚愕もないのだから、上げようにも上がらない。演技で悲鳴を上げるほど、かわいらしい性格をしていないことは、すでに自覚していた。

 腕を引かれて、無理矢理廊下に連れ出される。逃げ遅れた使用人達も似たような状況にあるようだった。
 炎と煙と熱。怒号と悲鳴と、様々なあらゆるものが崩れ落ちる音。破壊音。
 はじめに腕を引いていた誰かが殴られ、別の誰かに腕を引かれる。そんなことが幾度か繰り返され、今、少女の腕を引いているのは少年だった。

 背丈は少女より幾分か高いくらいだ。まだ背の伸び始めたばかりなのだろうか。そうであれば、少女とそう年のころは変わらないだろう。
 黒髪に、陽に焼けた皮膚。細いが逞しい腕が、袖から伸びていた。

 夜に聳えるそれは、邸の裏手にある倉だ。片腕は処女の腕を引いたまま、少年は片腕でそこを抉じ開ける。
 少女を連れ込むと扉を閉めた。倉の中は闇に覆われ、外の喧騒からも隔絶される。
 扉を背にし、少年は滑るように座り込んだ。すでに少女の腕は開放されている。

「…どうして、ここに?」

 少女は尋ねた。
 少年は顔を上げた。少女よりも息が荒い。そうとう披露しているだろうことが、闇の中にあっても伺えた。

「あのまま、殴り凝らされたかったのかよ」

 荒い息の下から少年が云う。少女を射抜くように見つめる眼光は、鷹のように鋭い。血液が燃え上がったかのような、朱(あか)色。
 少女は僅かに息を呑んだ。





 押し倒されたそこには藁葺きがあったようだ。助かった。背中の痛みが多少は和らぐだろう。
 少女は冷静に考えた。頭のどこがそんなにも冷静に、そんなどうでもいいことを考えているのだろうかと不思議だった。

 両腕が押さえらつけられている。これでは自由が利かないが、そもそも抵抗する気がないのだから、意味のないことのように感じた。
 顔を背ければ、少女は自身の腕を見た。少女を見下ろす位置にいる少年からは、少女のほっそりとした首筋があらわになる。
 香る華の香りに、少年は蝶のように誘われる。吸い寄せられる。

 ゆっくりと自分の身に降り落ちてくる少年の気配を感じた。頬には藁葺き。
 太陽の匂いがした。
 少女はゆっくりと瞳を閉じた。少年の唇が少女の首筋に触れて、その唇の冷たさと、吐息の熱さに、体が震えるのを感じた。

 震えた体は、まるで抵抗しているように映ったのだろうか。少女の腕を押さえ込む少年の腕に力が込められた。
 少女はゆっくりと息を吐く。呼吸に合わせて胸が上下した。
 薄く瞳を開けば、倉の壁。闇色一色に染まったそこは外界と遮断されていて、喧騒さえもが遠い世界のできごと。

 夢は自分の足で駆けること。
 あの緑と金に覆われた一本道。
 太陽の匂いに染まって。





 いつか、自分も太陽になるのだと、儚い薄光りを放ちながら夢見るの。





 どこから見つけきたのだろうか。薄い一枚の布が掛けられていた。素肌の上に直接掛けられたそれが、火照った体にひんやりと心地良かった。
 少女はゆっくりと瞼を持ち上げる。遥か天頂に設けられた明り取りの窓からは、月の蒼白い光。
 それはまるで自分のようだと少女は思う。
 熱を持たず、何も育てず、なんの恵みにもならず。白いばかりの、香り無き光。

「月…」

 心地良い低い声に視線を向ける。隣で寝ていたらしい。少年があの赤い瞳で少女を見ていた。

「冷たくて、遠くて、手の届かない。まるで、てめぇみたいだ。月の光は…」
「同感、だ」

 少女は少年の意見に肯定の返事をした。声が枯れていた。咽が渇いていて、すんなりとしゃべることができそうになかった。

「…そのくせ、人のことを狂わせてばかりいる」

 孤独で、淋しそうで、あまりにも美しくて、目が離せなくなる。
 宝石のように魅了的で、子供の宝物のように儚くて、手の中でそっと包み込みたいのに。
 まるですぐ近くにあるかのような錯覚を見せて、見るものにとってもっとも狂おしい姿を晒すのに。
 つい、手を伸ばしてしまうのに。

「絶対に、届かないんだ」

 そうして気がつく。
 その距離の現実に。
 そうして襲われる。
 言いようのない孤独に。虚しさに。寂しさに。

 少女は僅かに瞠目した。そんなこと、考えてみたこともなかった。指摘されたこともない。
 少年は少女を抱きこんだ。少女の額が少年の胸にあてられ、少女はその心音を聞く。
 心地良い響きだと感じた。
 体は疲れていた。喧騒は遠い世界のできごと。
 少女は瞳を閉じた。





 cry for the moon.
 月が欲しいと叫んでみても、それは決して叶わぬ世迷言。
 ならば、奪いに行こう。
 幸い、この世は地獄ではなく。
 幸い、この世は楽園でもない。
 だから。
 知恵と金と権力と。それで、たいていの夢は叶うから。
 cry for the moon.
 月が欲しいと叫んでも、それは決して叶わない。
 だから、奪いに行こう。
 電気ロケットに乗って、僕は地球を飛び出した。
 大きな腕を広げて、

 君をこの腕に抱きしめる

 そのために―――。






朝と昼と夜と。それは常に犠牲(いけにえ)の上に成り立つ。



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 きちんとした設定を作ってあるように見せかけると文を書くのに時間が掛かって疲れます。なぜ時間が掛かるかといえば、悪い頭を使ってどうにかこうにか、少しでも文章を格好よくしようと四苦八苦しているからです。これもそんな感じで書きました。
 犠牲のことをしつこく「いけにえ」と読ませて申し訳ありません。間違いだけど、生贄という名の犠牲だとかそんな感じの意味にでもとってみて下さい。むちゃくちゃして本当にすみません。
 こんなん紅紫っていってもいいんでしょうか?だって紅紫を示すのって名前だけ…。まぁ、だからこそ裏なんですけどね。タイトルは「月光篇」にするかで迷ったんですよ。でも続くかは永遠の謎。
 知恵と金と権力か…。愛と勇気と情熱じゃなくてすみません。でもこれが現実(たぶん)。
 ご意見ご感想ありましたらぜひお寄せ下さいです---(c)ゆうひ_2005/01/04

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