悲願華 







胸の内でずっと蠢き続けている願いがある。







 新しい術を一つ覚えるたびに、これであいつを抜いたと笑い。
 その次の瞬間に、再び追い抜かされては自らへの失望と努力の報われぬ憤りに打ち震えた。
 方術が意志の力に比例するならば、いったい自分が力を求めることへの、その熱望への。この身を焼き尽くす劫火の如き欲求への何が。あいつにあるのだろうかと、打ち震えるたびにこぶしを握り締めていた。
 だってあいつの表情はいつだって何も求めていない。あいつの言葉いつだって何も求めない。
 もう前だけを見据えていられるほどがむしゃらではいられない。あまりにも山積したその屈辱。その屈辱の繰り返しに、今まさに自ら佇んでいる大地を睨み据えていた。噛み締める唇の痛みさえ、もはや日常的過ぎて。それに気がつき、再び胸によぎるのは嫌悪感だ。
 そんな日々が数年続き、そしてそれは唐突に消え失せた。
 それは彼が望んだ姿での消失ではなくて、むしろ彼はただ失望していたのかもしれない。雨が止まぬことがあまりにも当たり前で、取り返しが付かぬほどに体は濡れそぼっていて。だから、いまさら雨を避けるために駆けることさえしない。ただ雲に翳った薄暗い空の下を、呆然と佇むかのように。彼は失望していたのかもしれない。

 けれど彼は笑っていた。

 自分が笑うことができるなど、彼は考えたこともなかった。あらゆる感情はあの、雨の代わりに炎が降り注ぐ薄明るい日にすべて失くしてしまったと思っていたから。
 いったいなぜ戦い続けることができるのか。時々それさえ忘れそうになりながら、幾度も幾度もあの日のことを思い出す。伸ばした手の先にあるのは絶望の中に射した一条の希望だ。それだけを頼りに、そのあまりにも頼りない光を拠りどころにして、彼はずっと歩いてきた。
 ただ一本の細い糸。
 それだけに拠って、彼は今立っている。
 それが霞の晴れるが如く揺らいで消えたのはつい最近のことだ。自分が縋っていたものが夢よりも儚いと知り――あるいは薄々気づいていたそれを明らかにされたことで、彼は蹲っていた袋小路から一歩を踏み出すことに成功した。
 炎の降り注ぐ薄明るい日。それは夜のことだった。翌日の朝は黒い雲が垂れ込めて、辺りは暗く淀んでいた。そのときから、彼の視界にうつる世界は常に薄暗かった。
 行き止まりのそこから踏み出した世界はあまりにもまばゆくて、彼はわずかにたたらを踏んだ。ゆっくりと晴れていく視界の中で、彼は希望の本当の意味を知る。
 それは疑いを抱く必要のないものだ。
 本当に正しいのかどうか。自分の心が迷う必要のないほどに、それは輝いている。その頼りなさは変わらなかったが、そのまばゆさは比較にならない。そしてその光は、たとえどれほど切なくとも、人に笑うことを強要させるのだ。

 けれど彼は後ろ髪を引かれていた。

 彼の造反を聞かされたときにまず感じたのは憤りだった。まるで勝ち逃げのようなそれに、腸が煮えくり返りそうだった。結局、自分は彼を越えることができないままに、彼は自分の道を見つけて遠く離れていく。
 次いで湧き上がったのが喜びだった。これで彼と対するのに何の障害もなくなった。これでやっと彼に対しての憎悪を昇華させることができる。これでやっと、彼が自分を敵だと認めてくれる。
 そして最後に失望がやってきた。
 隣に彼がいないことへの喪失感。ふと視線を巡らせたときに、その姿をどこにも見出すことができずに失望している自分。
 それを自覚したときに、紅真は言いようのない感情に襲われた。
 それは虚しさだったかもしれない。今まで気づかずにいた心の奥を暴き立てられたような、不安と怒り。そして暴き立てられたことに対するショックに、紅真は呆然とするより他にない。
 なぜ淋しい。なぜこんなにも淋しい。

 そして、何がそんなにも淋しいのか。

 紫苑は太陽の下で響くのがとてもよく似合う笑い声の中に、今、身を置いている。常に張り詰めている自分がバカバカしいと思うほど、そこの住人達は賑やかで。けれど、彼と遜色などなく、誰もが心に傷を負っていた。
 生きていく中で、傷を負わずにいられる人間など、きっといないのだろうと、彼はこの世界に足を踏み入れて始めて気がついた。彼は深く大きな傷を負っていたが、彼の周囲の誰もが、それぞれに比べることなどできない、それぞれの傷を抱えて生きていた。そして今まで彼の周りにいた誰もが彼がそのことに気がつかなかったのと同じように、そのことに気がつかず、あるいは自分が傷を負っていることさえ気づかずに、その傷を放置して生きていた。放置された傷はやがて膿んでいくことにさえ気づかずに。
 明るい陽射しの差し込む森の中に足を踏み入れて、太陽の眩しさに眼を眇める。そしてふいに湧き上がった事柄に、紫苑はどきりと身を弾ませた。
 あるいは彼もまた、何か大きな傷を抱えて生きてきたのではないのか。そして、それを一人で抱え込んでいるのではないのか。
 傷は一人で抱え込むしかないのかもしれないが、そうしていくだけの力はたった一人で作り出さなければならないわけではない。それに、気づかずに生きているのだろうか。
 あるいは、傷にさえ気づいていないのかもしれない。否、彼のことだ。きっと、自分が傷を負っているなどとは、それを引き摺って生きているなどとは、認めなどしないだろう。
 そこにまで思考が及び、彼は薄く笑った。そして、唐突に襲われた。その空虚さに背筋が凍え、痛切な欲求に脳天が突き上げられるかのようだ。

 何もない両腕の中に、抱え込みたいと。





 いくらでも剣を振るった。いくらでも剣を振るい続ける覚悟を固めたのは、いつだっただろう。





 光さえ遮る深い深い森の中で呼び出す。呼びかけに応じて赴いたのは、懐かしい顔。
 光さえ遮る深い深い森の中で呼び出すのは懐かしい声、呼びかけに応じて赴いた先には、その期待を裏切らぬ懐かしい顔。
 憎くて憎くて。大嫌いなすかした顔がそこにある。
 あの日、何の感慨も抱かずに捨てたはずの顔がそこにある。何の感慨も抱かずに捨てたはずなのに、あまりにも懐かしい顔が、そこにある。
 紅真は笑った。
 紫苑は笑わなかった。
 そして二人の剣が激しく交差する。
 抉られる大地と破裂する空気。粉砕する崖から雪崩れてくる投石群。

 勝者はただ一人だと二人ともが決めていた。

 どうして何も云ってくれなかったのかと叫びたかった。
 どうして何も聞こうともしなかったのかと悔い続けた。
 けれど聞かなかったのは自分だと気づく。
 けれど云わせなかったのは自分だと気づく。
 紫苑。お前は、何のために剣を振るう。
 紅真。お前は、何を抱えて剣を振るう。

 そして勝者はただ一人。





 あの日のことを、君に伝える日が、ようやく来たのだ。

「紫苑…」
 相対する彼は、あの日よりも背も高く、髪も伸びていた。空よりも蒼く、海よりも深い瞳の色はますます力強くなっていて、紅真は胸中でにやりとほくそ笑んだ。
「相変わらず、細っせぇ腕してやがるな。よくそんな腕で剣が揮えるもんだぜ」
 紅真から先に声を掛け、無表情だった紫苑の面(おもて)にやわらかな笑みが浮かぶ。昔からの友に気を許す、そんな笑みだ。
 二人の肩には力など入っていない。まるで仲の良い昔馴染みに再会したかのような気楽さと親しみがある。
「紅真こそ、相変わらずだな。口が悪い」
「云ってろよ。お前の場合はしゃべらねぇだけで、口の悪さは俺より上だ」
「そうかもな……」
 青々とした草が生い茂る草原に、さわやかだが少し強めの風が吹く。以前よりもより白さの鮮やかな銀の髪と、濁りのない漆黒の髪が吹かれて、蒼い空に色をつける。
「…邪馬台国の方はどんな様子なんだよ」
「順調だよ。人口も、連合国も増え続けてる。最近は連合国に東の方の国も増えてきてて…東や南からの移住者も多くなってきたから、遷都の計画も持ち上がってる」
「そっか…」
「ああ」
「……」
「……」
 沈黙が間に入り、先に動いたのはやはり紅真だった。
「なぁ、紫苑、お前…」
 けれど沈む言葉。
「紅真」
 俯かせた顔を上げた先には、紫苑の優しい眼差し。こんな風に相対する日が来るなど、夢の奥深く。無意識の世界の願いだった。
「紅真、お前、……」
 言葉に詰まる。云うべき言葉が出てこない。何を云えばいいのかわからないからだ。
 紫苑は胸の前で拳を握り締めた。握り締めた拳を見つめゆっくりと開くと、意を決したように、紅真へと視線を向けた。同時に、開いた手の平ごと、腕を紅真へと差し出した。

 なぜ、ずっとこうしなかったのだろうか。ただ手を差伸べるだけでよかったのに。

 ずっと淋しかった。ずっと一人で淋しかった。
 他の誰が隣にいても埋めようのないこの淋しさは、ただあなただけを求めているのだと。気づいたのはあまりにも遅くて。
 あなたが隣にいた日々に、心を閉ざし続けていたことを悔いても、時間は欠片も巻き戻ってはくれず。隣にあなたがいることへ甘えていた。その運命に、甘えていた。

 なぜ、もっと早くにこうしなかったのだろうか。ただ抱きしめればいいだけだったのに。

「紫苑…、お前、もっと早くに云えよ……」
 紫苑は抱き締めてきた紅真を支えきれずに尻餅をついた。胸の中に抱いた紅真の表情は見えない。ただ懐かしい記憶の中の声よりも、幾分低くなった心に響く声音に耳を傾けていた。背中に回された腕のぬくもりを、感じていた。
「紅真こそ…。もっと、早くに気づけ」


 淋しいよ。


 まだ幼かったあの日、涙も笑顔も怒りも亡くした無表情の下で、あなたがそっとこの腕の袖を引いていたことに気づかなかった。
 あまりにも幼かったあの日、絶望と怒りに全身を震わすあなたの嘆きに、気づくことができなかった。
 お互いにあまりにも淋しくて、自分を求めるもう一人の自分に気づけなくて。
 その手を取れなくて。
 その手を伸ばせなくて。

 でも、もうそんな過去のことはどうでもいい。

「もっと、早くに話せ……」
「紅真こそ…。……俺は、紅真のこと、何も知らないんだ」
「……そうだな。これから、たくさん話してやる。俺も、お前のこと、たくさん聞くから」
 風は止むことなく、二人は萌える緑の季節にようやく辿り着いた。今はただ、その瞳を閉じて、互いのことを感じていればいい。
 ただ、感じあっていればいい―――。







悲願は達成され、蕾は美しい華を咲かせた。









こめんと
 雪様より頂きました10万ヒット感謝リクエスト企画小説です。リクエストは「紅→紫で後半紅紫の甘々。裏でも表でもいい」とのことでしたが…微妙に甘くないですね。考えたときは最後はもっと甘くなるはずだったんですが。私は甘さの沸点自体は低くないと思うのですが、砂を一粒でも吐くほどの甘さに達すると勝手に針路変更してしまうようです…。この作品は雪様のみお持ち帰り可です。煮るなり焼くなり晒し首にするなり自由にお願いします。最後にちょっと解説。紅真と紫苑の場面を交互に書きました。行間の後に一行(一文)のみで示されているのはどちらか一方ではなく「二人」のことです。
 ご意見ご感想お待ちしております_(c)ゆうひ_2005/09/18
もどる