きみとぼくの契約 
-神々の寝室-









愛しているのに、私はあなたに触れることが叶わない。








「ティエン殿。ようこそ邪馬台国へお越し下さいました。邪馬台国第118代女王壱与の名において、貴殿を歓迎いたしましょう」

 眼前には大理石造りの床。磨き上げられたそれは鏡のようにティエンの顔を写していた。
 上へと視線を移せば高く天へ伸びた直線階段があり、その到達点にいるはずだった。鈴のように軽やかで、神にも勝る威厳を持った声の主(ぬし)。
 面(おもて)を上げてその姿を写すことは許されない。なぜなら彼は一介の宣教師に過ぎないのだから。西の海から東の彼方へと、神の教えを広めるためにやってきた。

 神の代理人などと大それた身分ではない。たとえ彼が神の代理人であったところで、神の教えの浸透しておらぬこの野蛮の地にあっては只人以下でしかないのだから。
 それは彼にとって実に腹に据えかねることではあったが、物事には順序というものが存在する。礼節を守ることは美徳だ。たとえその意味が分からなくとも。
 誤解を生むことは避けるべきだ。人は愚かだ。ならば少しでも脳のある彼こそが自重してまずは相手に合わせてやる思いやりを持って辛抱強く接するべきだ。そのすべてが美徳であるのだから。
 ティエンは口を開いた。もとより下げていた頭(こうべ)をより一層下方へと落としながら、自国の言葉を紡ぐ。なぜなら彼は今、自分が立つ国の言葉を知らなかったから。

「自由な布教をお許し下さったこと、心より感謝申し上げます。女王が回心された今、この国にもまた神々の威光が満ち、この国全土に豊饒の大地が広がることは明らかなことでありましょう」

 女王が彼の言葉を解するには通訳が要(い)らない彼が女王の言葉を解するのにも通訳は要らない。
 女王がわざわざ彼の国の言葉で話してあげているから。期待もしていない無能な人間に、それ以上を求めるような非効率をするほど、女王は閑ではなかったからだ。
 けれど何も知らない子供がそうやって大人に接せられて、馬鹿にされているなどと気づけるだろうか。直感に優れた本当の幼子(おさなご)ならともかく、今まさに女王の目の前で頭(こうべ)を垂れている異国の男には無理だろう。
 だから軽やかな声で笑った女王のそれには侮蔑の色はない。その笑い声はただの取っ掛かりに過ぎない。

「おほほ。面白いことをおっしゃるのですね。いつ私(わたくし)がそのようなことになりましたか。私はただ、あなたがこの国で布教をするのを許したに過ぎませんよ。それに、この邪馬台国は初めから豊饒の大地が国土を覆っております」

 ティエンは僅かに動揺した。彼はそれを決して表には出していないと自負しているけれど、実際のところは知れない。遥か高みから彼を見下ろす女王が彼の肩が僅かに揺れたのまで捉えることがきでるのか否かも。
 彼は心中で疑問する。女王は何を言っているのか。一国の王が布教を認めたのであるから、当然その国の王はその教義へと回心したに決まっているではないか。
 その彼の心中などお見通しであるかのように、壱与は言葉を投げ与えた。それはまるで犬に餌を与えるようなものだった。

「あなたがこの国でどれほど布教に励もうと、その結果、貴方がこの国でどれほどの成果を上げようと。なんら問題ではないのですよ。この国はすでにまことの神が居り、その神々は人の忠誠など求めていないのですから」

 女王の朱く色付いた唇の両端が吊り上ろうと、ティエンからは窺うことができない。

「誰ぞ、この者にわが国について教えて差し上げなさい。文化を知っていた方が、布教もやりやすいでしょう。もちろん、言葉は基本。それさえ知らずして、どのように国民と会話を交わすのか。それに興味があっただけのこと」

 女王の笑い声には嘲りの色はない。人間と犬の知能指数は初めから違うのだから、嘲る必要もない。
 だから、彼が足りない脳(あたま)でその意味を悟って嘲られたと感じたら、それは被害妄想に過ぎない。自尊心が勝手に刺激されたに過ぎない。





 ティエンが通されたのは地下だった。女王との謁見が半ば強制的に――しかしティエンには『半ば』などと云う権利すらない――終了してすぐに彼の元へやってきた男に連れられて、すでに半時は歩き詰めであるような気がしていた。
 ティエンを先導する男はティエンの母国語を話した。初めからそういう人間がティエンの世話をしてやるように手配されていた。
 男は名を語らなかった。必要ないといった。必要なときは『通訳』と呼べばわかるからと。

 通訳の男は城の外へティエンを連れ出し、そのまま緑の芝生の整えられた中庭を通り、白い石造りの建物の前で止まった。その建物の天井部分は球形になっており、全体の高さはティエンの身長より低いほどだろうか。邪馬台国の東北に暮らすものであれば、それを、人が二人ほど入れるほどの『かまくら』に酷似していると説明しただろう。
 ティエンが不思議に思いその建物を眺めていると、通訳の男はそれに意を介さずに建物の中へと入っていく。ティエンは慌ててその後を追いかける。

 建物の内部は暗かった。灯(あか)りの一つも置かれていない。
 しかし不思議なことに行くべき場所が分かるのだ。足は導かれるように動く。正確に言うと戸惑いながら進んだ方向が偶然正解の道であっただけだ。何しろその建物の内部は実に狭く、基本的に一本道であるのだから。
 内部に入って一歩踏み出せば次の部屋へと続く階段へと足を置くことができる。だからティエンが迷うはずもなく、次の部屋にはきちんと灯りが射している。

 まるで冥界へと続く階段を下りていくかのような心持を味わい辿り着いたそこは、ある意味において冥界の如くであり、ある意味において冥界とは大きく異なっていた。
 黒い岩肌は剥き出しでごつごつとした醜い面を見せている。灯っている明かりは絞られており薄ぼんやりとしている。しかしその明かりは神光のように白く清浄だ。黒い岩の所々には不純物のないクリスタルが覗いている。

 ティエンがあたりを見回していると、通訳の男が『こちらだ』と声を掛けて歩き去っていく。ティエンは慌ててその後を追う。
 道幅は広かった。大型のトラックも優に通れるほどの道幅がある。
 その道の両脇にはとうぜん岩肌であるのだが、小山のように大きな岩の一つ一つが洞穴のように刳り貫かれて『檻』となっていた。格子の代わりに特殊なガラス板が嵌め込まれていると思われるその奥にちらちらと見える影が、そこに閉じ込められている囚人なのだろうか。
 少なくともティエンにはそこが一般的な『住居』だとは到底思えなかった。

「ここは一体…」

 ティエンの呟きは黙殺された。通訳の男はずんずんと歩き続け、ある牢の前に来たところでぴたりと足を止めた。そこで漸くティエンを振り返る。

「ここは神々の寝室です」
「神々?」

 ティエンにとって『神』はこの世で唯一無二の存在だ。神々などという多神教はそれだけで邪教の象徴。原始人思想から抜け切れない野蛮人の証だ。
 眉を顰めるティエンに、しかし通訳の男は淡々とした様子を欠片も崩すことなく説明を続けた。

「この国では神々と『契約』と結んでいます。我々が神々の意向に副(そ)う代わりに、神々は人との契約を遵守します」

 崇め尊び敬えというならば人はそのようにする。その代価に神々は人に平穏を、恵みを与える。
 自然の恵みと避けようのない自然災害が表裏一体だ。自然の驚異を軽減させるために契約を結んだ神々とて少なくはない。

「海の恵みに困らぬ土地では水害の脅威に常に脅かされています。四方を海に囲まれたわが国も同じこと。ここは海嵐の神の寝所になります」
「何をバカなことを…」

 ティエンの声は掠れていた。彼の言葉は途切れ、代わりのように彼の両眼が大きく見開かれていく。戦慄く唇と、額から米神を通って一筋の汗が顎に辿り着いた。

『五月蝿ぇぞ』

 ガラス面の向こう側に現れたのは十二、三の少年だった。邪馬台国の人間にもっともポピュラーな黒髪と、それとは逆に稀有な赤い瞳。凶悪に攣り上がったその眼差しの恐ろしさに、ティエンはえも云われぬ圧力を感じていた。
 これは一体何なのか。
 頭の中を目まぐるしく駆けるのは同じ言葉ばかりだった。たった一つの漠然とした疑問。恐怖。
 なぜ恐怖を感じているのか。そもそも恐怖を感じていることさえ、彼は気づいてはいないだろう。

「紅真様。お目覚めでしたか」
『起きてるさ。そろそろ嵐の季節だろう』

 少年が口端を引き上げて妖しく微笑う。脳天から頭部、両肩、掌、胸部と上から順にガラス面を通り抜けながら。
 見開かれた赤瞳がティエンを捕らえた。まるで嬲る獲物を見つけた肉食獣のような笑みと共に。

『異国の人間だな』

 少年は彼が異教であるかどうかには頓着しなかった。少年はティエンから再び通訳の男へと面(おもて)を戻す。
 男の表情は相変わらずであるが、ティエンに向かい会うときとは明らかに異なり常にその頭(こうべ)を垂れたままである。腰を折って軽くお辞儀した姿勢のまま、恭しく少年に相対していた。

『研究とやらは進んでるのか』
「宇宙へ赴くことは容易になりました」
『人は不便だな。行動の制限を振り解くのに数千年の刻を必要とする。けれどそれを補って尚、万難を排するその姑息さには目を見張るものがある』
「貪欲でありながら不便なればこそ持ち得た能力でございますので」
『その貪欲さは好きだぜ。この国の女王どもはどいつもこいつも大嫌いだが、同じ『願い』を持ったその貪欲さだけは共感が持てる』

 ティエンの知る邪馬台国の女王はすでに三十代も後半だった。その半分も生きていないような少年は、まるで歴代の女王を直(じか)に知っているかのような口振りで語る。それもこの国にありながら、この国の頂点に立つ女王を上から見下ろすような口調で。

『特に面白かったのは二代目か。面白くて、どの女王よりもムカつく女だった』

 少年の顔が歪んだ。不愉快さと、何かを懐かしんでいるときのような愛惜が綯い交ぜになったかのような、実に複雑なその表は、まるで『人間』のようだった。

『てめぇらは本当におもしれぇぜ。ただ喚いてるだけかと思えば、俺たちみたいなのに憧れて。マネを繰り返してここまできやがった』
「けれど神々の進化は人の追随を許しません。人は神々に置いて行かれぬようにと必死に追いかけるばかりございます」
『進化か。少しは進歩もしたいもんだけどな』
「ご謙遜を。ところで紫苑様はいかがお過ごしですか」

 通訳の男は媚は売っていない。儀礼的な言葉を綴っているだけで、その声の平坦さがあまりにも一定であるために、どちらかといえば同じく淡白である様子を見せる少年がやけに感情豊かに感じられた。
 男の投げかけた話題に少年の顔があからさまに顰められた。

『紫苑は…』
『ここにいる……』

 新たな声は少年の背後から響いた。静かで眠たげな声だった。
 少年が現れたのと同じ岸壁に掘られた穴の向こう。ガラス面に掌を触れて、こちら――ガラス面の外側。ティエンらの立つ辺り――に視線をやっていた。
 蒼銀色の髪も藤紫の瞳も白磁の肌も。僅かに伏せられた目蓋も。何もかもがその声の主を儚く見せていた。
 まるで水に溶けた絵の具のように、色素が薄い印象を受ける。

『まだ、ここから出れないな』
「原始の時代より距離が遠く離れた昨今では目を起こすのも困難であると聞き及んでおります」
『でも砕けてはいない。でも、そろそろまた新しく鎖を追加してもらう必要が出るかもしれない』
「かしこまりました。宇宙開発省及び祝詞宮内省に通達しておきましょう」
『ああ、頼む』

 鎖。良く見れば儚い印象のその人物の後ろには長く鎖が伸びている。その鎖は遥か闇の彼方まで続いており、それがどこまで続いているのかは分からない。しかしその鎖のもう一方の出発点は明らかだ。
 すなわちそのモノの首。両手首。両足首。あとはどこから伸びているのだろう。背中からだろうか。腹からだろうか。耳の後ろからも伸びているかもしれない。
 幾重もの鎖がその背後に、まるで軌跡か絨毯のようにのびていた。

『少しでも遅らせないと…』

 色素の薄い儚いヒトは云った。そして目蓋を下ろして崩れた。
 膝から崩れてガラス面伝いに地に落ちていく。赤瞳の少年が慌てて駆け寄り、ガラス面を擦り抜けてその身を抱き起こした。

『無理するからだ。もう随分と地球(ここ)での活動が希薄になってるのに』
「月の地球の距離は年々離れていますので」
『だからそれを止める術。或るいは月に水と風空気を定着させる術を開発しろと契約を結んだはずだ。だからこそ、俺は数千年に渡りこの国の『国土』が壊滅しないように海の波も嵐の強さも抑えてきた』
「感謝いたします」
『俺が欲しいのは感謝なんて約に立たないものじゃない。速やかな契約の遂行だ。確かな結果だ』
「もちろんでございます」
『これ以上が月が離れれば、紫苑はここから消える。そうなったとき、紫苑の操作している海の潮(しお)と人の狂気と生理の保障はできなねぇぞ』
「……早急に確認と報告をさせましょう」
『そうだな。いつも、それだけだ』

 そうして少年は、同じ年頃の少年を抱き上げて下がって行った。ティエンらに背中を向けて、ガラス面の向こうに広がる洞窟の奥へと。
 それがどれほど深く続いているのか。その先がどのようになっているのか。それらはティエンにはあずかり知らぬことであり、おそらく通訳の男はそれをティエンには語らる必要のないものであると位置づけている。だから、ティエンがそれ以上を知ることは永遠にないのだ。
 そしてティエンには今見たものの何一つ理解することが叶わない。
 なぜなら彼は彼の信仰するところの神を信じているのだから。それ以外は悪魔にも等しいのだから。そして悪魔には情愛の何一つとして、存在しないのだから。

 だから彼は人でありながら、、人が真似している神々の愛でさえ、認めることができないのだ。








たとえこの身が粉々に砕けようとも、私はあなたに触れたかった。










こめんと
 あけましておめでとうございます。2006年、新年一発目の更新です。今年もよろしくお願いします。
 めざせ御伽噺ファンタジー。絵本と童話を足して2で割ったらブラックホールのようになった世界を目指したいと思っています。所詮は私のお子様知識でしか文章が書けない痛々しさですが。

 ご意見ご感想お待ちしております_(c)ゆうひ_2005/0904・1230〜2006/0101
もどる