太古、その巨大で神秘的な星は、黙してこの星に訪れる闇夜を照らしていた。 見よ! その矮小になったその星の姿を!! かつての栄光を失いつつあるその脆弱な姿を!! ああ…!! それでも尚、お前はそれほどにも神秘的なのか。 私の心はお前に捉えられ、もはや逃れる術(すべ)さえ知らず。 ああ…。 もはやこの一生のすべて。 お前を求め、彷徨うばかりなのに。 |
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衛星 |
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紅真は格子の前に立ち、その奥に横たわる影に視線を向けた。 それは人だった。 剥き出しの地面に流れ落ちた髪が、本体ならば薄蒼(うすあお)に輝く青銀(せいぎん)であることなど、この月明かりさえ射さぬ牢獄にあって誰が知ることが出来ようか。 その格子に片手を掛け、口端を持ち上げた。歪む視線の理由は、眉間に寄った幾筋かの縦皺が語るだろう。 暗闇に朗々と響くその言葉は嘲りであるのに、なぜか苦しみが見え隠れして胸を打つのはなぜだろうか。まるで耐えることの出来ぬ、あまりの胸の痛みに泣いているかのようだ。 「いい気味だな、紫苑。どんな気分だ」 語り、その都度に口端の歪みは大きくなっていく。その赤い瞳に煌々と宿る快楽の瞬間にも似た輝き。その光はまるで、今にも流れそうな涙をこらえているかのようにも見える。 二面性。 いったいどちらが正しい姿であるのか。彼の真の心のありようは、その姿からはまだ見えない。 「生まれ育った故郷は滅び、やっと見つけた守るべき国も滅ぼされ…。一度は裏切った組織に、結局は囚われの身だ」 紅真は一歩を踏み出し、もう片方の手も格子へと伸ばし握り締めた。 暗闇の向こうで横たわる影はぴくりとも動かない。 「なあ、知ってるか。星読みたちの言によれば、かつて『月』は夕暮れの太陽よりも尚、大きく煌々と輝いていたんだそうだぜ。大地に沈んでいく太陽よりも大きく、しかしそれとは正反対の、沈黙の威圧をもって」 赤々と燃える夕日の、その男性的な力強さはなかったかもしれない。神を信じるとすれば、きっとそれを見たときだ。思わず拝み、崇めたくなるその圧倒的な光景は今でも変わらない。 けれどその神秘的な様はどちらも変わらなかっただろう。 言葉さえ失うほどの静謐な佇まい。何も語りはしないその青白い光の前では、あらゆる虚勢も暴かれて何もかもが見透かされる。 「それが今はどうだ。雲にだって簡単に隠れちまうほどに卑小に成り下がってやがる。『月』を崇めたお前の国と同様。いづれ砕けて滅びるのも時間の問題だな」 自らの光はなく、ただ他人の美しい羽で着飾ることしか出来ない姑息な星。数ある星の中でもとりわけ小さく成り下がり、やがてその姿を視認することが出来なくなれば、訪れるのは忘却だ。 いつの日か、人々はその歴史からその存在のあったことを永久に忘れて、新たな神を見出すだろう。 「なぁ、どんな気分なんだよ…っ」 愛するものの何一つ守れず、愛(いと)しんだもののすべてが消え去り、忘れ去られていくこと。この世のどこを探しても、自分の生きた証の残らぬこと。 何より、それらすべてが目の前で、手の届くその距離で。無残にも、踏み躙られること。 「お前…もう、俺の声さえ、聞いてくれねぇんだな……」 額に格子の細い枝(え)が触れる。両手で支えていなければ膝から崩れてしまいそうだった。 答えのまったく返ってこないことをどのように捉えたのかは明らかだったが、おそらく彼とて理解しているはずなのだ。衰弱仕切ったその囚人には、もはや息を吐き出すことさえ億劫であることを。 それでも彼は彼からの答えが欲しかった。どのようなものでもいい。たとえば罵りでさえ。 憎しみをぶつけてくれてかまわない。憎悪の篭った瞳で睨み付けられれば、それさえ身も奮えるほどの喜びに変わるだろうに。 邪馬台国の滅びるそのときに、女王を殺すそのときにこそ、彼はその菫色の瞳に限りないまでの鋭さを宿していたものの。迸らんばかりの猛々しさで立ち向かってきたというものの。 その失われた瞬間に、彼のあらゆるものが失われたかのように崩れ落ちた。 一筋の剣線が縦に走り、その線をなぞるように赤い血が女の体から噴出すの見たときの瞠目。 それまで対峙していた紅真に背を向けて、膝から崩れていく女王に手を伸ばしたのは、何をしたかったからなのだろうか。その手は間に合うことなく、女王は背中を地面に叩きつけて、そのまま起き上がれぬようだった。 そうそう奇跡が起こってたまるものかと紅真は思う。紫苑の『剣』は消え去り、瞳を閉じることさえ出来ずに事切れた女王の亡骸(なきがら)の横に、膝を折ったまま。首をかくりと下に下ろしたままで、呆然とその死体を見つめていた。 土煙が舞い、あたりではまだ戦闘が続いていた。まだ『女王』の命が取られたことに気づかぬまま、殺し合いを続けている。まるで見えない壁が張り巡らされて、あらゆる喧騒を遮断しているかのようだった。 それは『拒絶だ』と紅真は思った。 一瞬前まで、確かに彼の瞳に写っていたのは自分以外の何者でもなかったはずなのに。 言葉を交わし、心を交わし、剣を交わしていたのは、間違いなく自分と彼だったはずなのに。 紅真は奥歯を噛み締めた。あの時と同じように。 あの時、その取るに足りない脆弱な命の一つごときで、彼のあらゆるすべて。紫苑という名の人間を手に入れた女に感じた憤り。紅真にとって、それは自分のあらゆるすべてを掛けても手に入らなかったものだというのにだ。 たった、卑小な命の一つ差し出すだけで、いとも簡単に手に入れてしまった。 あの時に感じた悔しさを言葉にすることなど、紅真には到底かなわない。あの戦場での苛立ちと同じように、或いはそれ以上のやりきれなさで、紅真は再び奥歯をきつく噛み締めた。 握り締めた格子を、握り潰してしまいそうだった。もちろん、そうしたところで格子の向こう側にいる衆人にはすでに逃げ出す気力がない。 そうだ。体力がないのではなく、『気力』がないのだ。 もし彼がそれを本気で望んでいれば、たとえ手足をもがれようと、全身の骨を砕かれようと、血の流れ続けるのが止むことを知らなくとも。きっと、それを成し遂げるはずだから。 「なんでもいいから…、動けよ。……なぁ!」 声が、掠れていた。 そうして、彼はとうとう、その膝を折り、崩れ落ちた。縋り付く格子がなければ、地にひれ伏して泣いていたかもしれない。 しかし、その格子さえなければ、目の前で横たわる彼の元へ、いとも容易くその手は届いた。 虚ろな視線が捉えているのは、岩壁の剥き出しになった天井だった。それさえ、暗闇の中に漆黒が写っているだけで、常識的に考えて、夜の星空が見えないのであれば、そこには何がしかの『壁』が天井として横たわっているからに過ぎないという認識によるものに過ぎなかったが。 水も食事も摂らなくなって、いったいどれほどの時がたっただろう。思考力も薄れてきたその体であれば、たとえそこに夜空があったとしても、もはや視界にその輝きを映し、捉えることなど出来なかったかもしれない。つまり、彼の耳はもはや、格子の無効で叫ぶ彼の言葉さえ拾うことが出来ないまでになっていた。 彼に出来たのはただ考えることだけだ。それさえ、とり止めもなく。 なぜなら彼の意識はすでに現世の中にはなく、夢のような世界をたゆたうばかりなのだから。 人間は弱い。まして希望を失った人間は。 けれど彼にとっての希望がいったいなんであり、それを失いどのような絶望を抱いたのかを、彼を知る人間は誰もが、おそらくは等しく、同様の勘違いをしているのだ。 彼にとっての希望も。 彼にとって、なぜそれが希望足り得たのかも。 そして、彼が生きる気力さえ失うほどの絶望を感じた理由も。 おそらくは、誰もが見誤っている。 けれど当の本人はそんなこと気にも留めていない。元々、彼には自分のことを他人に理解してもらおうと勤めることに希薄な面があったから、それも、当然のことなのかもしれない。 そうして、彼は一人。光さえ射さぬ部屋で、ひっそりと消えてゆくのかもしれない。 もっとも、それはあくまでも彼の想像で。 手を伸ばせば届く位置に。たとえ光さえ射さぬとも、彼の姿を捉え、手を伸ばし、呼び掛ける存在があることを、彼は想像だにしていなかった。 |
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所詮、私は自ら輝くことも出来ない醜いばかりの矮小な星。 遠く、高みを見つめるばかりのあなたの目には、その姿さえ映っていない。 ならば浴びるしかないではないか。 誰もが視線を向けずにはいられぬその光を。その輝くばかりの栄光を!! より近づけば、より強くその大きな輝きを受けることが出来る。 そしてその光で私も輝き、運がよければあなたの目にこの矮小な私の姿さえ、写すことが出来るかもしれない。 まるで炎に惹かれて誘き寄せられた羽虫(はむし)のように。 輝く恒星に近づく姑息な私の姿を、あなたはどのように思っているのでしょう。 それでも輝くあなたに少しでも近づきたいと願った、卑小な私を見て。 せめて哂ってくれたらと。 なおも思う私の浅ましきことよ。 美しく、大きく。決してその位置を変えることのなきものよ。 自身で輝き、己の意思を違えぬもの達よ。 お前達には解(わ)かるまい。 この小さき私の心など。 小さき私の、小さき心など。 気にもすまい。 私の周りには常に中心になる何某かが存在し、私は常にその周りを回り続ける。その支配下にある。 けれど同時に私は私を支配するそれを守ることが出来る。 そうして初めて認めてもらえる。 けれど、ねぇ。聞いておくれ。 たった一人で輝く恒星よ。偉大なる星々よ。その一員たる汝よ。 私がどんなに恋焦がれても。 私がどんなに思いを寄せても。 その憧れにも献身にも。愛にさえ。 あなたがたは見向きもしてはくれないだろう。気に掛けてもくれぬだろう。 ならばもう。 私を輝かせる『それ』を失えば、私はあなたの目に写らぬ絶望の前に、やがて枯れ落ち、朽ち果てていくしかないではないか。 |
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『なぁ、そうだろう? 紅真…』 紫苑はもはやその記憶の中でしか会えぬ彼に向かって呼び掛けた。けれど彼は知らない。それが、彼らにとっての悲劇の序章であったことを。 彼がもはや記憶の中でしか会えぬと涙したその相手は、今、まさに彼の手の届くところに佇み。そして横たわる彼に己のその声が届かぬと嘆いている。 自ら輝くことの出来る巨大な星が、彼が云うところの矮小なその星を手に入れることだけを望み。それが叶わぬと悲嘆にくれているのだ。 『紅真…』 彼の声は、その姿を目に焼き付けて泣き暮らす誰かにとっては悲愴なことに、もはや『音』には成り得なかった。この暗闇あっては、その乾いた唇が僅か、ほんの僅か、上下したことさえ見ることが叶わない。 紫苑はとうとうその瞳を閉じた。この世のすべての音が消え、漸く重力からさえも開放されたように楽(らく)になれたような気がした。 もはや体の重みさえなく。それでもまだ微かに上下する胸の律動が穏やかに感じられる。 彼には一つだけ、訪ねてみたいことがあった。 それはどうしても聞きたいというものではなく、機会があれば――たとえば機嫌のいい彼の隣に座り、互いに酒でも飲み交わすような。或いは『友』のような関係にあり、とりとめもないことを意味もなく話す。そんなやり取りをするような――。夢のような機会のことだ。そういったものがあれば、聞いてみたいと漠然と心に抱いていた疑問のようなものがあった。 お前の光になれる人間は、いったいどれほどの強さをもって、輝いているんだろうな――。 きっと、それは目も暗むような眩しさなのだろうな。あまりにも眩しすぎて、俺には見ることすら出来ないような。 ああ。 それなら、聞いても無駄か。 いつまでも、どこまでも、お前はそうやって、俺には目にすることすら出来ぬほどの『高み』を見つめ、まっすぐに、上っていくんだろうな。 今も、これからも。永遠に。 生きている限り、きっと、永遠に―――。 |
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ああ、そうだ。 私では、あなたを守ることは出来ない。 なんの役にも、立てないのだ。 |
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talk |
超スランプです。あり得ないくらい言葉が出てきませんでした。なんかすっごいありきたりで意味不明で支離滅裂な文章で嫌になります。ああもう…!本当に文章が書けないんですよ…(泣)。背景は黒にしようと思ってたのになぁ…。でも話自体は気に入ってます。 ちなみにこれは別に死にネタだと限ったわけではありません。もしかしたら紅真さん。紫苑さんを助けちゃうかもしれませんよ。だって、この話の紫苑さんは、紅真さんが求めてくれればものすごく幸せで。いくらでもその妄想の中で行き続けることが出来ますから。 この話の続編を書くとしたら、タイトルは『恒星』です。だってたぶん紅真さんの紫苑さん看病記になるから。横たわる紫苑さんを、紅真さんはそれはもう献身的なまでに世話を焼くでしょう。でも紫苑さんは半死半生、半分あっち側の世界へ意識がトリップしている状態なので気がつきません。なんかすごく暖かくて幸せだな〜とふわふわした意識の中で思うだけです(笑)。絶対書かないけど。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2006/06/10_ゆうひ。 |
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