ハジマリハ花、きっかけは雨。そして黄昏で終わる恋。 
-表の章-





「あら、紫苑。どうしたの、その花?」

 緋蓮はまだ幼い息子が大事そうに両手で包み込むように持っていたそれに、首を傾げて訊ねる。彼女の長い漆黒の髪がさらりと音を立てて揺れた。

「もらったんです。わたしはとてもきれいだから、このあかい花が似合うと云って」

 まだ変声期前の舌足らずな様子で嬉しそうにはにかんで見せた息子に、緋蓮は他の誰にも見せぬ柔らかな微笑を返す。この幼い息子は彼女に似て聡明で、同じく彼女に似て滅多に表情を動かすことがなかった。
 そんな愛息子が嬉しそうにはにかんで報告してきたのだ。息子を愛してやまない彼女が慈愛を感じぬはずもない。
 彼女が言葉を放とうと口を開きかけたときだった。そこへ横槍を入れたのは、彼女には無粋な、息子には明朗な、『父』の声だった。

「おー、緋蓮、紫苑。元気か」
「……何をしにいらっしゃったの?」

 底冷えするような緋蓮の対応にも慣れたものだった。軽く受け流し、視線をそのまま息子へと向ける。
 その小さな手にあるものに目を留め、蒼志は躊躇うはずもなく訊ねていた。

「なんだ、紫苑。花か?」
「はい。わたしにはこの花が似合うからと、いただいたのです」

 嬉しそうに報告する愛息子に、しかし蒼志は一切の頓着もなく、顔を顰めて言い放つ。

「そうか。でもな〜…。花って…。女じゃないんだから……ぐはっ」

 緋蓮の見事なウルトラハイキックが蒼志の脳天に決まった。
   蒼志は後頭部を抑えて蹲り、緋蓮はそんな蒼志を心配する様子を欠片も見せずに、威厳漂う不動明王の如き威圧感を持って佇んでいた。
 夫を見下ろす彼女の目はどこまでも冷ややかだ。それも当然だろう。
 見慣れている紫苑はいつもの光景に、普段であれば機嫌の良さも手伝ってかにこにことしているはずだった。まだ小さなこの少年は、母が父を殴り、蹴るのは仲の良いことの裏返しであると――母親に言い包められて――信じていたからである。実際、少年の父には何十人もの妻がいて、しかしこれだけ和気藹々と会話の弾んでいるのを、少年は他では見たこともない。
 城の外では幾らでも見かけるその日常は、ここでは少年の父と母の間でしか見ることの出来ないものだった。
 けれどこの日、彼の表情が笑みに彩られることはなかった。それだけ蒼志の言葉が、この繊細な少年の心を傷つけたということだろう。
 息子の細かな表情の機微にまで気がつき、緋蓮はそれに細やかな気を遣い続けてきた。それは、彼女がこの居住空間の中にあって、自分の味方は息子一人であり、息子の本当の味方になってあげられるのは、自分一人であると――少なくとも、少年がまだ成人していないほどに幼いうちは――まだ息子が生まれてくる以前から、決意を固めていたからだ。

「あなたってどうしてそうなの……」

 今度こそ本当に愛想を尽かしそうな――そもそも尽かす愛想があるのかどうかが疑問であるが――溜息を吐き出して、緋蓮は蒼志を追い出した。
 庭の方では尊敬する父に否定されたことに、ほんの少しだけ気落ちした様子を見せる息子がいるはずだ。それを慰める為、緋蓮は気合を入れて踵を返すのだった。





 息子が普段帰宅するよりも若干遅い時間に帰ってきたのは、突然の強い雨の降った日のことだった。息子が朝から着て出て行った服は重たく湿ってしまっている。未だ雨足は強く、それでもおそらくはどこかで雨宿りでもしていて帰りが遅くなってしまったのだろう。
 日が沈みきる前には戻るようにときつく言い聞かせてあるとおり、この息子がそれ以後に帰宅することは之まで一度もなかったから。
 たとえそうでなくとも、母との約束を忘れるほどに楽しい時間を得ることの出来る友人が息子にできたということは、緋蓮にとって喜ぶべきことだ。怒られると思っているのか、申し訳ないことをしたと思っているのか、少々沈んだ様子に表情を曇らせる息子の表情の理由(わけ)を想像しながら、しかし決してきつく、頭ごなしに叱るようなことはしまい。その必要がないのだからと、緋蓮は胸中、微笑んでいた。

「どうしたの、紫苑」

 優しく訊ねる緋蓮に、紫苑は俯かせていた面を上げた。沈んでいると感じた表情は、やはり影を持ってはいたが、沈んでいるというよりは、むしろどことなく戸惑っているといった風情が強いように感じられる。
 何か胸に突っかかるものがあった緋蓮が口を開くかどうか迷っているうちに、先に口を開いたのは息子の紫苑だった。

「母上」

 少年が母親に呼びかけるのに、緋蓮は決して自分が不安や迷いを息子に見せ、その心を息子にまで伝染させ、ただでさえ迷いのあるらしいその小さな心を煽ることのないようにと注意を払いながら訊ね返す。
 そうやって、緋蓮はいつだって、息子に対しては優しげな笑みを向け続けていた。
 紫苑は僅かに躊躇うようにしながら、しかし母を信頼しきっているのだろう。口を開いた。

「母上。わたしがきれいだと、わたしの体に触れたいのだと、かれは云ったのです。かれがわたしの体に口付けるのは嫌ではないのですが、なんだかちょっとへんなのです。なんだか、すごくかなしいのです。でも、なぜかなしいのかがわからないのです。かれは、わたしがきれいだと云ってくれて、でも、わたしと一緒にいると、いつも、どこか、かなしそうなのです。そしてわたしがそれが、なぜだかとてもつらく、さみしいのです」

 必死に訴える息子のその表情を、緋蓮は漸く理解した。
 紫苑は『切ない』のだ。そしてまた、紫苑が『かなしそう』だというその『かれ』の表情もまた、紫苑と同じく『切ない』のだろう。
 緋蓮はなんと声を掛けるべきか暫らく迷った。僅かに躊躇い、けれど彼女の表情はやはり優しさに満ちていた。

「紫苑。母はあなたに、『外』へ出るようにと教えました。それは、母がこの外から来た人間だからです。あなたの父上は単細胞なので、本能で外にあるべきものを嗅ぎ取り、それを学びました」

 緋蓮の云う『外』とは、現在彼女達が生活をしている『王宮』を囲う壁の向こうのことであり、王族、貴族の価値観とは異なる世間のことだ。

「紫苑。あなたには、父上が持つように、あるべき場所へ自然と向かうべき嗅覚が備わってはいません」

 緋蓮の言葉に紫苑は項垂れる。
 母はいつも、父は本能で動き、直感で物事の結論を出していると云って憚らない。けれどそういうときの母は苦虫を噛み潰しながら、その判断が間違っていると云ったことがなかった。
 父のような勘が備わっていないということは、紫苑には現在彼の父があるべくようになったような地位には相応しくないと――紫苑は父を尊敬しているが、決してそのような人間にはなれぬのだといわれたも同然で。胸に去来する失望や空虚を、どうやり過ごせばいいのか、紫苑には分からなかった。
 落ち込む紫苑に、母は尚も言葉を紡ぐ。これ以上はもう何も聞きたくはないと、紫苑の心のどこかが叫び、しかし今の紫苑には、もう耳を塞ぐだけの気力さえなかった。

「あなたはそれでも、父上と同じように直情的なところがあるわね。けれど父上ほど楽天的ではなくて……。私のように、淡白でもない。だからいろいろなことを考えて、悩みすぎて、今のように、身動きが取れなくなってしまうのね」

 母の言葉に紫苑は俯かせていた顔を上げれば、そこにはどこか寂しげな顔で微笑む母の顔。思いがけぬそれが突然目の前に現れ、紫苑は円らな瞳をさらに大きく見開いた。

「母ほど淡白に。父ほど単純にあれば、もっと簡単なのに。あなたは、母よりも父に似たのかもしれないわ。残念なことに、彼の心の内など、決して理解はしないつもりでいるから、息子の心のありようさえ、推測の域を出ないのだけれど」

 後半は自分自身への自嘲だった。
 紫苑は首を傾げて母の様子を、言葉を見守っている。それに気づいた緋蓮が、にこりと笑みを深くした。
 息子の色素の薄い瞳と、母の、黒真珠のように光沢のある漆黒の瞳とが、正面から合わされられた。

「ねぇ、紫苑。思うように生きなさい。それは、きっと素敵なものよ。残念ことに、母はそんな風に素敵な『恋』を経験したことがないのだけれど」
「『こい』……ですか?」

 紫苑はやはり小首を傾げる。さらりと音を立てて流れる銀の髪を見やり、緋蓮は笑みを深くした。この髪の色はまさしく父親似だ。しかし、肌の色も顔立ちも、その髪質も、他はみんな自分――母親――似だ。

「素敵な恋をなさい、紫苑。求めて止まないほど、相手を思い合えるような。理由など考えなくてもいいと思えるほど、ただ惹かれる相手に巡り会うなんてこと、きっと、一生の内に一度でもあれば、奇跡なのだから」

 それは終に恋をすることの適わなかった女の言葉だった。
 きっと意味など分かっていないだろうに、紫苑はともかくも、首を縦に振ったのだった。





 けれど雨の日の黄昏。その後で。
 紫苑が『かれ』に出会えることはなかった。

 いつもの場所にどれだけを足を運ぼうと、彼は一向に訪れる気配もなく。
 やがて、紫苑はゆっくりと心を閉ざしていく。諦めに。
 緩やかに心を凍てつかせていくことで、すでに理解していることから受ける衝撃で、自分が壊れてしまうことのないようにと。
 それは、父とは違う。母とも違う。
 彼だけが持つ、本能。
 けれどその自己防衛は、思いがけず。別の出来事による衝撃を、ほんの少しだけ、彼に軽くする効果を与えることになる。

 ああ、なんという、皮肉な巡り合わせでしょうか。
 だって、彼が諦めるべき運命に出会っていなければ。きっと、彼の心はどのような言葉にも反応できぬまでに壊されていたでしょうに。何もかもを突然奪われる衝撃に、脆くも砕け散っていたでしょうに。
 彼の理由の分からぬ拒絶――少なくとも紫苑にとってはそうでしかなかった――がなければ、今の彼などありえもしないでしょうに。
 けれど二度と立ち上がることさえ出来ぬほどに壊れていれば、再び彼に出会うこともなく。
 そのことを彼らが――或いは誰かが知ることは永遠にこないのだけれど。

 とうの昔に恋の時間は終わりを告げ。
 劣情の愛へと変化していたことなど、ついに恋を知らずに消えた母なる女には分からないまま。
 いつか、その激しい思いのぶつけられること故に、恋に戸惑う彼がその身を『かれ』差し出すのかどうか。
 今はまだ、誰も知らないこと。








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 表裏一体のこの話。裏の章は当然、裏部屋にあります。そちらは紫苑視点です。興味があったら覗いてみてください。
 ずっと書きたかったテーマなのに、なんかいまいち不発な感じで微妙。この話の蒼志と緋蓮、そして紫苑は「幼なじみに贈る5つのお題2」を引きずっています。まったく同じというわけではありませんが、概ね同じ。なので設定を知りたい方はそちらもどうぞ。
 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2006/09/22・23・30_ゆうひ。
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