ハジマリハ花、きっかけは雨。そして黄昏で終わる恋。
-裏の章-
『きれい』というのが褒め言葉だと知っていた。けれど、『彼』にそれを云われたときの驚きと、表現しようのないその思いは、数年を経た今でも、自分が正しく理解することはないのだ。 戴いた花は美しかった。おそらく自分は微笑っていたはずだ。すごく嬉しかったから。 嬉しいと、直接言葉にして返したことはなかったけれど。伝わっていたと信じたい。 あんなにも笑顔が自然に溢れ出すなんて、今までになかったんだ。彼の前ではたくさん微笑った。ずっと笑顔だった。 幸せな気持ちに溢れていたから、ずっと、微笑んでいられた。 どこにだって翔けて行けた。彼が手を伸ばしてくれれば、いとも簡単にその手へと走ることが出来た。 たとえ彼が導く先が黄泉へ下る坂道だったとしても、気づかぬまま、幸福な気持ちを抱えて駆け下りていけただろうに。それくらい、空は蒼く澄み渡り、緑の草原は碧く煌めいていた。 毎日が光り輝いていた。中でも外でもこんなのは初めてで、母上が『外』へ行けと云ったその本当の意味を、そのとき初めて知れたような気がする。 世界が輝いているのだと初めて知った日。そこで漸く。世界には美しい部分と醜い部分が入り乱れていて、その全てをひっくるめた全てをもって『世界』とし、その全てどれもが尊いのだと。 それは自然の有りようであり、それは人の営みであり、そしてそれは人の心の有りようである。 彼とずっと一緒にいたかった。共にある時間の流れの速さに驚いた。 けれどそれは永遠に続くものだと感じたので、焦ることはなかった。 いつまでも、煌めく時の只中にいられるのと信じていた。疑わなかった。 だから意図も簡単に私は彼に別れの手を振り、家路絵と着いたのだ。いつだって。何度でも。 天気を読みきることなど出来ないと、母が語っていたことがある。それは曇った空を見上げてだったか。晴れ渡る空を眺めてだったか。あの時とは違い、しとしととした小雨でも降っていたか。 今となってはもう思い出せないが、どちらにしても、私は上向く母の顔を下から見上げていた。 この日の雨も予測することの不可能なもので、突然、段階を飛び越えて激しく振り下ろされた豪雨に、私たちはあっという間に濡れ鼠になった。 彼が慌てて私の手を取り引いていく。 導かれるままに、私は足を急がせた。雨によって濡れた草に足を取られそうになりながら、必死に。彼に引かれて。その道をついてゆく。 雨宿りの為に駆け込んだ洞穴。薄暗く、雨雲によって日の隠れてしまったこんな天気では、もう夜中のように暗い。 月明かりも星明りもないから、夜よりも尚、その闇は増していた。 濡れた服をそのまま身に着けていれば体はより冷えていく。互いがそのことを知っていて、それでも僅かに躊躇いながら服を脱ぎ捨てていく。 そんな、裸で向き合うのに照れるような年齢ではないだろうと、今の自分が当時の自分達と同じ年頃の子供に向けて云う科白は今だから云えることなのだ。子供だからだなんて、そんなこと。子供のうちには失礼な話し極まりないだろう。 今だって、まだまだ『子供』の自分なのに。そんなことを考えている。 まして同性である二人。男同士なら、むしろ裸の付き合いを白などと云って背中を叩くのは、いかにも、今はもういない父がしそうなことだった。 どうしてそうなったのかは分からない。おそらく、そういうのを自然の流れというのだろう。 彼の唇がこの首に触れ、感じたくすぐったさに肩を竦めた。びくりと跳ねたこの身をどのように捕らえたのだろう。 彼はほんの少しの停止の後で、その身を緩やかに後退させていく。 彼の離れていくのがどうしようもなく寂しくて。けれど引き止める言葉は何一つ出なくて。 その手を伸ばす術(すべ)を、その当時の自分は知らず、今も尚、知らぬままにここまできてしまった。 彼の赤い瞳が自分の薄青の瞳をまっすぐに見つめてきたのを覚えている。数秒か、数分か。沈黙は必要な間(ま)の分だけ。 彼はゆっくりと口を開き、訊ねてきた。 『嫌だったか』 私は首を横に数度振り、それから答える。 『でも、これはなんだかいけない気がする…』 上手く言葉に出来なかった。理由など分からなかった。 けれど思ったのだ。私と彼はそれを望み、きっと、それはとても暖かい。どこまでも苦しく、切なく、けれど決して独りにはならない。 そしてその独りにならないということが、とても、重要だったのではないだろうか。 彼が何を抱えていたのかを知らない。彼も、きっと私のことなど知らない。 けれど彼は私を『きれい』だと云い、私は彼のその言葉に喜んだ。 彼が私に贈ってくれた花ほど、私の心に優しい明かりを灯(とも)したものなどない。こんなにも暖かな想いが存在することを、そのとき初めて知った。 同時に。 私はそれまで一度も独りになったことなどなかったのに、今までずっと、隣に誰もいない孤独に苛(さいな)まれていたのだと知った。 何が私を孤独にしていたのかなど知らない。 母はとても極め細やかに私に接し、父は父なりに私を愛してくれた。 どのような思惑が渦巻いていようと、私には同じ年の頃の遊び相手が周囲には幾らでもいた。皆(みな)、血族だった。 今はもういない彼らの顔を、私は父と母以外の誰一人として思い出せない。それほど私の彼らへの興味は薄かった。 そのときはそうは思わなかったけれど、結果としてそうなったし、今思い返してみれば、それは間違いないことだった。何をしていたかの記憶はあるが、それを心から楽しんでいた記憶というものがないから。 それらは私に何も齎さず、けれどそれらは確かに私に必要不可欠なものだった。尊いものだった。 ……違うのかもしれない。 それらを失って、私は空っぽになったのではなく。初めから私は空っぽで、それを誤魔化していた――自分自身さえ誤魔化していたそれら全てが一気(いっき)に亡くなった。 そのことにちょっと驚いて、茫然自失になっていた。それを見て、私がショックを受けて心を閉ざしたと思っている。いろいろな人々が。 聡明な母ならば、違う答えを出してくれたのかもしれないが、未熟な私の自己分析では、この程度が関の山だ。だって、私はあの焦土の中で、涙さえ流せなかった。 ただ死を待っていた。 どんなに生きていてもここにはもう何もなく。そこへ帰ったことによって、永遠に彼を失ったのに。もう二度と、彼に会うことは適わないのだと、完全な諦めに襲われたのに。 母は恋をしなさいと云った。けれどその時にはもう、恋は終わっていたのだ。私の中では今も『恋』は恋のまま。何も変わらずに切ないまま。今でさえ、こんなにも切ないまま。 けれど彼にとっては終わっていたのだ。あの当時、突然いなくなった彼の、その理由が分からなかった。信じられず、その意味をなかなか理解できなかった。 理由など分からないと云いながら、何度も何度も彼の姿を探しながら、あの日のことを思い返していた。 何がいけなかったのだろう。 喜びを、感謝を、言葉に出来なかったことだろうか。あそこで、手を差し伸ばすことが出来なかったことだろうか。それとも。 あの雨の日に。日の沈むのを迎え、そのまま、振り返りもせずに、いつものように帰路に着いたこと…だろうか。 ああ、なんだ。幾らでもあるではないか。 こんな風に積み重なって、きっと、彼は私のもとを離れていったのだ。 それでも尚、未だ女々しく彼に会いたいと願うこの私を、彼はどのように思うだろうか。自分でさえ自嘲の止められない態(てい)であるのに、彼に哂われない理由もない。 せめて哂われたならと、今は思う。 『きれい』という言葉が褒め言葉だと知っている。けれどもう一度。再び『彼』に出会ったとして、彼はこの身を目にして『きれい』などとは決して云ってはくれないだろう。 もはやこの身の、この心の何一つ美しいところなどない、私なのだから。 それどころか、気に留めるべき何一つない、空虚なこの身なのだから―――。 |
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表裏一体のこの話。表の章は緋蓮視点。こっちから先に読んだって人はいるのかしら? 黄昏は単純に夕暮れのこと。『カラスが鳴くからか〜えろ!』って歌いません? 日が暮れたら危険なので子供は帰らないといけない時間ですよ〜(笑)。 なぜ裏かといえば、当初はもっとえろくなる予定だったからです。一桁年齢のちっちゃな子二人のえろ。だから裏。というか、「お前にエロなんか書けるか馬鹿が!」って自分に突っ込んでやりました。まあ、元々あんなちっちゃな子に最後までやらせる気は毛頭なかったんですが。エロが書きたいというよりも、なんだかほんのりとした、もどかしくなるばかりの触れ合いというか、そういうのがいつも書きたくて仕方がないのです。そして結局挫けるという…。裏の言い訳は表と総合だから長いですね〜(笑)。 今回は表、裏共にレイアウトにかなり満足しています。しかもそれほど読み難くないでしょ?…まあ、そこは機種によって多少違いますが。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2006/09/23・30_ゆうひ。 |
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