Beautiful sky
「馬鹿ね」 漸く仕事が一段落を向かえ、ナシメが半ば急ぎ足でもって書簡の束を抱えて部屋を後にしたまさにそのときだった。彼の背中の消える瞬間に投げ掛けられた彼女のその言葉は、だから書簡を抱えて次の仕事をこなすべく部屋を退出した彼へ向けられたものだと錯覚しそうになる。 そんなに慌てて仕事ばかりしてどうするのよ。 それが彼女の口癖の一つだった。決して好きで癖になった台詞ではないはずだ。 その言葉を聞くのに一番厭(あ)いているのは、或いはその言葉を呟く彼女自身であるかもしれなかった。 両手で頬杖を付く彼女のサボり癖――本当に必要な場面ではもちろん在り得ないことだが、彼女の補佐兼教育係であるあの生真面目な彼によれば、どんな仕事だろうとも真剣に、集中して、真面目に、テキパキとこなして当たり前。まして女王が城を飛び出し体を動かすなどなど言語道断。ということらしい。その実、彼こそがそんな女王の性分をきちんと理解し、認め、寛容にしていることは疑いようないのだけど――による被害であるのに、彼女に悪びれる様子は欠片もない。少しくらいゆとりを持って事に当たるべきであるを心情にしてでもいるかのように、彼女はとても上手く肩の力を抜いて、日々を全力で生きている。 まるで矛盾しているかのようなその言葉が矛盾にはならない存在。それが、この国の女王、壱与という少女であった。 「本当に馬鹿。」 彼女はまた呟いた。同じ言葉を繰り返すのは、その言葉を意図的に無視して聞き流そうとしている相手にそれを許さぬことを表示するためだ。 彼女は相変わらず机に頬杖を突き正面を向いたまま。 「ねぇ、紫苑君」 とうとう相手の名を呼んだ。 すっと。まるで影でも動くかのように、彼女の背後――執務室の日の光の届かぬ領域――から日のあたる場所へと姿の位置をずらして歩み寄ったその者こそ、彼女が真にその台詞を向けていた相手。 彼の立つそこは陽光と影の交わる境のように薄暗かった。まだ時刻は昼。太陽の光の最も強い時間帯だ。 日の光が当たらぬ場所ほど暗くはなく、しかし光が降り注ぐ場所ほど明るくはなく。 彼が女王の声に応えて僅かにその身を近くに寄せ姿を現したその場所は、しかし決して職務に背いて友人として語り合うつもりのないことを暗に示していた。 女王の護衛。それが彼に与えられた役割であり、彼が自らに課した義務だった。 紫苑。 むしろ薄暗い中でこそ彼の姿はしっかりとした形を顕にするかもしれなかった。銀の髪、紫水晶の如き瞳。白い肌。細く華奢な肢体。 若い女王よりさらに幼いその少年の構成するパーツの一つ一つが、ぎらぎらと輝く陽光(ようこう)の白光(はっこう)の下(もと)にあっては溶けて翳んでしまいそうに感じられる。まるで蜃気楼のように、ぼやけてしまいそうに。 彼女は彼の無言の意思表示になど一切構わずに、言葉を告いだ。他人の思惑など無視して、強引に。引き摺っていってでも、光の下へ連れ出す。それが彼女のやり方だった。そして、その慈悲深さと幾つかの痛みを抱えた、まさに太陽の如き『笑顔』に救われたのは、彼とて同じこと。 「馬鹿よ、紫苑君。本当に、馬鹿」 彼女は繰り返した。 彼はまだ答えず、彼女はそれを分かっていた。理解していた。 「お互いに思い合っているのに、本当に馬鹿。二人とも」 はじめからそうであったのだが、彼女の声音には嘲りは一切ない。いな、そもそも起伏がない。ただ淡々と――それは本来の彼女からしてみれば在り得ぬもので――ただ事実だけを語っていた。それはいっそ残酷なまでに。 「紅真君だよね。紫苑君がいるから、私が行く所行く所彼が現れて、もう、何度二人はぶつかり合ったのかしら。貴方がいるから彼は私の前に頻繁に現れるけど、貴方がいなくても、きっと彼は私の前に――彼が私の前に現れる理由。その持つ真意は異なるでしょうけど――現れるだろうから、彼が貴方に気を囚われない分、私の命は簡単に消えるわね」 二人の戦いの規模はまるで嵐のようで。その余波に阻まれて、彼の部下は私を相変わらず殺せないしね。 良いのか悪いのか分からない。 彼女は頬付けを付いたまま器用にも肩を竦める仕草をして、その声音にはほんの少しだけ楽し気なものが混ざっていた。 事実、彼女は微かに目が眇めて微笑っていた。彼女の後ろに控える彼にはその背と、後頭部が見えているばかりだから実際には見えるはずもないものではあるが、二人の間にある絆は誰にも入り込むことの出来ぬほど強く、太いものであったから、お互いが今何を思い、何を感じ、どのような表情をしているのかなど、手に取るように分かる。――分かるようになるだけの、関係を築いてきた。 それは恋ではなく。愛でもなく。友情とも違っていて。けれど、誰よりも互いを信頼できる。 出会ったあの日から、二人は同志だった。 同じ戦いにその身を捧ぐ、その同志だった。今も変わらず、同志だった。 「本当に、馬鹿」 壱与が繰り返し、そこで初めて紫苑が口を開いた。 彼の喋りは二人が出会ったあの頃と相変わらず。やはりどこか淡々とした、感情の削げ落ちたものだった。 「分かってるさ。そんなこと」 彼は云う。 互いの気持ちが一つであることなど知っている。自分達の気持ちになどとうに気づいている。互いの気持ちは分かり合っている。 互いに互いを敵だと思ってる。だから相変わらず全力で殺し合ってる。 互いが互いを好敵手だと認め合ってる。癪だけど、認めるしかないから。だから、いつまで経っても、相変わらず二人とも生きている。 壱与は相変わらず彼に背を向けたまま。彼の言葉に。その現実の、あまりの切なさに、顔を歪ませた。 泣くのを堪(こら)えたような、意地っ張りの笑みだった。 どうしようもない呆れと、それと同じだけの愛しさを含んだ苦笑だった。 「馬鹿ね。何にも気づいてない。――ねぇ、紫苑君」 彼女はそこで初めて彼に向き直った。 肩越しに振り向いた彼女の表情は、その翡翠の瞳には、憐れみがあった。 「男の子って、愛に疎いのね」 壱与のその台詞に、紫苑は顔を歪ませて言い返した。への字に曲げられた彼の口が実に彼らしくて、壱与は内心で笑った。 そんなことが、なんだかすごく嬉しかった。 「レンザの馬鹿を見てるとそうでもないみたいだけど」 「あはは。あれは例外」 壱与は豪快に笑った。相変わらず、彼はこの女王への愛を叫んで憚らない。 「そうじゃなくてね。一般的に。――女の子の初恋は、だから実らないの。男の子は、まだ恋を知らないから」 壱与は微笑った。弟を見る姉の表情が、そこにはあった。 彼女は昔から、しばしば彼のことをそのような瞳で見つめる。 彼はもう諦めていた。 実際、彼よりも彼女の方が二つばかり年長でもあるのだから。 「初めは分からないの。だから、知ってる別の感情と勘違いするのよ。でもそれは違うの。気づけないことは、とても、寂しいわ。気づけば、それはとても切ないけれど」 彼女とて少女だったから。誰にも知られることはなかったけれど。切ない恋の一つや二つ、経験している。 彼女はまだ若く。けれど成人していた。 もう、幼い恋はきっとしないけれど。きっと、もう恋などしないけれど。 切ない恋をしている二人を見ている。 恋し合っていることにすら気づかずにいる二人を見てる。 それが、どうしようもなく切なくて。彼女の胸を締め付ける。 「恋に気づくと、それはすごく切なくて。恋し合うことに気づけば、でも、それはすごく暖かく、愛しいものになる。ねぇ、紫苑君。貴方は――貴方達は、ちゃんと、自分の気持ちに向き合ったことがある?」 壱与は紫苑を見つめた。その表情は必死に訴えていた。 紫苑は眉間に皺を寄せた。壱与の視線から逃げるように、僅かに面(おもて)を斜めにした。吐き出される言葉は、苦渋に満ちていた。 「俺は――別にあいつを嫌ってなんかいないさ。憎んだことなんて一度もない。でも、あいつは俺を殺したいほど憎んでる。そして俺には、あいつが俺を殺そうとするそれに抗わない理由がない」 生きる理由がある。生きたいと望んでいる。生きてやるべきことがある。 だから、殺されてやるわけにはいかない。 でも相手が殺しに来るから。 だから。 ならば。 向かうしか、ないではないか。 戦って、刃を向けて。――殺し合って。 「たとえば壱与。お前の云うように、俺があいつに――紅真に、好意を持っていたとして」 面を上げて、紫苑は真っ直ぐに壱与と向かい合った。 そうして告げる彼のその瞳の強さは、本当は全てを知っていたのだ。 自分が本当に抱いている思いも、夢見ている未来も。そして、それが決して適わないものと思い込み、悲しい決意を勝手に固めてしまっている。 「壱与。それであいつが俺と同じ思いを持っているだなんて、どうして云える? 少なくとも、俺にはそんなこと、信じられない」 紫苑は自嘲した。ずっと、直情的なまでの怒りと憎しみをぶつけられてきたのに。一度はこの心さえ崩されたのに。にもかかわらず、自分は彼のことを憎めないのに。 彼は自分を大嫌いだと告げるのに。それでも、自分は彼を思うことを止(や)められないのに。 どうして、気づかずにいられるというのだろう。 そしてどうして。それが自分だけの抱く思い出はないと、安易に、短絡的に、思えるというのか。まして信じるなど不可能だ。 歪められた口角と、切なげに眇められた瞳に。壱与は答えを返せなかった。 壱与が答えないことに、彼はこの話の終焉を告げた。 言葉はない。ただ、彼は歩みを進め、彼女の横を通り過ぎて行く。 彼の真紅の――それはあの瞳の色と同じだった――外套に覆われた背が消えていく。 「本当に、馬鹿ね……」 彼等は二人とも。恋してる。切ないほど、激しくて、真っ直ぐな、恋。 恋してる。愛してる。求める。 まるで己(おのれ)の半身を手放すことなど出来ぬように。 けれど、二人ともが諦めてる。 この思いは己だけのものだとして、勝手に完結させて。 諦めてる。 そして、交われぬ代わりのように、ぶつかり合う。 手を繋ぐ代わりに剣を交え。抱擁の代わりに自らの血を相手の為に流し。接吻(口付け)の代わりにその命を狙い。 重なり合う代わりに、その心の砕かれることを願う。 壱与の洩らした呟きは、部屋を後にした紫苑には届かなかった。 紫苑は壁にその背を預けて空を見上げた。顔を覆う手の隙間から垣間見えるその空はあまりにも鮮やかな蒼で。 それが逆に、彼のあの鮮やかな漆黒と真紅の色合いを紫苑に思い起こさせた。 彼は空から視線を外したくて、その面(おもて)を俯けた。項垂れた首。相変わらず右手の平で覆われた彼の表情は伺えず。 ただ、その手の平の隙を縫い、一条の雫がその頬を伝いて流れた。 |
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気持ち、原作より二、三年くらい時間が経過しているつもりで書きました。紫苑は14〜15歳くらい。相変わらずの日々。それでも着実に時代は動いてる。そんな感じ。 もう一日中これ。仕事が終わるまで書けないので、決してネタを忘れまい、雰囲気を消すまいと必死でした。BGMはSarah Brightmanのアルバム『Harem』。彼女の歌声は本当にきれいですね(外国語なので歌詞はわかりませんが)。 ちょっとだけ『紫苑→紅真』色強め。本当は両思いなのに、お互いが勝手に、それは自分だけの片思いだと決め付けて、諦めてる。気づいてるのは壱与だけ。次の野望は記憶シリーズで紫苑が紅真にメロメロヴァージョンを書くこと!(←誰が読むんだよ…)。 話し変わって。この話を書いていて、私はそれまで考えもしなかったある可能性に閃き愕然としました。それは『あれ? 紅真って紫苑よりも年上なんじゃない?』ってことです。なんか、紅真って紫苑よりも壱与やレンザと同年代っぽい感じに囚われました。あれ?原作ってどう云ってったっけ?やべぇ…。暇が出来たらちょっと読み直さないとヤバイぞ。あまりの眠さに目が痛い。そんな月曜日。一週間は始まったばかりです…。にもかかわず…夜更かししちまったよ…。徹夜なんて出来ないこの私が。どうするよ…。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2006/11/27〜28_ゆうひ。 |
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