朝露 




 目蓋をふるわし、紫苑は緩やかな経過と共に瞳を開いた。紫紺の瞳が覗く。上半身を起き上がらせれば、肩からさらりと外套が滑り落ちた。
 まだ夜の色合いの方が強い空の色の為か、日の光を浴びぬその瞳は気だるげに。再び下ろされた。

 また一人なのだ。

 紫苑は思う。首を伸ばして朝の風を体の隅々まで感じようとした。――まだ立てるとは思えなかった。身の内に燻ぶる熱を、早く冷ましてしまいたかった。

 草の上についていた手の平を僅かに動かしたときだ。指先が布地に触れたその感触に、思わず目を見開いて面(おもて)を向けた。
 緑の草はまだ影色に湿っている。蒼褪めて見える己の手の甲の色――普段ならその白さに舌打ちをするところだが、それさえ気に留める余裕がない。徐々に視線をずらしていけば、そこにはないはずの『彼』の寝姿があった。

 紅真。

 紫苑は驚きに瞠目した。頭が混乱しているのだろうか。動揺しているのは間違いなかった。
 数秒間は間違いなく固まっていただろう。
 彼の寝顔を見るなんて、もしかして初めてではないだろうか。

 漸く頭が現実を受け入れてきたらしい。紫苑はゆっくりと息を吐き出しながら肩の力を抜いた。
 いったいいつ彼は去るのか。
 紫苑にとって、それは定かなことではない。
 熱を分け合って、奪われて、叩きつけられて、高められて。すべては彼からの行為で、紫苑は甘受するばかりだった。
 終わりはいつだって彼の気が済むまでで、それが紫苑の意識のあるうちに訪れたことはない。
 意識を取り戻したときには既に彼の姿はなく、気が済んですぐに立ち去るのか。或いは暫らく休んでから立ち去るのか。それさえ知らない。
 ただ、いつだって紫苑の身は起きてすぐに動ける程度には清められていたし、裸体は外套で護るように包(くる)まれていた。それらは紫苑にとって実に助かる行為だった。

 夜露に濡れた濡れたのだろうか。彼の黒髪はしっとりとした滑らかさを持って紫苑の目に映った。寝る顔だけを見れば、確かに子供だ。ならば、彼と歳の同じくする――実際は紫苑のほうが僅かばかり年少だ――自分もまた、こんなにも幼い子供なのだと、紫苑は思い至ったその考えに顔を顰めた。
 そんなことはどうだっていいことだ。年齢など、人が何かを為すことへの要素にはならない。

 触れても大丈夫だろうか。
 胸中に浮かんだ考えに、紫苑自身が驚いた。それほど表情の面に出るほうではないが、先ほどから自分は一人、百面相を繰り広げているのではないか。少しだけ不安になり、眉を顰める。――ほら、また百面相。
 なぜ、彼の為に自分はこんなにも様々な感情をめまぐるしく。生じては消し、その都度表情を変え。
 なんだかだんだんと恨みがましくなって、紫苑は躊躇いを吹き飛ばすように、少しだけ勢いをつけて腕を伸ばした。
 紅真に触れる直前で一瞬だけ手を止め、――やはり躊躇う自分に苦笑した。これは怯えだ。彼が目を覚まし、その赤い瞳で自分を見る。熱も冷めた平時に何をしているのかと、彼は冷ややかな視線を向ける――。
 勢いの落ちた指先が、躊躇いがちにその髪に触れた。

 さらりと前髪を指に滑らす。なんだか妙に愉しかった。このまま肩を震わして笑えてしまいそうな程度には。
 指を滑らし額へ。米神は人の急所の一つだ。目尻、頬、そして到達するのは唇。その下の首へは、手を添えようとは思わなかった。

 眠る紅真の顔を見つめながら、紫苑はふと思う。自分が逆に彼の前に寝姿を晒したならば、彼はこの首を絞め、この息の根を止めるだろうか。
 紫苑はじっと彼の閉じられた瞳を見つめていた。
 求める全てに対して冷め遣らぬぎらつきに輝く蘇芳の瞳が隠れているその姿。こんなに無防備な彼を、かつて目にしたことがあっただろうか。
 紫苑は突然、ふっと息を吐き出すのと共に肩の力を抜く。それから口端を吊り上げて苦笑した。
 自分は何度、彼の前にその無防備な姿を晒したというのか。未だ在り続けるこの命。
 彼は――、紅真は、眠る自分の姿に、何を思い、夜明けを待ったのだろうか。
 いや。待ちはしなかったのだろう。
 きっと、彼は夜明けを待たずにこの傍を離れていったのに違いないと、何故だか漠然と確信している自分がいた。

 やがて朝日が雲間より差し込むだろう。陽射しに空気が暖められ、葉には露が生まれる。紫苑はそっと瞳を閉じた。まだ昨夜の疲れの残る気だるい身に、冷たい空気が逆に心地好い。
 紫苑は己の外套を、隣で未だ惰眠を貪る寝汚い彼に掛けてやった。素肌を晒したその身では、朝の露に濡れれば酷く冷たく冷えるだろう。
 けれどそうはならないと、紫苑はどこか晴れやかに感じていた。
 昨夜に得た熱の。まだ覚めやらぬ情熱と温もりが未だ残るこの胸にあっては。

 もう少しだけ、寝てしまおう。紫苑は体を横たえた。
 二度寝を楽しむなど、いつ振りだろうか。あの頃はまだ、父も、母も、故郷も。平穏無事で、存在していた気がする。
 充分な睡眠は確かにとったはずなのに。
 朝が近づいているといっても、まだ空気はひんやりと冷えているのに。
 この身に羽織るものは、何もないのに。

 こんなにも簡単に。
 こんなにも安らかに。
 穏やかな眠りに落ちていく。









 紅真はぱっと瞳を開くと、むくりとその身を起き上がらせた。
 腹の奥からせり上がってくる笑いに身が震えることを、どうやら止めることが出来そうにない。

 首を僅かに捻じり隣に視線を向ければ、なんということだろう。敵の隣で安心しきって眠る幼子のそれを髣髴とさせるあどけない寝顔。
 ほんの数分前まで、躊躇いと戸惑いに震えながら、触れてきた。
 髪に、米神に、目尻に、頬に。唇に。
 いったいどんな顔をして触れてきたというのか。何を思ってこんな風に隣で安らかな寝息を立てている。
 おかしくてたまらなかった。
 腹を抱えて笑い出してしまいたい。
 そして驚き目を覚ました彼のその身を、力づくで侵略してしまいたい。

 でも駄目だ。
 もう朝だし。
 それに。

 紅真の蘇芳の瞳が横目に白蒼銀の穏やかな寝顔を捉える。その瞳が、まるで地獄の炎であるかのように激していることを、彼自身は知っているのだろうか。

 ああなんて。









 君の寝顔は穏やかなんだ。









 自分のものしたい。自分だけのものにしてしまいたい。
 捉えて閉じ込めて、離さずに。

 朝の露に翅を濡らし、飛ぶ術を失う蝶のように。

 君の羽根を全て、毟り取ってしまいたい。






talk
 一月中に邪馬台幻想記小説を一作品もあげないと、自分がかなりショックを受ける気がするのでこちらを先に書き上げ。幻想水滸伝『朝靄』と同じコンセプトで書き上げました。情事後に目覚めた受けが、攻めの寝姿を穏やかな気持ちで見つめる。ただそれだけを書きたいがためだけのものです。
 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2007/01/06・21_ゆうひ。
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