春、遠からじ ・ 上
「なるほど。流石、あの女が選んだだけのことはある」 シュラが、こんなにも穏やかな笑みを見せたことを、あ勝手目にしたことがあっただろうかとの思いが脳裏にを過ぎり、瞬時にその答えが否であることに行き着いた。そうであるからこそ、自分は今まさに、こんなにも驚愕に彩られている。 真っ直ぐと、対峙するのは壱与だった。槍を構えてではない丸腰だ。紫苑はその背後に控えている形になるから壱与の表情は窺えない。けれどもう一年以上を共にいる。彼女がシュラに向ける視線ならば、分かる気がした。 きっと、あの、女王の顔をしているんだろう。 「――卑弥呼様から、少しだけ、貴方のことを窺ったことがあります」 「あの女の鋭さは本物だった」 「知っています。けれど、私にはそういった能力は皆無でした。だからこそ、卑弥呼様は私を次期女王にと選び、残り少ない時間を使い、私に女王としてもっとも大切な全てを教えてくれました」 国を思う心、民の幸せを願う愛情、それらに連なる願いを実現する為の手段。知識なら後から幾らでも取り入れればいいからと、その心を育ててくれた。 「高天の都も、神威力も、その時に聞きました。貴方から聞いたのだと」 それを語ったときの卑弥呼の表情が、壱与の脳裏に焼き付いて離れなかった。まるで少女のように清潔で、まるで母のように優しかった。柔らかなその笑みに、壱与は驚きと、語られる相手への嫉妬を覚えたのだ。 その笑顔を向けられる相手へ。 その笑顔を作りださせた相手へ。 シュラが懐かしむように眸を閉じた。 「あの女に、永遠をくれてやりたかった」 語る声は信じられぬほど落ち着いており、穏やかだった。もはや完全に自分へと溶け込んだ、美しき過去を懐かしむそれだ。 「ハル様は、貴方よりも長く生きたのね。卑弥呼様よりもずっと先に生まれた、貴方よりも」 つい先頃に亡くなった、最後の高天の民の末裔――そう自称していた老婆は、他の『人』の持つよりもずっと長い時間を生きてきたのだと云っていた。それはただ歳を重ねたその姿で茶化したのではなく、高天の民の末裔は老化が遅いのだというのだ。だから、高天の都から下りても決して他の人間と混ざって生きることが叶わなかったのだ、と。 たった一人、それほどにも長い時間を生き、それでも最後は優しく笑って逝ったその老婆の最期が瞼の奥に甦る。最後の時間を誰かと共に過ごせたことが、何よりの幸せであったと、そう云ってくれた。 その老婆は、余りにも長くあったその時間の中で、何を抱え、そして抱えたまま、逝ったのだろうか。 亡きものに思いを馳せる。 ふと嘲笑ったのは、シュラだった。 「違うな。先の生まれたのは私だ」 高天の民の血が濃いから、歳を取るのもより遅かった。それがために、未だにこんなにも若い姿のまま。 「あの女――卑弥呼も、出会った当初はお前よりも幼かった。紫苑、お前が私に拾われたそれよりもな」 高天の民は飽いたのだ。余りにも長すぎる、己が生に。そして、還りたくなった。 「還れる筈もないのにな。愚かしいばかりだ」 本当は唯、共に歩める誰かが欲しかっただけなのに。 「弁解をするつもりはないがな。私も、神威力の本当の姿を知ったのは今だ。お前たちと同じくな。――もう、その力は必要ない」 それは、自分の求めた力ではなかった。自分の願いを叶えてくれるものではなかったから。 口にしなかったシュラの思いを、壱与は理解した。だから、云わずにはおれなかった。 「貴方がこの地上にある限り、卑弥呼様は貴方の隣にいる。そして、やがて貴方が還る時、卑弥呼様、貴方と共に、天へ昇る」 卑弥呼を師にする壱与だからこそ、知っていた。 「……そうか」 シュラは壱与の言葉に満足したのか、或いは慰められたのか。そんなことは知る由もなかったが、呟いた彼の表情は――少なくともそれを見るものが感じる限りでは――荒れたところのない穏やかなものであったので、そうだと納得させることはできそうだった。 「お前は、神威力に縋るか」 シュラの問い掛けに、壱与は無言で、ただ頭を横に振って返した。「そうか」とだけ返して、シュラが背を向けて森の奥へと去り――。 ――十年後。 邪馬台連合国は邪馬台国へとその名称を変えていた。それまで邪馬台国を中心として数十の国が集まっていた連合体にすぎなかったそれは、千年にとうとう倭国統一を成し遂げたことによって、邪馬台国という一国としてなることを決定したのである。 同盟を組んでいたその他の国々は国という名はそのまま、首都よりの距離、基準した順やその時の経緯を鑑みて等級をつけられた。その等級がそのまま、かつての国王の、中央政権での発言力となった。 田畑や河川は整えられ、街道も整備された。法が整えられ、税は安定した。それはつまり、民の衣食住の安定をも意味している。人口は増加の一途を辿っていた。 「紫苑君」 呼ばれ、銀髪の青年が振り返った。藍紫の瞳が用件を問い掛けていた。 「特に用はないの。ちょうど休憩中で、貴方を見かけたから」 壱与は笑って答えた。相変わらず壱与の護衛をしている紫苑も、今では四六時中その隣に控えているわけではない。 「相変わらず若くて、羨ましいわ」 からからと笑う壱与は今年で齢二十七になる。どんなに忙しくとも欠かさぬ鍛錬と、あとはその明るい心持ちが表にまで滲み出ているのだろう。日に焼けた肌も、腰に届くほど長い髪も、健康的な張りを持って輝いていた。 「何が若いだ。年なんて二つしか違わないじゃないか」 身長だって、壱与よりも(確かにほんの少ししか違わないけれど)高い――。そう云って、紫苑が眉を顰めた。壱与の二歳下の彼は今年で二十五になる筈だが、まだ十代の少年にも見える。高天の都、そしてそこにあるとされる神威力に関わる彼もまた、春や、シュラのように、高天の民の血を、その歴史の中に持っているのかもしれなかった。 「永遠に私より年下であることに変わりはないもの。私より若いことだけは、覆せないんだから、いいじゃない」 細かいことは気にしないでと、やはり笑う壱与に、紫苑も苦笑を返して肩を竦めた。 「紅真君は? 元気?」 「相変わらずだ」 取り留めもない会話に興じる平和。 「紅真君もここで働いてくれればいいのに。彼ってあれで為政者としての才能があるのよね。びっくりしちゃった」 シュラが去ったことで陰陽連が事実上瓦解し、紅真が結局邪馬台連合に参加した当初を思い出しているのだろう。壱与がふふ、と小さく笑った。 当初は一兵士として紫苑と共に壱与の護衛につかせ、紅真は紫苑と共に、壱与が政務をするその傍でかったるそうに控えていた。ナシメに助けられながら苦手なテスクワークに励む壱与の背に、彼が呆れたように声を掛けたのはいつの頃だったろう。政策で悩む壱与に掛けた紅真の提案はとても的確なもので、壱与はもとよりナシメも、他の文官達も目を丸くしたものだった。 「河川の工事も、税比率にしても、すごい的確なんだもの。一体いつの間に、それだけの情報を得ていたのかしら。税徴収の方法も彼のおかげで整ったようなものだし、何にしての役人の派遣もそう。それなのに彼ときたら、一年くらい王宮で私の護衛をしてたと思ったら、それからはずっと国の端にある小村に籠ちゃって。都に上ってくるのなんて、紫苑君の帰りが予定より遅くなったときだけじゃない」 壱与は頬を膨らませた。そんな壱与を横目に、紫苑は話題の人物である紅真の姿を、その脳裏に思い起こす。 相変わらずの不機嫌そうな顔で、いったい一日中何をしているのか。 国の外れにある小村に籠って――とはいったが、実際は村からは完全に離れた、森との境に立てられた小屋に居を構えている。小屋の隣に小さな畑を作り、そこを田谷がしたり、森に入って狩りをしたり、時には村で屋根の修理をしたとか何とかの礼だとかで、米やら編み篭やらを貰ってくることもあった。 早くにその小屋へと帰ってみれば、一番近くの村の子供らが数人寄って来ていて、剣やら文字やらを紅真に倣っていたりする場面に出くわすこともあった。村人にとっては家の主は間違いなく紅真で、紫苑こそ誰だと云う感じなのだろう。 らしくないなと思う。けれどそれを呆れはしても嫌だと思ったことがないことも思い出されて、顔が顰められるのはもう仕方がないだろうと、誰に向かってか――おそらくは自分にだ――胸中、言い訳をする。 紅真はもとより紫苑などよりよほど対人関係を築くことに置いて問題の無い精神を構築していたから、陰陽連のような特殊な組織から抜けたところで、案外と簡単に――或いはどこででも――生きていけるようだった。誰に縛られることもなく、のんびりとさえ映るそのマイペースな生き方が、時に余りにも紅真らしい生きざまであるように、紫苑には感じられることがある。特に小さな子供らに囲まれ、憮然とした表情をしながらも邪険にせずに結局相手をしてやる紅真の姿を見た時などは笑って云ったものだった。 「なんだ、紅真。おまえ、方術以外は俺より全部容易くこなすのじゃないか」 方術は封じてしまったから――そうは云ってもあくまでも己の中で使用しないと決めただけのものでしかなく、ないか特別な術を用いて封印したわけではなかったが――、紅真に勝るものなんてないなと紫苑が笑って告げる。ほとんど似通った体格だった二人は、いつの頃からかはっきりとした差が生じ、紫苑は体格でさえ紅真に明らかに負けていた。身長も、体重も。 紅真の顔は益々憮然となったが、紫苑はなんだかすごく楽しくて、とても嬉しくて――おそらくそれは見果てぬ夢であった平和の具現化したものであったからだ――、珍しく始終笑顔でいた。 「最近は紫苑君とも会えないし、同じところで働いてる紫苑君がそれだから、国の違う沙羅ちゃんたちなんてそれこそもう何年も会ってないわ」 壱与が肩を竦めて愚痴る。沙羅とは紫苑と同じく刻印の心具を持つ者の一人で、壱与よりも三つほど年上だった。六年ほど前に子ができたと便りが届いてからは、紫苑はぱったりと交流がないが、とても意気投合した親友同士の壱与であれば、その後の交流も続いていることだろう。 紫苑は小首を傾げた。 「そう云えば、最近レンザの姿を見ていないが」 「ああ、レンザ君なら国中の視察に出てくれているの。……今年は天候が厳しいから…」 後半の言葉尻が下がり、壱与の視線が逸らされる。紫苑もまた視線を反らして思いを馳せた。 そうだ。今年は、酷い旱に国中が苦しめられている。 なんとなく、それが談話の終わりを告げた。壱与が、そんなわけで暇無しだとぼやき、紫苑が軽く笑い返した。互いに互いの仕事に頑張れとエールを送り別れた。ふとした時に思い返すほどには記憶に残りはするが、ありふれた日常にすぎなかった。 秋も間近という頃だった。気温は一向に下がる気配を見せず、相変わらず太陽は高く頭上に輝き、その熱でひと肌を焼いていく。井戸は枯れ、今年の作物は全滅だろう。川に流れる水は無く、干上がった魚の死骸が転がっていた。 梅雨が来ないまま初夏を迎えた頃、すでに今年の収穫は絶望的だと感じられていた。レンザを含む視察官を各地に派遣して届けられた情報を纏めればそれは予想以上に凄まじく、執務机に向かって、壱与は大きくため息をついた。 「じゃあ、早速諸国に通達を徹底して。村の貯蔵倉が空(から)になったところから、順に国の貯蔵倉に蓄えられている穀物を配って。あくまでも均等に。最低でも来年の春までは持つように配分の計算には念を入れるように云ってちょうだい」 貯水池もこのひと夏でほとんど底をついている。新しく井戸を掘らせてはいるが、間に合うかどうか怪しいところだった。 はたしてこの冬を無事に乗り越えられるのか。乗り越えたところで、次の春が豊作に乗る保証もない。 「少しでも旱の被害の免れた国には援助を頼んで」 そんなものが望めないのは分かっているけれど――・ 壱与は一つ一つに指示を出していく。何をしても追いつかないのが現状だった。 もうどこを掘り返しても草の根さえないほどに乾き切っていた。国からのコメの配給は日に二度。冬には日に一度になるだろうと囁かれている。夏が過ぎれば涼しさが増し、空腹に耐えられれば水不足で体が干上がる心配はなくなるだろうか。しかし冬を越える体力が残るとは思えない。 「あ〜ぁ。こんなときにカムイノチカラがあればいいのになぁ」 空になった飯椀を名残惜しげに突(つつ)きながら呟いたのは、十にも満たぬ少年だた。村には幾らでもいる、ありふれた家族の、ありふれた息子だ。 「カムイノチカラ? なんだぁ、そりゃ」 少年の父親が息子が零したそれに眉を顰めて聞き返した。胡坐をかいて座り込むその背は、疲れの為か暑さの為か、ひどく丸まってしまっている。 少年は唇を尖(とが)らせて父親に説明してやった。 「前に紅真兄ちゃんのところで教えてもらったんだ。兄ちゃんの師匠さんがそれを探してたんだってさ。天気をあやつる不思議な力があるんだって。な、スエ」 少年は隣にいる弟に同意を求めた。スエと呼ばれた弟が、兄の問い掛けに大きく首を縦に振る。 「うん。こうま兄ちゃんのお嫁さんがそのちからのあるところへつれていけるんだって」 「でも、それするとお嫁さん死んじゃうんだって、紅真兄ちゃんが云ってた。お嫁さんは女王様のおともだちだから、女王様はそうしなかったんだって」 子供たちが得意げに口々に語る。両親が無言で顔を見合わせたその意味を、子供らが気付くことはなかった。 子供らの記憶にはないことだ。大人の記憶には未だ色濃い。もう十年ほど前、そうだ、国を上げて、確かそんなものを求めていたではないか。 噂が広まった。 当時、徴兵されてその捜索に携わったものが、ある村で田畑を耕しており、やはりこの旱魃の為に飢えていた。男は噂を耳にし、そうだ、とばかり、はっとして思い出したことを語り出す。 「そうだ。俺は十年ほど前に、兵士として詰めていた折、高天の都の神威力とやらを求める国王達につき従って、帰らずの森に赴いたことがある。陰陽連とかいう不穏な輩と戦って、たくさんの仲間が殺された!」 別のところでも同じような経験を持つ男が人々に声高に明かす。 「俺も兵士として勤務していた頃に噂を聞いた。それは神々が俺たち人間の為に用意した力なんだが、それを奪った五人の人間がいて、封じてしまったらしい。だから、そいつらを捧げれば、神々が俺たちの為にと授けた力が願いを叶えてくれるんだと」 似た声はあちらこちらで上がった。正しいものも正しくないものもあった。だがどれが正しく正しくないかなど、耳にする者も口にする者にさえ分からない。 それは正しく池に小石が投じられたかのように。風が縦断するよりも早く、雲が流れるよりも静かに、波が到達するよりも不気味に。 瞬く間に広まったそれが華を咲かせたのは、邪馬台国の隣、長尾国でのことだった。そこには邪馬台国女王壱与とも親交篤い――沙羅がいる。 なぜ噂の出所に最も近い紫苑ではなく沙羅であったのか。なぜ自らも心具を作り出すほどに優秀な方術士であった沙羅が易々と。 彼女がその夫子らと共に惨殺された報せが壱与の元へ届けられた時、それは矢の如く彼女の心を刺し貫いた。 なぜそうなる前に気付かなかったのか。前兆はあったのか。見逃したのか。 愕然とした。それでも壱与は指示を出した。 紫苑と紅真に火急の使者を向けた。死者は王宮を出た頃にはつけられていた。都を出た頃には嬲りコ殺されていた。 紫苑と紅真は使者に会わぬまま、しかし突然襲い来たどこにでもいる村人を幾人か切り殺して山に逃れた。 その折に、大人に交じって二、三人の年端も行かぬ子供死体があった。剣というよりは鍬や鋤のような農具で殴り殺されたような外傷のあるその死体は多数の人間に踏み潰されたような有様で、見る影もなかったという。 まだ、秋さえ来ていない――。 |
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下(げ)がいつ書き上がるかは甚だ不明。尻切れトンボでごめんなさい。なんかもう書こうとすると考えた頭から話が飛ぶ(泣)。 ご意見ご感想お待ちしております。 2007/08/27-29 |
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