恋文
いつの間にそこに置き去りにされていたのか。それは間違いなく紫苑宛ての書簡であった。そうは云っても、徒の一文でしかなかったけれど。 短い文章。僅かな文字数。たどたどしい筆跡は、しかしそれを書いた人物らしく力強かった。 良く見知っていたそれ。 紫苑は暫らく悩んだ末に、それを大陸製の漆塗りの箱に収めておくことにした。少し前に、壱与からお礼にと贈られたものだった。 きちんと紐を掛けて封じた。固く、緩い封だ。 見たいと思えばいつだって、それを目にし、手に持ち、胸に抱くことが自由。 誰の目にも触れなければいいと思う気持ちと、いづれ、誰かの目に写ればいいと云う相反する願いが胸から溢れて体を満たしていく。 彼が、この時代、この時に生きた証。 彼が、この自分に贈ってくれた言葉。 外気に晒されることなく、白日の下に暴かれることもなく。暗い箱の中で、ひっそりと在り続けて欲しいと思う。 風化して消し去らぬように、永遠に。 |
きょとんとした表情はもとより、彼が顔に表情をあらわにすると云うこと自体が珍事である。だから、これはひどく驚くべき、意外なことであったのだ。目の前の紅真がそんな紫苑の表情に憮然となっていることを責めてはいけない。この何者にも動じない少年、紫苑が目を見開くほど、紅真にとっても心底意に反したことであったのだから。 「本当に、お前が俺に習うのか?」 紫苑は首まで傾げて訊ねてしまった。目の前から紅真が去らない。それだけで充分な答えではあったが、やはりまだ信じられない。だって、シュラの命令でもないのに。 「文字を、教えるのか?」 紅真が紫苑に頼み事をしてくるなんて、まるで天地が引っ繰り返るかと思われて、紫苑はしつこく繰り返したのだった。 この国には文字がない。文字が必要な場合は大陸の文字を借りるが、大陸の言葉この国の言葉とはまったく構造が異なるので、完璧にはいかない。だから、大陸の言葉で綴ることも珍しくない。否、むしろそちらの方が圧倒的に多いのだ。 ではそれまで文字が生み出される要素の無かったこの国にあって、文字を必要とする場合とは何であるのか。すなわち組織というものができ、それが巨大化していったことで、その必要背に迫られ始めたのではないかと考えられる。遠く、意思の疎通を図るときや、取り決めを形に残すとき。なければないでどうにかしていたものだが、一度それを手にしてしまえば他に代用することなどできなくなる。 なぜなら、それが正式のものであると固く決定し、それを覆すことが許されていないからだ。 では陰陽連における文字の扱いとはどのようなものか。はっきり云えば、そこにおいても文字の扱いはこの国の他のどの組織での位置付けと大差ない。 文字を扱えるものは極僅かだ。それを見て文字であると理解できるものもほとんどいないし、態々文字を覚えたいと思う者などいない。それほど、文字というものは人の営みからほど遠いものであった。その点、紅真が何故文字を知りたいなどという考えに至ったのか、紫苑にはやはり理解できなかった。 陰陽連における伝達事項は、概ね式神を用いて行われる。文字と似通った、しかし文字ではない特別な図象と気の力によって作り出す擬似的な生命体――或いは傀儡(くぐつ)――に拠って言葉を直接伝えるのだ。文字よりも確実に。伝えればそれは消滅する。跡に残らない。 探るときも同様だ。文字の痕跡など探さずとも、直接聞けばいい。解読の必要だってない。潜り込めばいい。 だから、陰陽連では文字は教えない。そんなものを習得する時間が惜しい程、方術の習得は複雑であったからでもあるし、根本的に、教えることのできる人間がいないというのもある。ここでそれが巧みであるとはっきりと知れているものなど、シュラくらいしか紅真も紫苑も思い浮かべることができなかった。 紅真が紫苑にそれを頼んだのは、紫苑の生い立ちを少なからず知っていたからだろう。ここでは他人の出自を軽々しく他言するようなことをしない。紅真が紫苑のそれを知っていたのは、紫苑が紅真にそれを語ったからだ。 どうしてそれを口にしたのかなど、紫苑にだってわからなかった。紅真がそれを記憶していた――それ以前に、ほとんど独り言同然の呟きだったそれに耳を傾けたいた――ことにさえ、驚いているくらいなのだ。夏の、太陽が空の真ん中くらいまで落ちた頃だった。白と呼ぶには秋めいていて、茜と呼ぶには明る過ぎた。 木々を映した影があまりにも明るくて、その透明な影を見て、つい零してしまったのだ。 月代国という国に生まれ、楽しくて、辛かったこと。 『勉強は嫌いじゃなかったけど、父上に肩車されて見た世界の輝きの前では、時に苦痛だった』 長い影が伸びていた。紫苑は蒼志の肩の上できゃいきゃいと歓声を上げていた。空が赤くて、雲が流れていた。 雲の影が、やがて自分の瞳の色のように映るのが、ひどく不思議で、ひどく可笑しかった。 そんな、幼い時分のことを、思い出したのだ。 隣に紅真が佇んでいて、心の片隅には彼に話し掛ける思いもあったかもしれなかったが、彼がそれを享受するとも思えなかったし、自分も、誰かと心を通わせたいなどとも思わかなかった。脳裏に過ぎった事象があり、ああ、そんなこともあったなと心が思い、ほとんど無意識に零れたものだった。 「文字が読めるんだろ」 突然紅真が思いつめた顔で云うから、何事かと思ったのだ。わけも分からぬままとりあえず肯けば、今度はそれを教えろときた。 我が耳を疑うとはまさしくこのことだと、紫苑はこうして紅真に文字を教え出した今でも思っている。 「これが紅真の名前だ」 「こうか?」 「少し違う」 態々墨と筆を用意するのも面倒だったので、木の枝で地面に書いた。 「『こう』と『ま』に分けられる」 大陸だとまた少し音が違う。地方によっても微妙に異なる。それでも、意味は一つ。 「大陸語はこちらとは構成が違うから、文字の並べ方も違くなる」 意味も少しだけ違くなる。 紫苑が流れるように文字を綴っていく。じゃりと、地面の引っ掻かれる音が僅かに響き、紅真はその文字の流麗さに魅入っていた。 何が美しいのかなど、文字を習い始めた紅真に分かる筈もない。他に習ったこともないから、それが美しい文字であるかどうか以前に、正しいかどうかすら知らない。けれど、悔しいことに、紅真は紫苑の生真面目な――つまりは面白みに欠ける――性格をよく承知していたので、紫苑が紅真に偽りを教えるなどとは欠片も疑っていはない。 「紅真」 紅真が時間を見つけては字を――最近は読み書きに止まらず大陸の詩にまでその範囲は広がっている――紫苑に習い始めて一年以上が経過していた。或いは数年だったかもしれなかったが、二人ともがそういったことに気にしなかった。 二人の仲が悪いの相変わらずで、紅真は愛からず紫苑に対して敵対心剥き出しだし、紫苑も相変わらず感情の起伏に乏しい冷めた眸をしている。互いに任務がなく、陰陽連でさえ寝静まる夜中の半刻ほど。別にそうと示し合わせたわけではなかったが、いつの間にか、それが取り決めになっていた。 紫苑の呼び掛けに、紅真が顔を上げた。紅真が紫苑の呼び掛けに素直に応じるのは、この時間だけだった。 「新しい任務が入った。少し長く掛かりそうだ」 紫苑は告げた。任務地が紅真や紫苑の拠点としている陰陽連支部から少々遠い為だと云う。 「今度はなんて国なんだよ」 国は大小星の数のようにあり、潰しても潰しても、蟻の巣のように、それはいつの間にか又出来てそこにある。 紫苑が答えた。 「邪馬台国」 「邪馬台国? ――ああ、巫女が治めてるとかって国か」 紅真が邪馬台国について他にも記憶していたことは、その国がかなりの巨大国家らしいというそれだけのことだった。基本的に、紅真は自分がこうと決めたことについては勤勉だ。方術に関して紫苑と切磋琢磨しているが、例え紅真の前に紫苑がいなくとも――例えば陰陽連で紅真が最も強くなったとしても――紅真自身がそれを求める限り、彼はその事に対し全身全霊をもって臨むだろう。 「それにしても」 ふと紫苑が面を上げて紅真を真っ直ぐに見詰めた。 「どうして、突然読み書きを教えてくれなんてことになったんだ?」 首を傾げて問うのに、紅真は言葉に詰まる。今更なような質問だともいえた。今更過ぎて、油断していたともいえる。 逡巡するように僅かに視線を彷徨わせ、やはり憮然とした表情で返した。 「別に。ただ、てめぇと言葉も交わしたくない時に便利だと思っただけだ」 苦々しげな紅真の表情を紫苑は相変わらずの、感情の窺がえない表情で暫し見つめた後、 「……そうか」 それだけを告げ、視線を地面に戻した。 それが、紅真が紫苑から受けた、最後の授業だった。 |
『新たな木簡が発見され――』 朝。朝食を終えて歯を磨いていたときに耳に飛び込んできたニュースに、ふと視線を向けた。あと三十分で家を出る時間だ。ゆっくりとニュースに聞き入っている時間的余裕はなかった。 学校までは自転車を飛ばして四十分ほど。遅刻はしたことがないけれど、家を出る時間が遅れれば気持ちが急いて危険だ。 テレビ画面には発見された木簡――もしかしたら日本最古かもしれないと興奮した声が聞こえる――が映し出されていた。 ちらりと覗き見た程度でそこに書かれている文章を読み解けるほどのマニアではなかったし、そもそもそれはとてもぼやけて見え、文字であるのかどうかも、一見して分かる方が不思議だと常々感じている。 文字の解読はまだ完全には行われていないらしかった。これからすべての文字を読み解き、解読し、年代を調査し……。もう原形を留めていはないが、漆塗りの高価な箱に入れられていた斯様な形跡があるらしい。括り紐らしき絹の繊維も見つかっているとか。もしかしたら重要文書かもしれない。或いは邪馬台国の所在が発覚するかも――。広がる話が、途切れ途切れに耳に辛うじて届いていた。 歯を磨き終えて今に戻ったころには、もうそのニュースは終わっていた。昨日起こった殺人事件の特集が始まっていて、先の木簡発見のニュースのことなど、アナウンサーもコメンテイターも覚えていなさそうだった。 もう少しだけ詳しく、その木簡について扱って欲しかったなと物足りなく感じたのは、別に歴史が好きだとか、そういうロマン的な思考からではなかった。 ただ一文字。 ちらりと目にしたそこに、自分の名前にも使われている『紫』に似た――だって拙い知識でだって知っている。今と昔では、同じ文字でも微妙に形が違うのだ――文字が、その腐りかけた木の板に黒い墨で描かれていたように――思っただけだが、それも、朝の慌ただしさに一瞬で頭から追い出されてしまった。 もう二度と思い出すこともないだろう。 |
例えば、言葉で直接伝えるには、余りにも―――。 |
talk |
なんか新聞でまた木簡が見つかったとかいう記事を見た時に思いついた作品です。駆け落ちネタより先に思いついたのですが、先に駆け落ちネタを書き上げてしまいたかったから。一番書きたかったのは、始めと終わり。ぶっちゃけ、間は結構どうでもいいんです。紅真から贈られた文章を大切に仕舞い込む紫苑と、それが数千年後に発見される。そしてそれを紫苑だったかもしれない誰かが見て、些細な何かを感じる。すぐ忘れてしまうような、永遠に答えなんてわからないかもしれない、何か。そんなちょっとだけ切ない不思議が書きたかっただけ。書かれている内容は、紅真が紫苑に送り、紫苑がそれを受け取る。それだけでいいと思う。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)ゆうひ_2007/08/13 |
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