月よりも尚、 


「ほら、紫苑。あのでかいのが月だ」
 それは父の声だった。夜、彼は、いつも私を抱き上げて、夜空の一点、煌々と輝くあの星を指し示した。
 私はそれにはどうにも興味を惹かれず、それからは随分と離れた位置にある、小さな、けれど他の星とは明らかに異質なそれを指して訊ねた。私の小さな指が、一生懸命に、それを指し示すのに、父は、彼にしては珍しく顔を顰めた。
「父上、あれはなんというのですか?」
「ん?――ああ、あれか」
「?」
「あれは、凶星だ」
「まが、ぼし?」
 幼い私は首を傾げて更に訊ねる。父は苦々しげに言ったものだ。
「ああ。あれは良くないもんだ」
「よくない?」
「そうだ。紅(あか)は、いつだって不吉を齎す」
「……」
 私はそれには答えなかった。父が何かに向けてあからさまな嫌悪の視線を向けるのはひどく珍しいとは思ったが、私はそれをどうにも受け入れられなかったのだ。私にとって、それは余りにも心惹かれるもので。だって、どうしようもなく美しく思えて。
 どうにも、目を逸らすことができなかったのだ。


 紅真がそれを耳にしたのは、偶然と必然の狭間のような、奇妙な出来事であったのかもしれない。シダが上機嫌に酔っていて、そこへ偶々紅真が通りがかり、そしてシダは幼い紅真から見てもあからさまなほどに底の浅い人間であり、事実はそれに輪を掛けて口が軽く浅慮な人間であった。
 曰く、紫苑の故郷を完膚なきまでに潰したのは陰陽連であり、騙して利用してやっているのだと云うことだった。
 馴れ馴れしく紅真の肩に腕を組んで顔を近づけてくるのに反吐が出るほど嫌悪した紅真であったが、その話を聞いた時には瞳が僅かに瞠目する程度には驚かされた。視線をシダへとずらして窺がえば、このふてぶてしい餓鬼の驚嘆顔がそんなに面白かったのか、にやにやと含み笑うそれを見つけて、紅真は眉を顰めたものだ。
 その後でシダは大笑いをして去って行ったから、おそらく紅真が表情を歪めたのを、シダは自分が紅真を笑ったから機嫌を悪くした――とでも思ったのだろう。紅真は自分よりはるかに年長のその男が、自分の推測よりも尚底が浅くいものであったと、評価を改める必要性を認めたものだった。そしてだからこそ、シュラは奴を紫苑のお目付け役にしたのだろう。殺されても惜しくない、人間として。
 けれど、と紅真はその後の自分の行動を振り返る都度に思わざるを得ない。自分とて、似たような浅慮な人間であると。
 紫苑にはいつも負けてばかりで、いつだって紅真は苛々していた。胸の中に何かどす黒いものが常に渦を巻いて、ムカムカとこの身を苛むような感覚。それを紫苑に話して聞かせてやれば、少しは留飲も下がるのではないか。そんな浅はかな考えからだった。
「知ってる」
 告げた紅真に、紫苑が返したのは短いその言葉と、相変わらずの冷めた視線だった。今度の紅真は驚くことも訝ることもできず、紫苑を見つめるだけという反応しか返せなかった。表情など動かせるほど、それは容易い驚愕などではなかったのだ。
 するとそんな紅真の反応を正しく汲み取ったのか、ただの気まぐれか。紫苑がさらに言葉を重ねた。
「知ってる。国が滅ぶ前に、父上の元に再三陰陽連からの使者が来ていた。父上はずっとそれを追い返していたし、そもそも月代国を攻めた奴らは明らかに方術に精通していた」
 しかも黒装束の揃え姿。
 陰陽連でないという証拠の方が少ない。
 肩を竦めて苦笑する紫苑に、紅真は漸う言葉を発した。口の中が渇いて張り付くような重ださを感じた。
「なら、なんで…」
「興味無いから」
 きちんとした言葉にさえならなかった紅真の問いに、やはり紫苑は肩でも竦めるかのような軽さで返した。
「興味無いんだ。敵討ちとか、国の復興とか。父上や母上、国民(くにたみ)のことは好きだったけれど、」
「だからって、」
 それでも、自分の国を踏みにじった組織に組みし、その為に働くなど。紅真はそう告げた。紅真であったら、そんなことには耐えられない。
 紫苑はその藤色の瞳だけを動かして、一度紅真の様子を窺った。すぐに視線を戻し、やはり淡々と告げた。
「俺にも、願いがある」
 内容の割に、その持つ響きは酷く淡白だった。情熱も何も感じられない、白昼夢のように薄ぼやけたそれ。
「だから、ここにいる」
「願い?」
 訝る紅真に、紫苑は端的に告げた。
「神威力」
 それが欲しい。その望む未来を現実にする為に。
 誰もが狙っているそれを、自分も狙っているのだと告げれば、紅真は理解できないとか、意外だとか、そんないくつかの気持ちが複雑に絡み合った、奇妙な表情をしてから、
「馬鹿じゃねぇの」
 紫苑に向かってだろう。吐き捨てた。
「なんだよ。死んだ人間でも生き返らせるつもりか」
 侮蔑と嘲笑の響きの中に、奇妙な――恐怖にも似た蒼寒さが隠れていたのを、紅真は感じていた。
「いや」
 紫苑は小さく首を横に振った。
「もっと、欲しいものがある」
 自力では、決して手に入らないもの。
 つまり、自力で手に入れることを、諦めたもの。
「俺は、その為だけに、生きている」
 自分の欲望の為だけに生きている。故郷も、家族も、友人も知人も何もかも。その欲望の前にあっては、芥にも等しい。取るに足りないもの。
「それに」
 紫苑は薄く笑って告げた。
「月代国は、滅ぶに値する」
 酷薄というより、それは憎悪であった。性質の悪いことに、それは狂気さえ内包しているようで。薄紫のそれが限りなく夜に近い夕暮れ色に変わったように、紅真には感じられた。瞳に浮かび上がった妖艶な光。それは間違いなく、紫苑が静謐な外面の内に隠し持っている本性なのだ。
 激しく荒々しい、狂気さえ持った憤怒。
 何が彼にそうまでの激情を与えているのかなど、紅真には皆目見当もつかない。だが、紅真はその時、確かに背筋に走る恐怖を感じていた。
 その場に踏み止まることさえままならない。その禍々しささえ放つ妖気に臆し、無意識のうちに、足が退くように動いてしまう。逃げることを、本能が訴えている。逃げたいのに、怖ろしすぎて動けない。
「なあ、紅真」
 不意に紫苑が呼ぶ。紅真の方へと小さく傾けられたその面(おもて)に乗せられた笑みに、紅真は身を竦ませる思いに駆られた。蛇に睨まれた蛙だって、これほどの恐怖はあるまい。
 紅真はごくりと、自分が生唾を飲み込んだ音を聞いた。紫苑は更に笑みを深めたようだった。可憐な花弁のような唇が開かれるのが、まるでスローモーションのようにゆっくりと映って見えた。
「俺が願えばお前、」
 それに、紅真は笑った。血はどうしようもない状態では、きっと、泣くか笑う化しかないのだろう。ここは泣いて逃げる場面ではなかったから、紅真は限界点に達した恐怖に、腹を震わせて笑った。笑みというよりは、唯口端がひきつっているだけだろう。漏れ出た音だとて、意図して笑い声になったのではなく、徒、口の形がそうなっていただけのことなのだ。
「ぜってぇ、ごめんだ」
 ふざけるなと告げた紅真に、紫苑はふっと笑んで、踵を返して去って行った。その笑みが、何やら酷く傷ついたように、或いは全てを悟り切った上での諦めのように映ったから、紅真は不覚にも、暫くそこを立ち去ることができなかった。
「なん、なんだよ……」
 紫苑の姿が全く見えなくなって、紅真は漸く、それだけを、絞り出すように呟いた。
 意味が分からなかった。紫苑の言葉の意味も、思惑も。紅真自身が今感じている焦燥も、胸の激しく脈打つ理由も。
 言い様のない苛立ちの理由は分からず、故に、それは暫らく解消もされぬまま、自身を苛むことになるのだろうと、紅真は認め、その事にさえ、苛立ちを覚えて拳を握ったのだった。



「紫苑、今日からお前と共に方術を学ぶことになった紅真だ。年も同じ頃だろう、面倒を見てやれ」
 私の方術の師となったシュラが連れてきた彼を見た瞬間、私はあまりの衝撃に瞠目したことだったろう。それともその頃の私は生きる気力も無くしていたから、表情など動かなかったのだろうか。鏡も無くして、自分の正しい外面(そとづら)など知りようもない。
 その衝撃とは、彼の有する赫い瞳の為だった。より正確に言うのであれば、その赫によって、自ら封じた記憶が呼び起された為である。解放されたそれは、尊敬する父の、醜く、忌まわしい姿だった。
 どこぞ、山火事の飛び火か、戦の為か。理由は知らぬ。場所も知らぬ。国なのか、村なのかさえ知らないが、焼け出された孤児が、どうにかこうにか奇跡的に月代国に辿り着いた。ボロボロだった。
 赤い瞳の子供だ。少年だった。私と同じ年頃の、ガリガリに痩せ衰えていた。
 だが、父は赤は淵つを呼ぶからとその孤児を追い払ったのだ。私は陰からそれをじっと見つめていた。信じられないものを見る気持ちでいた。食料はおろか、水の一滴も与えず――。私なら、のたれ死んでいる。
 私の父への尊敬は、その出来事の為に嫌悪と不信感にとってかわられた。けれどそれでは私は私の目の前に魅かれた人生をよりよい形で歩んでいくことが困難になりそうであったので、無意志の内に封じたらしかった。
 ああ、生きていたのか。
 良くぞ生きていてくれた。さぞ私が憎かろう。あの日、無碍にも貴方を追い出した私の父に、私はその稀有な色彩がよくよく似ているのだから。
 さあ、私を怨むがいい。
 神と崇め、始祖と称えるあの月よりも尚、だから、私はあの明々(あかあか)と輝く小さき星に心奪われたのだ。
 さあ、私を怨むがいい。
 そしてその恨みで身も心も侵されてしまえ。それだけになってしまえ。私を思う、それ以外、無くしてしまえ。
 とろとろに溶けて、いづれ私を包んでしまえ。






「俺のものになってくれるか」

 どす黒く、悪質な何がしかを持った――けれど間違いなくそれは微笑であった。そうである筈なのに、そう告げた一瞬だけ、まるで無垢で清らな乙女のように見えて。
 紅真は怒りと苦々しさを前面に押し出した表情で、いつもと同じ、お前など大嫌いだと云うその響きでもって、返したのだった。






talk
 分類すると、これって「スレ○○」ってカテゴリに入るのかな? スレ紫苑。
 私の中で、最近紫苑が病的なまでに紅真のことを好き過ぎている気がします。最後、紫苑が紅真に「俺のものになってくれるか」って云ってるけど、はじめはどうしても「俺のものになれ」としか言ってくれなくて、紫苑がものすごく男前になってました。まずい!これまで書いてきたどの紫苑より、むしろ攻めっ子のはずのどの紅真より、むしろ他ジャンル合わせたどのキャラよりも!!――男前になっている!!……焦りました。
 まあ、それでも紫苑は絶対に紅真を抱くんじゃなくて、あくまでも抱かれる側なんですけどね。だから受けです。永遠の受けです。だって紅真に抱かれるなんて広い心は持てな…(もういい加減黙れ)。
 ご意見ご感想お待ちしております。 2007/08/14・19
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