月桂館の殺人 





 首都より南西三百キロ。日の国(ひのくに)の政界の中枢部にも強い影響力を持つ旧家、月代の人々の住まうそこを、月桂館(げっけいかん)と呼んだ。
 当主とその母と妻。そして一人娘。これが、広大な月桂館に暮らす人々の主である。それに一人娘の婚約者の少年と、執事長と幾人かのメイドや庭師らがいて、月桂館は閑散としながらも陰鬱なざわめきに絶えなかった。
 一人娘の婚約者である少年は、次の誕生月を迎えて漸く十二になる本当に少年だ。その少年の婚約者である少女はといえば、少年よりも五つした。まだ七つにもならぬ幼子であった。
 少年を紅真。少女を紫苑。少年は月代ではない。ではなぜこの月桂館に――いかに彼が一人娘の婚約者であろうと、その幼さで一人――住まうのかといえば、少年にはすでに両親が居らず、けれど彼の父は一代で華族である月代の財産を越える富を築き上げた辣腕で。富を手に入れた人間が次に欲するのは家柄の例に洩れず、その辣腕振りを発揮して、一人息子の少年をうまいこと月代の一人娘の婚約者にしてみせた。
 もちろん、そこには莫大な財産を手にしようという貪欲な華族の思惑にも合致してあったことは誰に目にも明らか。醜い大人たちの駆け引きに巻き込まれたのが子供たちであったのかどうか。それは、未来のみが明かすことのできることだ。
 そして少年の両親は突然死。莫大な遺産は他に身寄りもなく、丸ごと少年が継ぎ、その後見人として、この月桂館の主――少年にとっては将来の義父――がその財産の管理を行っている。否、身分の何ものもない少年がこの月桂館に住まうのは、その財産を丸ごと奪われる為だけにある。
 ――少なくとも、月桂館の当代の主、蒼志がそのつもりであろうこと、誰の目にも明らかであったが、誰もそれを表だって口にする筈もない。陰での噂ならばゴキブリよりも多く醜くあっただろうが。
 そうして今夜も、飾り立てられた煌びやかなそこで人々は踊り、談笑し合う。嘲りを微笑みの下に奇妙に隠した優美な厚化粧で。
 それが、月桂館――或いは華族の象徴だった。



「紅真さま。紅真さま。紅真さまにだけ、紫苑のとっておきをお見せしてあげる」
 小春の日差しが陰り始める時期だった。紫苑は月桂館の長い廊下を、紅真の手を引いて駆ける。いっぱいのフリルを揺らしながら、とてとてとした軽い足音のなるそれは大人から見ればたいそう微笑ましい姿であったが、不本意にも手を惹かれるしか為す術のない少年にとっては、自分と奇妙なまでに歩幅の合わないそれが煩わしかった。
 辿り着いたのは紫苑の部屋だ。壁は大きな硝子窓。陽の光をいっぱいに部屋に取り入れるそこの広さは、何十人もの子供たちが隠し鬼をしたって狭さを感じさせないだろう。
 紅真は眉を顰めた。彼はその部屋が好きではなかった。
 壁いっぱいの大きな窓から入る陽の光の眩しさも、その陽の光の身で十分に明るくなった部屋の明度も、これからすくすくと成長し、大人になって、それでもまだ余るほどに大きく豪華な天蓋付きの寝台も、海外から取り寄せた調度品の何もかも。
 紫苑はいつも嬉しそうににこにことした笑顔を振りまいている。一番気に入らないのはそれかもしれない。
 片手に紅真の手を引き、片手には気に入りのウサギのぬいぐるみ。白くふわふわとしたそのぬいぐるみの毛皮の手触りの良さを、紅真は知りたくもないのに知っていた。そのこともまた、紅真に煩わしさを齎す。
 紫苑の蒼みがかった銀の髪が揺れる。紅真と初めて会ったときも、紫苑はそうして髪を揺らしてにっこりと笑んだのだ。両手に抱き締めたうさぎのぬいぐるみ。大好きなその子と同じ、紅真の赤い瞳に気分を良くして。
 知っているのだ。紅真は、紫苑が己に好感を持っていることを。その理由を。だから苛々するのだ。
 あの幸せそうな笑顔がどこまでも癇に障るのだ。
 そんな紫苑は部屋に着くなり掴んでいた紅真の手を離す。そして窓辺に駆け寄って紅真を振り向いて告げたのだ。
 おっとりとしたお嬢様。紅真は自分の胸がいらいらと煩わしさを感じていることをはっきりと自覚して、やはり顔を顰めたが、紫苑はいつもと同じく、そんなことなど気にした風もない。
 柔らかな笑みは紅真が紫苑に応えないことを疑ってもいない。内心で苦虫を噛み締めながら――それは決して内面にだけとどめられているわけもなかったが――それでも足を踏み出している紅真だ。
 或いは足を踏み出している自分自身にこそ、最も強く憤っていたのかもしれない。

「ね、とてもきれいでしょう」

 窓に手を付き振り返る紫苑に応えてその向こうを覗き込む。
 その窓の下には、迷路の如く広がる花園に水をやる庭師の後姿。捲かれる水が煌々と光を反射し、七色の虹が掛かっていた。
 紫苑が紅真を振り仰ぎ、嬉しそうに告げてくる。紅真にとって少女の喜面など見慣れたものであったので、態々視線を動かす必要性もない。

「いつもこうやって水をあげているの。となりにいたら分からないのよ。こうして上から見下ろすとこんなにきれいなの」

 きらきらと輝いたいているだろうその笑顔。煌々と水飛沫を上げている虹。まるでそこにだけ、世界の幸せを詰めたかのように感じられ、紅真は衝動的に顔を左右に振っていた。何を振り払おうとしたのかなど、紅真にも分からないまま。
 詰め込んだ幸せの中の住人である紫苑にはどうでもいいことだ。ふわふわとした様子を振りまきながら、紫苑は嬉しそうに笑い続ける。

「白いまほうのくすりをあげているのですって。お花をいじめるいやな虫をよせつけなくするのですって」

 それは農薬だ。
 決して自分にはその魔法の薬を分けてくれないと、庭師に対して口を尖らせる紫苑に、紅真は当たり前だと内心で返していた。
 虫けらには剣のに顔を顰めるのは少女の祖母だ。冷たいその瞳は、紫苑の笑顔でさえ奪う。この家の庭園はそんな彼女の管理下にある。強い農薬を撒いて虫を完全に殺すように指示されているだろう。
 そんなものを誤っても『お嬢様』の小さな手の上に乗せるわけにはいかない。

「でも、お祖母さまはこれがきらいみたいなの」

 紅真は紫苑へと視線をやった。憂い気に伏せられた瞳が、俯いた面からも見て取れた。

「……食事の頃だ」

 なんとなくもかける言葉がなく、紅真は視界を掠めた日の、昇った高さからぽつりと独り言めいたそれを口にして、踵を返した。
 紫苑に背を向けて歩き出せば、彼女の様子など分かりようもない。それでも、少年には、少女が自分の後を一途なまでについてくるだろうことが、何の確信もなく、手に取るようにわかった。



 ざわつくダイニング。たった五人の人間が食事をとるだけの為に、なぜこうも広々とした部屋が必要なのかと思うほど。まるでパーティー会場だ。いや、広場でさえこの部屋を見せられてしまえば狭く感じるかもしれない。
 倒れているのはこの館の『女主人』と称しても差し支えないないだろう。老女――紫苑の祖母だ。
 口から泡を吹き、眸を見開きこと切れている和装の老女の姿を、紅真はただじっと見つめていた。その後ろで、その後をついてきた少女もまた、その老女の姿を見つめているのだろうことを感じながら。

 このときはまだ誰も知らなかった。
 この祖母の死によって、月桂館に舞い起こる死が止まらぬことを。そして、それが少年の両親の死さえも巻き込んでいくことを。
 水。
 水滴。
 ぽつりぽつりと、零れているのが紅真の目に焼けに印象深く残った。



 やってきた警察。指揮官の名はシュラというらしい。若いがすでに軽視だという。
 紅真は捜査員に指示を出すその姿を離れた場所から見た。どうせそのうち、事情を聞かれることになるのだろうが、それとてまだ幼い紅真に対してのこと。たいして真剣なものではない。
 紫苑は紅真の隣。いつも抱えているうさぎのぬいぐるみをきつく胸に抱き締めて、慌ただしげに動き回る警察の人間の様子を見つめている。
 どうでもいいと思った。舌打ちが出たのはそのせいだろう。紅真は本当に、どうでもよかったのだ。
 この月桂館の誰が死のうが、それで誰が得をしようが、損をしようが。貴族連中がどれだけ噂話に花を咲かせようが。
 だって、こんなもの、何もかもが忌々しいのだから。

 警察は相変わらず右へ左へ走りまわっていた。政界にも強い影響力を持つ貴族様の怪死事件だ。きっと、警察上層部の方はもっと右往左往していることだろう。
 紅真は考え、腹の底が冷えていくのを感じる。
 不意に捜査の指揮を執ると初めに名乗っていたシュラかという警部と視線があった。鋭い目つきをした男だと思った。柔和な優男風の面に、その鋭さを隠している。食えない男だと感じた紅真の勘は、どうやら間違ってはいなかったらしい。
 男は紅真と目があったとき、確かに笑ったのだ。薄く、嘲笑っていた。
 それはまるで犯人がするみたいな笑みだぞとでも言ってやりたいようなもので、紅真はその瞬間だけ、愉快さに苛立ちも苦々しさも忘れた。
 愉快。
 そうか、この世にはまだ、そういったものもあるのかと思う。

 男の視線はすぐに紅真から反らされた。別の方向から走り寄ってきた女刑事に名を呼ばれたのだろう。すぐに何やら話し込み始めた。
 紅真はまた舌打った。
 ―――どうでもいい。
 紅真の心はまた暗い靄に包まれていく。それがどういったものであるのかなど、結局はまだ幼い子供でしかない紅真には分かることではない。
 ただとにかく、彼は常に耐えていた。悔しさか、怒りか、それすらも分からぬ。ただとにかく何かに耐え続けていた。身を打ち震わすほどのそれに、耐え続けていた。





「シュラ警視。どうかしました?」
「いや、なんでもないさ。――壱与刑事」

 首を傾げるしぐさだけを見れば、彼女が武術の達人だなどとは考えも及ばないだろう。時に、こうしてまだまだ少女の域を出ないほど愛らしい表情をすることのある彼女は、シュラが呼びかけた通り、立派な刑事の一員だ。
 女性が男性社会にも進出するようになったとはいえ、まだまだ珍しいその姿に、事件そのもよりも人々の好奇の目を引き寄せることがあるが、当の彼女はまったくといっていいほど、そんなものを気にしない、さばさばとした性格の持ち主であった。
 優美、おとなしやかとは真逆にあるような彼女だ。この館に住まうような貴族のお姫様達から見れば、とんだじゃじゃ馬だろうと、シュラは己の考えに薄っすらと笑んだ。

「もう、その言い方やめてください。な〜んか、からかわれてるって感じ。嫌〜な感じですよ」
「そうか?」
「ええ。なんていうか、格好良すぎて嫌な人って感じです」
「なるほど」
「納得しないでください」

 壱与が頬を膨らませる仕草を作って見せ、シュラは薄く笑ったようだった。






「紫苑。早くなさい」

 緋蓮が呼ぶので、紫苑は駆けた。湯浴みは緋蓮の拘りだ。温室、デザイン、マッサージ。緋蓮の拘りは湯浴みに付属する全ての及ぶ。
 酷い時は日替わりで浴室のデザインまで変えてしまうこともあるそれは、すでに何千種類という数に達しているかもしれなかった。紫苑にはまだ興味がないが、基本的に紫苑のことを構うことがない緋蓮が極稀に紫苑と相対するという気まぐれを起こすとすればこの湯浴みのときくらいであるから、緋蓮に呼ばれれば紫苑はいつだって、その小さな足を必死に動かして駆けて行くのだ。
 最近の緋蓮の好みは美容と健康を兼ねた全身マッサージの類いである。特殊なクリームや美容液をたっぷりと塗り込みながらのマッサージをボーイに施させながらその身を横たえている緋蓮を、紫苑はじっと見つめていた。

「まったく。とんだ厄病神だわ。嫌な婆(ばばあ)だったけど、最後の最後で、冗談じゃない」

 緋蓮はリラックス効果のある筈の全身マッサージを受けながら苛々と愚痴る。顰められた顔は紅真以上の苦々しさと、今は亡き義母と同様の忌々しさが込められていた。

「この月桂館で人死にだなんて。しかも殺しですって? なんて外聞の悪いこと」

 死因は農薬の摂取によるものだと断定された。警察は自殺と殺人の両面から捜査を行っているらしい。
 今日は農薬の管理をしている庭師が事情聴取のために警察に連行された。彼が犯人であろうとそうでなかろうと、緋蓮にとっては取るに足りないことだったが、少なくとも義母が自殺などという殊勝なことをするような人間でないことは確信している。
 人を蔑む老女だったと、緋蓮は自分のことを棚に上げて回想する。死ぬとしたら碌な死に方をしないだろうとは思っていた。思うと同時に、決して死なないだろうと思わせるふてぶてしさと恐怖を感じていた。
 決して逆らうことのできない相手。目の上のたんこぶのように忌々しい邪魔者。
 あの老女が生きている限り、緋蓮はこの館の女主人になることはできない。

 いったいいつまで生き続けるのか。
 やがて忌々しさは彼女にとってあって当たり前のものになっていた。骨と皮と血と。彼女が生きている限り決して切り捨てられないそれらと同じように。
 いずれ人間は死ぬ。けれどそんなことを考えるような生き方はしていない。けれど死ぬならば豪華な寝台の上。優雅に。
 決してサロンの馬鹿どもの口に面白可笑しく話される話題を提供するような死に方をするつもりなどないのだ。そして、それはこの館に住まう人間すべてに求められてしかるべきことであるはずだ。

「本当に、忌々しい――」

 緋蓮が美容にただならぬ関心を傾けるのは当然のことだろう。暇を持て余している彼女は、女性としての自分に正直だった。それに健康が加えられたのはここ最近のことだ。
 富のある家に生まれつき、努力を惜しまず知識と教養を手に入れた。努力だけでは手に入らぬ美貌を持って生まれ、最高の家に嫁いだ。けれど人生はなんと彼女の思い通りに動かぬことか。

 その美貌に綻びが出始めたのは、彼女にとっての義理の母である老女が亡くなってからだろう。体調が思わしくなくなり、自分でも気づかぬうちに、義母の死にショックでも受けているのだろうかと疑いもした。もちろんそんなことがあるはずもない。
 たとえ心労を覚えたとして、それは義母の死に対してなどでは決してない。あるとすれば、そう。人の殺された館に住んでいる――。そんな嘲笑が陰で囁かれるそのことへの苛立ちくらいだろう。
 食が細くなるのは仕方がない。義母は飲み水に毒を混ぜられて亡くなったのだから。
 完璧であればある程、人の嫉みや恨みを受け、その為の心労は仕方のないこと。享受しようと彼女は常々語っていた。
 輝く美貌は彼女の自慢の最たるものだ。その美貌の誇らしさの前にあっては、その地位も財産も、彼女にとっては取るに足らないこと。己の美貌の付随物にすぎない。
 それが今はどうだろう。
 彼女は忌々しく――いっそ殺意さえ込めた瞳で己を、そして己の娘を見つめた。

 食欲は衰えるばかり。食べようとしても体が受け付けぬ。?せ細っていくばかりの体は、まるで骨と皮だけしかないかのように美しさの欠片もない。白く艶やかに輝いていた肌は黄土色にくすみ、張りは消え、波打つ皺が覆っている。
 唇や頬から朱みも消えた。髪はどれほど梳かしても通夜を取り戻さずにぱさつくばかりだ。最近は抜ける髪の量が格段に増え、抜けないまでも途中でぶつりと千切れてばかりいる。
 苛々していた。
 それに対してどうだろう。目の前の幼女の姿は。
 女性としての丸みなどない。色気などまだまだありはしない。
 けれどきめ細かく輝くその白肌。艶やかに光輪を乗せた髪。ふっくらと薄紅(あか)く色づく唇と頬はなんと柔らかそうに映ることか。
 女性としての丸みなどない。色気などまだまだありはしない。けれどそんなものはいずれ必ず身につくものだ。
 緋蓮は戦慄した。いずれ、この娘は自分よりも遙かに美しく魅力的な女に出来上がるだろう。
 思考の海に沈んでいた緋蓮は突然腹部に走った痛みに、顔を顰めるよりも先に癇癪を起していた。
 バシンと平手打った音が浴室に響き、緋蓮の体を拭いていた侍女が勢い良く倒れた。

「何をしているの?! もっと丁寧にやりなさい!!」

 建物が揺れるほどの勢いで床に叩きつけられた侍女の倒れる音がするかしないかという、まさに間髪を入れずの勢いで緋蓮が怒鳴り声を上げた時、別の侍女に体を拭かれていた紫苑の身が竦むように撥ねた。紫苑の体を拭いていた侍女も、思わずといった態でその身を揺らし、紫苑を縋るように抱き締める。
 常にふわふわとした笑みを浮かべている紫苑が、こうして身を揺らすほどに動揺するのは珍しいことだった。
 叩き倒された侍女は痛みに呻き、未だ起き上がることもままならぬらしく、身をびくりびくりと小刻みに揺らすばかりだ。
 そんな侍女を冷ややかな視線で見つめ、緋蓮は周りに佇む別の侍女を呼び寄せて体を拭かせる。倒れた侍女を汚らわしいとばかり、眉間に皺を寄せると、さっさとその場を去っていく。
 紫苑は去りゆく母の、そのやせ細った背中と倒れた侍女の呻き――やがて緋蓮の姿がなくなって漸く、他の侍女が慌てて駆け寄り介抱された――様を、ただじっと見つめ続けていた。
 自室への道のりを歩きながら、緋蓮は収まらぬ苛立ちに歯をきつく噛み締める。体中が痛みを訴え、やつれた外面がその現実であることを明らかなものであると、緋蓮自身に厭がおうにも指し示していた。

 ああ、ああ。なんて怖ろしいことだろう。なんとおぞましいことだろう。
 嗚呼。
 嗚。
 嗚……。

 霞んでいく視界に、ただじっと自分を見つめる娘の姿を――そのアメジストの瞳を収め、緋蓮は重い瞼をやがて閉じた。






「蒼志様もたいへんですわね。お母様が事故でお亡くなりになって、一年も経たないうちに奥様まで」
「本当に。一人娘の紫苑様もまだまだ幼いし、お母様が恋しいでしょうに」
「ええ。紫苑様にはまだお母様が必要よ。それに、紫苑様は確かに素晴らしいお嬢様だけれど、やっぱり後継ぎとしたら男の子が…――ねぇ」
「ええ、本当に。蒼志様もまだまだお若いですもの」
「支えになる奥様が必要ですわ」

 ひそひそと。密やかではない声量のざわめきがそこかしこで囁かれる会場で。紫苑は、あっ、と声を上げ、愛らしい人差し指で、ある一点を指し示した。

「あ、紅真さま。わたし、これ知っているわ」

 葬儀のために集まった筈であるのに、どうしてこうも煌びやかに着飾り、料理と談笑を楽しんでいるのだろうか。紫苑が話しかけたのは、紅真が皮肉にも似た思いであたりの風景を眺めやっていたときのことだ。
 紫苑が示したのは亜麻色に輝くブランデーボトルだった。二人からすれば首を反らさねばその全体像を見ることが困難な大きな棚の中にいっぱいに並べられた酒類の中の一つにすぎないそれが地方公務員の月給の百倍の値であることなど、二人は知りえない。
 紫苑は相変わらず、ふわふわとしたやわらかなで幸せそうな笑みで話し続ける。

「お父さまが紅真さまのお父さまにさしあげて、その場でごいっしょにびんをあけていたのを見たことがあるの」
「それはいつ?」
「え?」

 思いがけないことに紅真は思わず紫苑に訊ねていた。紅真が振り向けば、紫苑は驚きに眸を真ん丸に開いて固まり、けれどそれは一瞬のことだった。すぐにきらきらとした笑顔になると、紅真に常にはない一生懸命さで話しかけ始めたのだ。
 紅真は知らずに顔を反らしていた。思えば紅真から紫苑に話しかけるのは初めてではなかったか。いや、初めてではないとしても、そう思えるほどに昔の話であるのは間違いない。
 先ほど、驚きの表情から一転した紫苑の笑顔に、紅真は初めてそれまでずっと己の隣にあった紫苑の笑顔を思い返した。ふわふわとした、まるでかくそくのないものではなかったか。おそらく今見た笑顔がなければ永遠に気づかなかっただろうそれに、紅真はバツの悪さを抱き、なぜ自分がそんなことを抱かねばならぬのかと、眉を顰めるのだった。
 紅真が顔を顰めるのを見て口を噤んだ紫苑の様子に気づくものは、誰もいなかった。





 そうして三人目の死者が出た。桜の蕾が膨らみ始めた、輝く日差しの頃だった。





「紫苑ちゃん。あなた、庭師から貰った白い粉を、お祖母ちゃんにあげたのね」

 壱与が優しく――その瞳に悲しみが乗っていた理由は、紫苑には分からなかった――訊ねるのに、紫苑は小首を傾げた。

「ちがうわ。『にわし』は私にまほうのこなをけっしてくれないのだもの」

 紫苑は僅かにその口を尖らせて見せた。拗ねたその姿が愛らしさを誘うが、今は誰一人としてそれを感じる者はいなかった。

「だからこっそりと、ちょっとだけもらったの」

 それを悪いことだなどと思っていないことは明らかだった。他人のものを盗む。それを悪いことだと彼女に教えるような人間は、少女の周りにはいなかったのだから。

「そうなの。じゃあ、紫苑ちゃんは、それをお祖母ちゃんにあげたのね」
「ええ、そうよ」
「どうして…」

 こくりと首を縦に振った紫苑に、壱与は耐えきれずその瞳を伏せた。
 紫苑はやはり小首を傾げて見せた。

「だって、紅真さま、お祖母さまのことお嫌いだもの」

 少女の祖母の口癖だった。『虫けら』と嫌なものを指して云う彼女が、紅真のこともそう呼んでいたことを、紫苑は聞き逃したことはない。その度に、紫苑の視線の先にある紅真の拳は、何かに耐えるように強く握られ、震えていた。

「だんなさまを守るのは『つま』のやくめなのよ。お母さまがそういってらしたの」

 だから、魔法の粉を使ったのだ。嫌いなものを寄せ付けないという、魔法の白い粉。
 祖母は紅真のことを嫌っていたのだから、近づかなければいいのだ。祖母は自分のことを『華』だといっていたことがある。
 だから、花の為にある魔法の粉も効果があるだろうに。

「……。お母さんに、使ったのも?」
「そうよ。お母さまも、紅真さまのこと嫌いだったもの」

 そして彼女もまた、自分のことを称して『華』だと云っていた。

「あなたが、体に塗ったの?」
「いいえ」

 紫苑は首を横に振った。緋蓮の死因も確かに毒殺だった。彼女の場合は口から直接致死量の毒を体内に取り入れたのではない。少しずつ、少しずつ、皮膚から毒素を取り入れて、やがて衰弱して亡くなった。
 毒に侵され弱っていく体。それを抱えての最後は、想像を絶する痛みと苦しみであっただろう。

「わたしじゃないわ。お母さまはわたしが触れるととてもいやそうなお顔をなさるから」

 それは紫苑にとても悲しい思いをさせるので、理由は分からぬまま、無意識に紫苑はそうすることを避けていた。
 自分の母である緋蓮の喜色に満ちた表情など、紫苑の記憶にはない。けれど幼い紫苑にははっきりと感じ取れてしまった。幼いが故に、はっきりと感じ取れてしまった。
 母が、不愉快に感じている。そしてそれを感じ取ったときは、紫苑の心は暗く重たい心地に包まれる。
 それはできるだけ味わいたくない思いであり、紅真といる時にも概ねそういった思いに駆られる。
 だからこそ、それを払拭する為に駆けずり回ったのだ。祖母より、母より、父より。夫である紅真といる時が一番、悲しく、淋しく、そして、温かかったから。

「お母さまはきれい好きなの。なんでもせいけつにしておかないとおいかりになるのよ」

 枕もタオルも水も、すべて真新しいものを用意させていた。手を清めたボーイが、水を拭うタオルでさえも選択したばかりのものを使用させていたほどだ。
 けれどジェルはそうはいかない。紫苑はただ、瓶詰めにされたオイルやジェルに魔法の粉を振り入れただけだ。その為に、マッサージ師は今中毒症で病院に入院中だった。

「お父さんは?」
「お父さまは勝手に倒れたの」

 館の主人である蒼志が紫苑の目の前で亡くなったことは、この場にいる全員が知ることだった。その死因は他の二人とは異なり、頭を強く打ったことによるものだ。検死の結果によれば即死だっただろうとことだ。

「お父さまは『のろいか』ってさけんでいたの。『のろいころせるものならやってみろ。わたしは死なない』って」

 大声で喚きながら、蒼志は落ち着きなく腕を振り回し、部屋を歩き回り、とにかく恐怖を払拭しようとだろう。当たり散らす蒼志は自分が叩き落として零したブランデーに足を取られ床に転倒。頭部を強く打ちつけて一度その体を撥ねさせた後、紫苑が見つめ続ける中、二度と起き上がることをしなかった。
 紫苑の口ぶりからすると、彼女は父の言葉の意味を理解してなどいない。幸か不幸か、彼女はとにかく記憶力が良く、父の発した言葉を一音一句欠けることなく再生して見せたのにすぎない。
 蒼志には呪い殺されるような心当たりがあったのだろうか。
 周囲が同じ疑問を抱き、そして同時に納得する。そのような心当たりなど、彼であれば両手の指でも足りぬほどにあるだろう、と。
 それでも紫苑の言葉に誰もが動揺した。そして最も動揺し、最も冷静であったのが、紅真であった。

「お父さまは同じことを前にもおっしゃっていたことがあったわ。紅真さまのお父さまとお母さまがお倒れになったときよ」

 重厚な木製の扉が薄く開くそこから、紫苑はその様子を見、その言葉を聞いたのだという。蒼志と紅真の父が、向かい合ってソファに腰掛け、ブランデーを口にしていた。不意に紅真の父が喉を押さえて苦しみ出し、その悶える様子を見つめながら、蒼志は告げたのだそうだ。

『呪い殺せるものならやってみろ。私は死なない』

 笑って云ったのを、紫苑は見つめ、意味が分からず首を傾げてその場を去った。紅真のところに行くために。







 あれから幾年かの月日が流れた。紅真は成人し、自己の継いだ財産の管理権を回復させた。
 財産管理だけでは物足りないと始めた事業も順風満配、彼の富と権力は右肩上がりで、彼の名はかつての事件のことを人々の忘却の彼方へ追い遣らせた。
 月桂館の跡地が、見る影もない平地になっているかのように――。

 今日、彼は人を迎えに来ていた。幼い頃に分かれてから、初めての再会になる。

「……紅真さま?」
「紫苑」

 長い刑期を終えて、漸く出所した紫苑を出迎える。精神病院へほうり込まれていた紫苑を外に出すために注いだ金と労力は、髪の毛先ほどにも満たない。けれどそれによって得た成果は、彼の持つあらゆる財産を塵と表現するほどに大きい。
 紅真は唯微笑んでその手を差し出した。
 紫苑は不思議そうに小首を傾げ、それから少しだけ怯えて、その手を差し出す。紫苑の指先が紅真の指先に触れた瞬間。丸で接触性の電気スイッチがオンになったかのように、紅真は紫苑の手首を取りその体を引き寄せて抱きこんでいた。
 一瞬だけ紫苑の体が跳ね、しかし己の状況を把握するとともにその体から力抜いていく。ほっと、安堵のと息とともに。
 怯えと警戒は、紅真が紫苑のことを許してくれるのか分からなかったからだ。悪戯をした子供が、親がまだ怒っているのではないかと怯えるのと同じそれ。

 紅真は紫苑を抱きしめた。家に連れて帰り、夜までは沢山の優しさを与えてあげよう。
 身も心もまだまだ少女の紫苑。頑是無い幼女。
 その足を開かせて、鳴くほど愛してやりたくてたまらない。だって、そうと自覚してから何年たったのかすらわからないのに。
 壊れるしかなった憐れな運命のもとに生を受けた彼女が、永遠に少女でいられるように慈しもう。

 紅真は抱き締める紫苑から僅かに体を離し、そっと微笑みかけるのだった。








詠まんでもいい裏設定など。
 ミステリもサスペンスも小説で読んだことなんてないですよ。というかこの二つの違いを説明もできないです。
 緋蓮の殺し方が当初考えていたものと変わりました。確か初めはマッサージ師が洗った手を拭くタオルに農薬をかけていたとかなんとかだったような。考えてから一日開けて書き始めたら何か違うのになった。
 最後まで出てこなかった祖母の名前はちゃんとあります。「ハル(春)」です。でもイメージしている祖母の姿が、邪馬台幻想記のハルばあちゃんと180度どころじゃなく反対でしたので、使用を断念。でも名前を変えたくはなくて、結局書かずに終わるという最悪さ。
 色々と使用法の間違っている単語とかあると思います。指摘して下さい。そして事細かにレクチャーなどして下さると心底ありがたいです。毒とかも、もっとちゃんと調べないとダメですね…。
 シュラ警視はギャグの為に設定しました。笑う為。初めは警部でもっと笑えたんです。長くなるのでいろいろカットしました。
 壱与はメイドにしようかどうしようか一瞬迷いましたが、メイドがこれ以上なく彼女に似合わないと感じたので、シュラさんのコンビの女刑事に。もっと壱与とコンビっぽさを出して事件解決に勤しんでもらいたかった…! 悔しいのでこの二人のスピンオフなどやりたいですね(きっとやらないけど)。

 ご意見ご感想ありましたらぜひお寄せ下さいです...2007/12/07-15