母なる海に咲く 



 君の言葉が、ただ一人の君が。
 この世界に、種を植え続けることには、必ず意味があると、知らないのならば告げよう。
 何度でも、君の為に告げよう。
 他の誰でもない、君の為に、君が歩き続けると決めたその道。それを、諦めぬ為に、何度でも。






 勝鬨が上がる。戦争に勝利した兵たちの雄叫び。
 どうしてそれをやめさせることができるだろう。叱咤することなどきようか。憂いを感じているなどと、どうして示すことが許されるというのか。
 それでも壱与は目蓋を下ろした。背筋を伸ばし深く息を吸う。
 受け入れるべきことがあることを受け入れる為に。

「私のしていることは、意味がないのかもしれないわ」

 たまには息抜きも必要だと、彼女はいつもそういって草原を歩く。いつもそう告げ、いつだってあちこちに顔を出しているように思われがちな彼女が、実は一日の大半を、己の執務室で難しい政務に眸を眇めてさせて過ごしていることを知る者は少ない。
 彼女は一人で草原を、或いは森を、或いは水意味のほとり、川辺、街中を歩くのを好むが、彼女を一人で歩かせるのを好むものは彼女以外にどこにもいない。彼女の味方では、という但し書きがつくが。
 即ち彼女には敵がおり、それは多く、そして彼女が一人になるのを願うようなことを画策している。
 けれど彼女は今一人で歩いていた。否、まるで一人で歩いているかのように、彼女の見える範囲に人はいない。
 だからそれは彼女の独り言のように、見る者によれば映ったかもしれない。

「こんな風に平和で、でも、どうして争いはなくならないのかしら」

 数年前のことである。彼女らの生まれたこの土地が、小さな島であるということは大陸の地図で知らされた。
 大陸一つを丸ごと一国とする隣人。大陸の地図ではこの島は一つの国。現実は――その大陸の何十分の一しかない土地で、何百もの国に分かれて争い合う。それが自分たち。
 なぜだか無性に許せないと思った。理不尽だと感じた。
 国が焼かれ、親を失い、空腹と孤独に彷徨い、涙を流す。経験として知っていた。けれどそれ以上に、周囲に溢れているが故に、知っていた。
 改善というのだろうか。なくしたいとまでは思わなかったかもしれない。けれど少しでもいい、何かが変わればと――、違う何かを求めていたのは確かだった。
 そう、心にぽつりとしこりを持ってから、十数年後。神の力をほんのちょっとだけ借りる裏技を使って、ほんの少しだけ、変化を生んだ。
 今、この島は、一つの島国となった。けれど相変わらず戦争はなくならない。

「天気はこんなにいいのにーー!」

 両腕を天高く突き上げた。凝り固まった体全体が伸び上がる心地。
 すべては無駄であるのだろうか。あの巨大な大陸のさらに向こうにも大地は続いており、万の国が存在していると聞く。そこではやはり争いが絶えず、彼の巨大な大国もまた、絶えぬ争いに分裂の危機に晒されているという。
 たった一人で、いったい何ができるというのだろう。平和を愛する人の心はどこにでもあるのに、けれど万人の心を一つにすることなど不可能なのだ。

「天気がいいことと平和にどんな関係があるんだ、壱与」

 聊か呆れた風に声をかけたのは、銀色の髪の少年。まるで雪が日の光に煌めくかのような不思議な色合いのその髪色に、その下にある顰められた顔に、壱与は思わず微笑んでいた。
 邪馬台国女王直属護衛長――紫苑。
 それは邪馬台国の女王壱与を守る為だけの集団であり、国を守るための国兵とはまったく別個の存在であった。

「あら、だって、気候が良ければそれだけで幸福じゃない? 平和は幸せであることこそでしょう」
「確かにな。最近は作物の実りもいいらしいじゃないか」
「本当にそうよ。備蓄もたっぷり。食べるものに困らないって、根本的な幸福の一つよね」
「寒さに震えて眠らなくてもいいしな」
「……そうでもないわ」
「焼け出されても、保護してくれるところがあるのは貴重だと、俺は思うがな」
「焼け出されるような人がいなくなることが、私の目指すところだわ」

 壱与の瞳は厳しく、世界を睨みつけていた。

「それを目指して、私は卑弥呼様より女王を受け継ぐ決意をしたの」

 そうして犠牲を出してまで、己の信じる道を断行してきたのだ。決して立ち止まらず、たとえ振り返ることがあれど、悔やまずに。
 悔やめばそこで折れてしまうかもしれない。そう思えば、悔やむことなどできなかった。信じている道が誤っている可能性を完えなかったと云えばう嘘になる。これだけの犠牲の上になる平和に価値があるのかとの考えが脳裏をかすめたことは一度や二度ではない。
 そうして何度その考えを振り切ってきただろう。歩き続ける。そう決めたではないかと。

「そうでなくて、どうしてこんな面倒臭いこと、引き受けるもんですか」

 憮然として腕を組む壱与に、紫苑は声を上げて笑う。珍しいなと壱与は思い、けれど今となってはそうでもないかと思い直す。
 彼は良く笑うようになった。神の力を見た、あの日。きっと、彼は彼を縛りつけていた柵(しがらみ)から解き放たれたのだ、と彼女は思う。
 すべてから解き放たれた、とは思うまい。そんなことは在り得ない。
 けれど、明らかに何かが変わった。何かから解き放たれた。彼は、あることについて、自由を得た。

「随分不真面目だ」
「当たり前よ。だって私、ちゃんと云ったのよ。卑弥呼様に」

 思い出すそれは、もう随分と色褪せてもおかしくない筈の遠い記憶。けれど一片も欠けることなく目の前に甦る記憶。
 拾ったのはそのためだと云わんばかりに、女王を引き継いでくれと頼む卑弥呼に、幼い壱与は唇を尖らせて反感をあらわにした。

『いやよ、ぜったいにいや』
『あら、どうして?』
『だって、そんなのってないわ。わたしはあなたたちみたいなひとにかぞくも、いえも、すむところもうばわれたのに、そのうえ「じんせい」までうばわれるなんて、そんなってないじゃない』
『あらあら。たしかにそうね』
『じょおうさま、わらいごとじゃないわ』
『ええ、笑い事じゃないわ』

 卑弥呼の笑みはいつだって優しかった。深く、深く、穏やかに包むようであった。

『壱与、私は貴方を見つけたこと、それだけは、自分を褒めてあげたいほど、今、嬉しくて仕方がないの』
『なによ、それ。いみがわからないわ。それでじょおうさまはわらってるっておっしゃるの?』
『ええ、その通りですよ。貴方のように賢く、優しい子を見つけ出した。私の一生は、或いはその為だけにあったのかもしれませんね――貴方を女王とする為だけに、私はこの運命を歩んできたのかもしれません…』

 そっと瞳を閉じた卑弥呼の表情が、今も忘れらない。あの時、あの薄幸の女性は何をその胸の内に抱えていたのか。
 子供心にも、その、何もかもを悟り、受け入れたかのような微笑に何かを感じた。その笑みなくして、現在の自分はあり得ぬのではないかと、今、壱与は思う。
 それなくして、あの時、女王を継ぐことを受け入れなかったのではないのか。

「生意気で、嫌〜な子供」
「変わってないな」
「あ、ひっど〜い」
「……卑弥呼は、なんて云ったんだ」

 紫苑が優しく問う。
 壱与は一瞬だけ言葉に詰まり、それから漏らした。大切で、けれど切ない思い出を吐き出すかのよう。痛みに耐え、けれど幸福をもたらす記憶。甘く、苦く――そう呼ぶには、余りにも複雑にずぎる過去の思い出。

「……その疑問は正しいと。疑問に持つことから、すべては始まると、そう、仰ってたわ」
「ああ、それは正しい」

 紫苑は眸を眇めた。であった頃は彼女より小さな少年だった。今、彼は、彼女よりもずっと高いところを見ている。
 壱与は眩しげに眸を眇めた。紫苑の持つ、稀有な色の髪が光を反射するのを見ていた。その向こうに広がる、青空が眩しかった。

「あら、分かるの?」
「当然だろう。……疑問を持たなかったから、俺は長いこと、あそにいた」
「でも、無駄な時間じゃなかった」

 含み笑いで訊ねる壱与に、紫苑はそっぽを向いた。それが彼なりの照れ隠しであることを知っているから、壱与は微笑を零すだけだった。彼女にとって、彼は親友であり、弟であり、息子のようでもあった。
 彼が慕うその人を思う時の姿は、とてもかわいらしい。

「私の疑問に、その怒りに、だからこそ貴方は女王になりなさいと、そう仰ったの。神威力のことを伝え、手に入れなさいと」

 自分にはできなかったことを、卑弥呼は壱与へと託した。死にゆく自分ではもうなせないことを、若い命に頼んだ。
 思いの願う未来。その叶う可能性を示されたからこそ、壱与はその役目を背負うことを受け入れた。その責を負うことを受け入れたのだ。
 それだけの衝撃を、壱与は卑弥呼に――先代の女王に、与えられた。
 伝え、黙した壱与を見つめる紫苑の瞳が柔らかい。彼と彼女の運命は、少しだけ似ている。先代の王から、次代の王になることを願い請われ、それを受け入れていたもの。
 彼女は言葉を伝えられ、彼は、得られる言葉を聞くことが叶わずに、追う背中を失った。その紫苑が、口を開く。

「なら、俺は別のことを伝えてやる」

 おそらく、それは卑弥呼も伝えようとして、しかし伝える時期に出会わなかっただろう、言葉。
 壱与が紫苑に顔を向けた。真っ直ぐな藤色の瞳とぶつかった。
 真剣な人間の目は、誰も、どれも、見惚れるほどに格好良い。彼女はぼんやりとそんなことを思う。
 紫苑の口が開かれる様子が、やけにゆっくりとした動きで映った。

「一は万の母だ。壱与、お前ただ一人の意志が、言葉が、行動が、この国全体を動かしている」

 たった一つの意志から生まれた言葉。その言葉を行動に移した貴女。
 途方もない夢物語と、誰もが笑っただろう。貴女についてきながら、誰もが疑っていたはずだ。
 だって、貴女自身も疑っていた。

「少なくとも、お前の平和への願いは俺の胸を打った。あっという間に華を芽吹かせた。――尤も、俺が咲かせられた花は、大して種子を捲き拡げることができない

 紫苑が苦笑したのに、壱与はそんなことはないと慌てて頭(かぶり)を振った。

「なあ、知ってるか。こんなことを云った学者がいたんだ」

 それが真実であるかどうかは知らないが――紫苑はそう前置きしてから話し出した。流れるように語られるそれは、まるで物語を紡いでいるかのよう。

「この世は何もない海のようなものが始まりだったそうだ。そこに一つの命が生まれ、それが幾億の星に拡がり、俺たちがいる。――壱与、おまえが平和を願った。それがお前の受け継いだ国中に広がり、この島を包み込むほどに拡がった。お前の願いは、その行動には、意味があるんだ」

 泣かないと決めたのはもう昔。彼女はその決意のままに、涙を忘れ去った。
 もう何年も自分の涙は見てない。
 他人の涙に寄り添うことがあっても、慰めることはあっても、同情することはあっても。どんなに痛くても、苦しくても、辛くても、淋しくても、嬉しくても――。
 涙を忘れ去ったまま。きっと、一生このままだと諦めていた。
 自分で決めたのに諦めるなどとは、随分と可笑しな話だと苦笑する彼女の胸裏を知る者は誰もいない。それこそ、目の前の彼でさえ。
 それなにどうしたわけだろう。
 彼女は泣きたかった。どうしようもなく、涙の溢れる予感を止められそうもなかった。
 目の前の彼が微笑んだ。美しい微笑を目の前にして、ああ、こんなことがあの紅眸の青年に知られたら、自分は今度こそ命を奪われるかもしれない――と、頭のどこかでぼんやりと思う。そうして同時に、きっと目の前で微笑む彼がそれを阻止してくれるとか、彼のこんな笑顔が拝めたのなら、仕方がない。紅眸の彼に殺されてもいいわ、とか。
 ああ、ぐるぐると。本当にぐるぐると、浮かんでは消える泡沫の思考。
 壱与の頬を、一筋の涙が伝って、落ちた。
 草の上を滑り、それは柔らかな大地に吸い込まれて消える。

「壱与、たった一人のお前の、平和を思った心の行動が、この島の、万人の平和を願う思いを刺激し、行動を生み出させた」

 貴女はまさしく女王。この世に平和の種を撒き散らす、最初の華――。






 宇宙だとか、世界だとか。そんな大層なものを君に背負わせるつもりはない。そんな重責を、君に押し付ける気はない。
 けれどこれは間違いないのないことだ。どうしようもないほどに、これはたった一つの真実。
 君が、この国の平和の礎。
 君こそが、この国に平和の種蒔く、母なるひと咲き。





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 正月に思いついて草案を練って放置している間に何を書こうとしていたか忘れた代物。いろいろと最低具合が文章に滲み出ている気がする。「一は万の母」それが書きたいが為だけにできた話。
 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)ゆうひ_2008/01/19-20(19日中に書き上がらなかっただけのこと…)
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