誰が駒鳥殺したの それはあなたと誰かが言った。 







「何してんだ、こんなところで」
 背後から掛けられた声には聞き覚えがあった。しかし振り返ることも、応えることもしなかった。
 紫苑にとってその声はあまりにも慣れ親しんだものであり過ぎたので、気を使う必要がなかったからだ。
 情人に応えないことでその関係が終わるのであれば、それもまた構わない。自分の身や心が、特定の何か、あるいは誰かに束縛されることなど厄介なだけだ。できることならば忌避されるべきだろう。
 ……そもそも情人なのだろうか?
 ふと紫苑は疑問に思う。その関係の不思議な様が突然おかしく感じて、紫苑は知らずのうちに口端を持ちあげていた。
「何笑ってやがるんだよ」
 不機嫌な紅真の声。彼はまだ紫苑の背後にいて、声をかけてから一歩として近づいてきてもいないのに。
 紫苑はますますおかしくなった。
 紅真が紫苑の表情を、目に見なくとも正しく知れるように、紫苑も紅真の今の立ち振る舞いを、目に見なくてもありありと脳裏に思い浮かべることができる。そして思い浮かべたそれは正確なのだ。
「で、なんなんだよ、それは」
 紅真が顎で示しただろうことを感じ、紫苑はまた、ふわりと一人でほくそ笑んだ。
「ああ、この間の夜…」
「この間っていつだよ?」
「いつだったかな、とにかくこの間だ」
「馬鹿か、てめぇは」
「煩いな」
 紫苑はあまりに日数というものを覚えない。たとえば「何日前」のような明確さでもって示すことが出来ず、「この間」、「つい最近」、「少し前」などといった言い方をする。その度に、紅真はそれを揶揄るのだ。
「たぶん、遂最近のことだ。ほら、国崩しに行っただろう?」
 紅真はそれが紫苑が最も新しく崩した国のことだと思うことにした。仮令違ったとしても、紫苑とておそらくは覚えていないのだ。
 それが紫苑に取って幾つ目の国崩しであったのかも、なんという国であったのかも、どの季節のことであったのかさえ。
「そのときに、そこの国の王と供根をしていた女がいたんだ。これがそうなんだけど、」
 紫苑は足元に転がるぼろきれのように原形を失くした『それ』を示す。
「ほら、シュラのところに行くとよくあるだろ。シュラが裸の女としてる。たまに俺や紅真も似たようなことをしてるけど…、それを、この女とそこの王がやってる最中で」
 紫苑の説明に紅真は僅かに顔を顰めた。シュラが女にさせているようなことを、紅真は紫苑に強いたつもりはなかったからだ。女を侍らせて、まるで己の『もの』であるかのようにして、紫苑を扱ったことなど、紅真は一度としてない。
「別に国崩しにその女は関係なかったから、とりあえず国王だけ殺して後は放って帰ったんだけど」
 顔を見られたことさえ気にしない。何故なら余りにも些細なことだからだ。
 正体が知られたところで何かが変わるわけでもない。危害が及ぶことも、面倒なことになるわけもない。
「そうしたら、こうなった」
 つまり、この女だったものはその執念と怨念だけで、自分の情人の仇を探し出し、その仇を討とうとして返り討ちにあったらしい。
 くだらない、と紅真は肩を竦めた。
 決して叶わない相手に立ち向かうことが、ではない。それを美しいとも潔いとも思わぬが、滑稽だと嘲笑って捨ててしまうには、紅真はまだまだ高みを目指して這い蹲っている現実から脱してはいなかった。
 くだらぬのは誰かの為に、そのことだ。もういない。死んでしまった誰かの為に。
 そこで紅真は唐突に疑問に駆られた。では、なぜ紫苑はそこに佇んでいる。
「紫苑?」
 訝しみを込めてその名を呼ぶ。紫苑はやはり振り向きはしなかった。代わりに思いもかけぬ答えが返り、紅真は目を向かんばかりに驚愕する羽目になる。
「凄い、と思った」
 紫苑の声音はどこか嬉しげに弾んでいるようにも聞こえ、紅真は得体の知れぬ恐怖と焦燥に襲われるのを感じ、その衝動のままに言葉を紡いでいた。
「何がだよ、ただの馬鹿じゃねぇか」
「そうだな。でも、やっぱり凄いと思うんだ」
 紫苑の声音はすでに淡々としたものに戻っていた。そこに感情の一切を汲み取ることはできない。
 しかし、紅真には何かが感じられた。
 それは紫苑の心の中で、しと降る雨の冷たさであったかも知れぬし、やはり僅かに笑ったその名残であったかもしれない。
 紫苑は言葉を紡ぐ。
「もし。もし、俺も彼女のようにできたら、何か、変わっていたかな」
 敵わぬと分かっていても、我武者羅に、狂った犬のように。その時紫苑に訪れたのは虚無と絶望であったが、代わりに憎悪と怨念とが飛来し、その執念でもって国を滅ぼした者たちを追い、向かっていたならば。
 何か、変わっていたのだろうか――。
「……」
 紅真は黙っていた。それきり、紫苑も特に何を云うでもない。
 吐き出された息が白く、どこかへ吹かれて消えていった。そういえば、彼らは降り積もった雪の上に立っているのだ。
 陽が燦々と輝いているので、そんなことなど忘れていた。
 今は冬で、世界はいまだ寒く、冷たく、薄暗いままだった。
「ふん」
 暫くの沈黙ののちに、紅真が舌打った。
「馬鹿か」
 紫苑が本日、初めて振り向いたが、生憎と、今度は紅真が紫苑から視線を外していた。
 彼特有の憎まれ口を思わせる口振りで吐き捨てるように。
「そうなったら、お前はその場で殺されて、ここにはいねぇ。俺とも出会ってねぇ。――それだけだ」
「……そうだな」
 紫苑はふっ、と呼気を吐き出して笑った。
 紅真と紫苑の実力は拮抗していた。その紅真が云うのだから、それは客観的である中では最も正確であったろう。
 国を一つ根絶やしにしてしまうような集団だ。当時の紫苑が向かって云ったところで、叶うはずがない。そして、そんな集団が、紫苑一人に情けをかけてくれるはずもない。
「帰ろうか、紅真」
 そこが本当に変えるべき場所かどうかは別にして、寝るのに適した屋根と壁のある住処であることは確かであった。少なくとも、こんな雪原のど真ん中にいるよりは温かいはずだ。
 紫苑が歩きだし、紅真は黙ってその後を追った。途中で二人の肩が並び、その身に挟まれた腕の一本、ふわりと温かみが増した気が、二人ともに感じたが、それとていつものことなので、特にどうにもならなかった。









 別れは突然だった。想像したこともなかったのだ。
 全力でぶつかれば、きっと目を覚ましてくれると思ってた。あんなに髪が伸びていたのは、いつ以来だろう。
 紫苑の髪が伸びる都度、紅真がそれを切り揃えていた。繊細な容姿とは裏腹に不器用な紫苑にやらせては、せっかくの美しい色の髪が可哀想なことになるからでもあるし、髪と一緒に指も切り取られる恐れがかなりの確率で寄り添っていたからだ。
 今、紫苑の髪を切り揃えてくれるようなものは、彼の傍にいはいないのだろうか。その髪を切る。その髪に触れるものがいる。それだけ傍近くによることを許されるものがいる。
 それを目の当たりにしてしまって紅真は正気を保っていられる自信がない。彼と共闘する人間がいた。
 それだけで、こんなにも胸が焦がされる思いに駆られているというのに。
 初めて出会ったとき、紫苑という小さな男の子は何も持っていなかった。何もかも失って、微かな夢に依って体だけを動かしていた。
 平和な、戦なのない――。それは紫苑の夢だ。紅真は知っていた。
 紅真にとって、それは全くどうでもいいことで、まったく興味のないことで、紫苑と紅真が共に方術を学び、共に強さを求める理由は根本的に違っていた。けれど、確かに通じ合っていたのだ。この世界で生きる中で感じる、何かが。
 彼が守る何かがある。紫苑に、紫苑自身よりも、紅真よりも、優先するべき何かができた。
「どうして…」
 紅真は呟く。見上げた空には何もなかった。

 嗚呼、どうして君は僕から離れてしまったの?

 紅真の疑問は、常世の森の闇さえ飲み込めない。限り無い信念の闇にさえ、それは飲み込めないのだ。
 紅真は思う。きっと、今の紫苑ならば、はっきりと答えられるのだろう。
 あの国を殺したのは、何年前の、いつであったのかと。国の名前も、殺した王の名も、その滅びた季節も、炎の色と、崩れていく国にそれでも尚縋りつく者たちの悲鳴と。
 きっと、すべてを、はっきりと、口にすることができるのだろう。
 あのぼんやりとした眸ではなく。あの夢、幻のようにふわふわとした笑みではなく。紅真に抱かれるときにだけ見せる、あの縋りつくか弱さでもなく。
 意志の込められた強い眼差しで。大地のように安定した笑みで。月のように冴え渡る、凛とした、貴きさえある孤高の強さで。
 紫苑――。大嫌いで、何よりも誰よりも欲し合っていた相手であった。
 この身を掻き毟りたいほどの憎悪と、それ以上の束縛と欲望を抱く対象であった。
 それは独り善がりではなく、互いにそうであったからこそ、心地良くも虫唾が走った。
 普段はしんと静かで何も感じない紫苑が、紅真の前でだけは泣いたり笑ったりする。ふわふわと格沿く泣くその身をゆだねる。その事に、紅真がどれほどの苛立ちと喜びを感じていたのか。紫苑は確かに知っていたはずなのに。けれど、今の紫苑はもう、そんなことは忘れてしまっていた。
 忘れてしまったというよりは、きっと、あれは紅真の知る紫苑とは別のものであるのだ。
 あまりにも強い衝撃と絶望の為に深い闇の底で眠っていた紫苑が――本当の、王家の血を引く、本物の、紫苑。
 目覚めねければよったものを。
 永遠に、眠り続けていればよかったものを。
「紫苑」
 紅真は自嘲した。それらすべてが己の希望からくる妄想であると自覚していたからだ。
 紫苑は一人だ。一人だけだ。
 あらゆる感情を殺ぎ落とした紫苑も、紅真にだけ心を開いた紫苑も、それらを捨てて歩き始めた紫苑も。
 すべて同じ一人の人間だ。
 紅真から離れ、一人で立って歩くことを選んだのは、間違いなく、紫苑自身なのだ。
 紅真よりも大切なものを見つけたのも。紅真ではなく、その何か選ぶことを決めたのも、同じ。かつて紅真のものであった、紫苑自身なのだ。
 もう一度、この手に戻すためにはどうすればいいだろうか。とにかく、まずは追い掛け続けなければなるまい。
 紅真は思う。
 紫苑はかけ続ける道を選んだ。ならばまずは追い掛け続け、その腕を捉えなければなるまい。
 今ある紫苑の世界を壊し、もう一度、紅真のいる世界を紫苑に取り戻させるのだ。あの、春の日差しのように暖かく歪んだ憎悪の世界を。
 その為ならば何でもしよう。そう。たとえ、この意思さえ殺し、陰陽連の、シュラの、飼い犬になり下がろうとも。
 紅真は決意した。
 自分の一番の欲望を立たせるために、他の全ての矜持を地に落とすことを。見上げた、晴れているのに淀んで映る藤色の青空に。










「やあ、紫苑。時間通りだな」
 シュラ様が及びだ、との伝言を受けてそこを訪れれば、彼は相変わらず、その身に布の一枚も纏わぬ女性、幾人かを己の身に凭れ掛けさせるようにして戯れさせていた。
 いつものことであるし、興味もなかったので、紫苑は眉の一つも動かさなかった。裸体の女たちの顔をいちいち覚えてはいないが、毎度毎度微妙に違って見えるので、毎度毎度、それらの女たちは別人であるのだろうなとだけ心中思った。
 呆れだとかそういったものはない。ただ純粋に、人の出入りの制限される陰陽連にあって、いったいどこからそれだけの女たちが来ては、また姿を消していくのかと、純粋に驚きと疑問を抱いただけのことだ。
「相変わらず紅真とは仲が悪いようだな」
 部下たちがどうにかしてくれと泣きついてきたぞ、と、彼は笑いを含みながら云う。心底愉快気に笑うシュラに、紫苑は何も返さない。
 基本的に紫苑は短気であったが、この陰陽連にあって激昂したことは皆無であった。故に陰陽連にあって紫苑の本質が猪突猛進であるなどと知る者はシュラくらいのものだろう。
 紫苑が激昂せずとも、紅真が先に激昂していた。
 本来、紅真は頭で考えて戦うタイプであるから、これは紅真自身が自身がそうなりたいと思う性質のそれをそうと装っている結果であった。
 紫苑と紅真。二人の仲が悪いと周囲が勘違いしている所以である。
 しかしシュラだけはそれが真実ではないと知っているはずなのだ。この抜け目のない男は、とうの昔に紫苑と紅真が互いの傷を舐め合うように触れ合う関係だと気づいている。
 シュラが知っていることを、紫苑も紅真も承知していた。しかし二人はそれを隠しているつもりもないので、特にどうとするつもりはない。それと同じ。仲が悪いと思われても、不都合などないから放って置いている。
 本当に、紫苑はどうでもいいと思っているのだ。
 紅真がそうありたいと願う姿に少しでも近づく為の、その助けになっているのであれば、他のことなどどうでもいい。
 何もなくなった紫苑に、再び人としての命を取り戻させたのは紅真なのだから。だから、そのために在れれば、あとはもうどうでもいいのだ。それさえあれば、他は取るに足りないことでしかない。
 それを滑稽だと笑うものがいたとして、互いに空虚な何かを互いが満たし合うのであれば、それで構わぬではないか、と紫苑は思っているし、それを疑ってもいなかった。
 シュラは女たちを下がらせることはしない。まるでそんな存在などないかのように、紫苑へは話題を振る。
 紫苑も動じない。女たちも、紫苑をないもののようにして、シュラへの奉仕をやめはしない。
「しかし、奴らが泣くのもすぐに収まるだろう」
 シュラが肩を竦め、初めて紫苑が反応らしきものを返した。その細い肩が小さく、不愉快さに揺れたことを、シュラは見逃さない。
 にやりと含み嗤ったシュラに気づいたが、紫苑は今度は不愉快に顰めそうになる表情をどうにか抑え込んで無表情を保った。
 もっとも、シュラは紫苑のそういった葛藤さえ正しく捉えて愉しんでいるのに違いなかったが。
「お前ら二人の強さは充分だったが、年齢的にもそろそろ一人でいいだろうと思ってな」
 嬉しいだろう?
 シュラが小首を傾げる仕草をした。業とらしいそれを、シュラが狙ってしているのを紫苑は知っている。
 それでも紫苑は眉の一つも動かさない。
「それぞれが拠点とする支部を分けてやろう。これで、馬の合わない相手と顔を突き合わせる必要もなくなるぞ」
 紅真も、お前も、もう慣れ合いの修行をしているばかりでは、今以上の高みを目指すこともできそうにないしな。
 どくり、と心臓を直接殴れら多様な衝撃を紫苑は感じた。紅真の野望の為に、紫苑はもう、足手纏いだとでもいうのか。
 紫苑はぎりりと奥歯を噛み締めたい衝動に駆られた。拳を握って耐えれば腕が震えてしまうのでそれも諦めた。
「ところで、紫苑」
 ああ、やっと本題か、と紫苑はふっと体の力を抜き、内心肩を竦める。シュラはいつだって、相手の内面を見透かしたような揶揄(からか)いを仕掛けては、その反応を楽しむ悪癖を持っていた。
 漸く、今日のそれが終わったのだろう。紫苑も紅真も慣れたものであったが、その反応を愉しまれていい気はしない。特に今回のそれは、余りにも性質が悪かった。
「今回のお前の任務は……」
 なるほど、と紫苑は舌打ちした。これとて内心のことで、表に出してはただシュラを睨みつけるにとどまった。
 おそらく、これはすべてシュラという男の計算なのだ。あの男にはそういった悪趣味な面がある。
 紫苑はそれを正しく理解し、しかしだからなんなのだと思う。別にそんなことは構わぬのだ。
 欺くことこそ、陰陽連の極意也――。
 彼と戦い続ける。彼の為の壁であり続ける。そう在り続けるためには、彼の敵であればいいのだ。
 どうしてもっと早くに気がつかなかったのか。味方でいるよりも、そちらの方がずっと彼の助けになるではないか。
 いったいいつから計画していたのか――。
 紫苑は舌打った。そんなものは『初めから』に決まっている。シュラという男はそういう男だ。
「紅真……」
 紫苑はそっとその名を声に出す。
 誰にも、そう、それが仮令紅真自身であったとしても、決して渡しはしない。
 揺るがぬ決意が胸の内で静かに、しかし激しく燃え盛っているのを感じていた。
「お前は、俺だけ見ていればいい」
 紫苑の呟きは遠く彼方へ流され、その瞳の色は未だ、曇り空のように暗い藤色で揺れていた。














 誰が駒鳥殺したの?
 それはあなたと誰かが言った。
 あなたの愛で、あなたが殺した。
 かわいいかわいい、愛しい小鳥。
 かわいいかわいい、恋しき小鳥。
 かわいいかわいい、籠の鳥。
 籠の中でも幸せに、囀り鳴いてたあなたの小鳥。
 食うのも忘れてあなたを見つめ、寝るのも忘れてあんたを呼んで。
 あなたの愛に、やがてはころんと殺された。














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 書いててすっげー楽しかった(自分が)。ただそれだけ。ご意見ご感想お待ちしております。 2008/02/23-24 ゆうひ。
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