[眠くなる3つのお題 退屈からの脱却]

 紅真は退屈だった。とにかく退屈だった。何をしていても退屈であった。嫌いなことをしていても、好きなことをしていても。とにかく退屈であった。
 彼はおおよそ、その人生を謳歌してきた中で心から楽しいと感じたことなどなかった。それなりに暇を潰して、日々を過ごしてきたといっても過言ではない。
 彼は彼が生まれた村のことなど覚えてはいなかった。どうせ小さなありきたりな、貧しい村だったろう。彼はそう思った。
 父親のことも、母親のことも知らなかった。兄弟がいるのかどうかさえ知らなかったが、何一つ気にはならなかった。
 否、気にならなかったというよりも、知ったところでどうにもなりはしないと思っていた。
 彼に父や母がいないはずもあるまいが、それがどこの誰であるのかを正確に突き止めることなど、彼は不可能であると考えており、それは概ね正しかった。彼はたいていのことは自分でできたが、それを誰に教わったかなどは良く覚えていなかった。生まれた頃より一人で生きていけたはずもないから、きっと彼の傍には誰かがいたはずであるが、彼はそれを突きとめることも不可能に近いと感じており、やはりそれも概ね正しかった。
 生きている限り、彼は彼が必要とする数々のことを覚え、身に付けてゆくのだろう。そうして、彼は知らず知らずのうちに己の師を増やしていくのだ。彼はその師の一つ一つにいちいち感謝の念を抱くことは酷く面倒だと感じた。彼にとって必要なのは身につけたものであって、それを身に着けるために必要としたものではない。だから彼は忘れるし、思い出そうともしない。忘れたことは彼にとって必要のないことだと思うので、思い出す努力もしない。
 彼はそうやって流れもののように生きてきて、陰陽連に辿り着いた。そこに彼は、これまでの彼にしては随分と長いこと身を置くことになるが、これは彼にとっても意外なことだった。意外なことであったが、だからといって不愉快であるかと云えば、彼は別に自分がどういう生き方をする人間であるという制約を己に課しているわけでもないので、特に問題などないのであった。
 或いは。そう、或いは、彼の記憶は意図的に消されているのかもしれない。紅真は時に思う。
 陰陽連とはそういう組織だと、紅真は知っていた。
 例えば紅真はどこあの村だとか、国だとかで生まれ、父や母や兄弟に愛されていたとする。陰陽連はそれを滅して偶然生き残っただけの紅真を攫い刺客に育て上げる。例えば、紅真は初めから、陰陽連にとっての手駒となるべく、陰陽連の内部で生まれさせられ、育て上げられた。
 紅真は時に考える。陰陽連が、そういう組織だと知っていた。しかし、それらはすべて紅真の想像でしかなく、やはり紅真には知る術がなかった。
 一つだけ、現在の紅真にとって間違いのないことがある。彼はそこで夢中になれるものを見つけた。そのことだ。
 それは彼にとって喜ばしいことであると同時に、酷く苛立たしいことであった。
 それまで何かに心奪われたことのない紅真にとって、何かが最も優れていなければならないなどという観念はなかった。いっそ脅迫にも近いその観念は、そうあれない自分自身に対する苛立ちを紅真に齎す。
 紅真の退屈とは、即ち思いのままにならぬことであったやもしれない。
 彼はこれまで何一つ、己の思いのままになったことなどなかったが、逆に己の思いのままにならなかったこともなかった。彼には何もなく、故に彼はこの世が退屈であるなどとさえ思わなかった。それは同時に楽しみもなかったことであるという、その事に気づいてしまったことが、彼に一層退屈であるという感情を齎していた。
 楽しくないことは、即ち己の退屈なのである。
 そうして彼は方術士となり、その鍛錬をすることはどうやらそこそこ退屈を紛らわせるようだと気がついた。けれどそれはあくまでも紛らわせてくれるだけで、彼が退屈であるということには一向に変化がなかった。
 ある日、紅真はシュラという名の上司に連れらら、居所を変えられた。そこで引き合わされた少年を見て、紅真はどうにもぼんやりした人間がいたものだ、と思ったものだ。引き合わされた少年が、紫苑であった。
 ぼんやりして見えた少年はやはりぼんやりしているらしく、紫苑は本人の預かり知らぬところでかなり有名な笑い草であった。陰陽連にあって間抜の代名詞と云えば彼である。
 曰く、彼は亡国の王子であり、その国を滅ぼしたのこそ陰陽連である。しかし悲劇の皇子はそんなことには気づきもせずに、せっせと陰陽連の為に働いている。平和への道と信じながら、その真逆の混沌へと直走り――。
 紅真は笑わなかった。紅真は人を見下すことも馬鹿にすることにも憤りを感じるような人間ではなかったから、その事に軽蔑したわけでも、まして紫苑に同情したわけでは当然ない。彼は人をあざける恋を悪いことだとは感じたことはないし、当然のことだと思っているが、馬鹿が馬鹿を馬鹿にする様を見るのは酷く不愉快に感じる性質であった。
 おかしさよりもその事についての不快感の方が上回ったから、彼は紫苑の境遇を笑わなかった。
 しかし紅真とてそれがおかしいことだと感じるにかわりはない。何も知らずに動く人形の様な少年を見るのは、その滑稽さが酷く愉快であった。愉快ではあったが、余りの滑稽ぶりに苛立たしいのも事実であった。彼は常に怒りや苛立ちにさいなまれているようであった。
 ふわふわとした、春の日差しに暖められた空気のような中で生きてきたのだろう。容易に想像ができたそれに、ほんの少しだけ手をかけてみたくなった。彼が、本当は求めてやまないだろう温もりを与えてやったなら、彼は一体どんな反応を返すのだろうか。一体、彼はどうなってしまうのだろうか。
 陰陽連の構成員は人間で、人間は基本t系に夜行性ではないので夜に寝る。時に例外は存在するが、紅真も紫苑も夜には睡眠をとるのが基本であった。
 個人主義者の集まった陰陽連で、寄り添い合って眠るものは多くない。体を重ね合う人間が少ないわけではないが、寄り添い合うにんげはとかく少なかった。紅真はその少数派になってみた。紫苑をその少数派にしてみた。
 それは思いのほか気持ち良かった。
 この行為は見事に彼の思惑通りとなり、彼の思惑を見事に外した。溺れたのは彼だ。
 気がつけば、紅真は夜が愉しみになっていた。夜、寝るその時にだけ、紅真の退屈は完全に紅真から去り、紅真は紫苑を抱いて眠るときにだけ、退屈から解き放立れる。
 夜にだけ、彼は安らぎを得る。
 しかしそれはある日突然紅真の腕からすり抜け、在らぬ場所へと去ってしまった。
 初め、紅真はどうとも感じなかった。退屈しのぎが失くなった。それだけのことだと感じ、それを残念ことだとさえ思わなかった。
 それがどうしたことだろう。日ごとに増す苛立ちと、それが静まらぬ事と――本当は徒唯落ち着かぬ故の――焦燥に駆られ、紅真は居ても立ってもいられない。
 ただ退屈な日常から脱却するための――それは本当に、ただの暇潰しでしかなった筈なのに――。
 紅真は愕然とした。なんと、それは暇潰しなどという安易な、些細な、どうでもいい戯れなどではなくて。なんと、それは受け入れ難い真実から己の心を守るための現実逃避であったのだ。
 現実逃避――。
 そんなものは弱い人間のすることであると、紅真はそれまで思っていた。そして紅真は己が心弱い人間では決してないと信じていた。紅真自身気づかなかったが、それは紅真が知らず知らずのうちに、己に課した己の在りようであった。
 紅真は考えた。彼は一見するとあまり考えずに感情のままに行動するような人間に見えるが、そこに至るまでに幾千の思考を重ねている。閃きで行動することの方が稀であるが、思考はまさしく閃きから始まる彼であった。
 そこにないことが許せぬのであれば、追い掛けて追いかけて追いかけ抜いて、再び掴むしかないではないか。掴んだ後にではどうするのか。ないことが許せぬのだからとどめ置くしかない。
 陰陽連は組織であったが、潜んでいる割にはそれほど厳格ではなかった。
 力あるものが上に立ち、上に立つ者に従う。それさえ守れればあとは概ね自由が認められている。まして今の紫苑は反逆者だ。敵になった。敵に対しては何をしても許される――それもまた、陰陽連の真実であった。




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支離滅裂。アンケートで現在一位の紅真×紫苑を更新しようと頑張ってみました。
written by ゆうひ 2008.03.22