[眠くなる3つのお題 満腹子守唄【ララバイ】] 紫苑はおよそ死にそうなほどの、という空腹を味わったことがない。 彼の生まれた国が健在である頃は、彼は国中の誰よりも恵まれていた。彼が空腹であるということは、彼の国中が空腹であるということだ。 彼の国が滅亡したのちは、彼は空腹を感じる間もなく陰陽連によって拾われた。そこで彼が食べることに困ったことは一度もなかった。 長期の任務に出向くとき、陰陽連では干し肉などの形態色が装備の一つとして支給される。しかし基本は現地調達であり、彼が獲物を見つけることが出来ない、もしくは逃したなどいうことは、一度としてなかった。 しかし彼が満たされなかったことがあるのかと云えば、それはあったのだ。 彼の生まれた国が健在である頃、彼は父を尊敬し、母を愛し、国を大切に思っていた。しかしそれらはすべて彼が手を伸ばせば彼が求めるように彼に与えてくれるものではなく、彼は手を伸ばす都度に空虚を覚えた。 父と母は忙しく、国と彼の間には布一枚の隔たりが常に存在してた。彼が国に直接触れたいと願っても、それが叶えられることは、結局、一度としてなかった。 彼の国が滅亡したと同時、彼は何もかもを失った。己と、その抱える思い出以外の何もかもを失った。すぐさま陰陽に拾われて、しかし彼の虚ろが埋められることはなかった。 長期任務に赴き、彼は彼の生まれた国と同じような国を幾つか潰し、しかし何も感じなかった。何も感じないその事に、彼は益々空ろを感じた。 それが埋められたのは彼が陰陽連に身を置くようになって暫くした頃だ。彼を拾った男――シュラ――が、ある日、彼と年恰好の似通った少年を一人、彼の前に連れてきた。 黒髪に赤い瞳の少年を紅真といった。紫苑は彼のその瞳の鋭さに首を傾げた。 何もかもを失った紫苑にとって、紅真のように眼光鋭く何かを思うほどの情熱などというものは、ついぞ無縁となって久しかったからだ。――そもそも、紫苑にはそれほどの熱意を持って何かを為したことがなかった。 紫苑は紅真と特別親しくなりたいとは思わなかった。親しくなったならそれはそれで構わぬし、ならぬのならばそれはそれでよかった。陰陽連という組織を構成する個々は、共通の目的だけを共有し、そうでなければとことん個人主義であったからだ。そして、紅真に出会った頃には、紫苑もまったくその一員であった。 だから、紅真が紫苑に対して兎角邪険な態度をとろうとも、紫苑は何も感じなかった。少なくとも、紫苑は何を感じているとも思わなかった。彼の虚ろは、いつものことであったから、それが少しばかり広がろうが深まろうが、彼自身にさえ分からぬことであったのだ。 紫苑にとって、それは突然のことで、紫苑にとって、それはおそらく永遠の謎であり続けるだろう。先に紫苑を抱きしめてきたのは紅真であり、紫苑には紅真の気持ちなど永遠に分からないのだから。 けれど紫苑はその謎が謎のままであることを、それで構わないと思っていた。彼はおよそ誰かの気持ちを慮るということを、教わったことがなかったから。だから紫苑が紅真の気持ちの欠片も汲み取ることは出来ぬし――だってそもそもそんな概念がない――、紅真もまた、紫苑の気持ちの一端さえうかがうつもりがない。 彼らはどこまでも自分本位であり、けれど誰も、彼ら自身でさえ、その事に何を感じたこともなかった。 自分が何を思い、何を為し、そうしてその結果として相手がどのようなリアクションを取るのか。そのアクションに対して自分は何を返すのか。すべてはそれが起こる都度に考え為されればいいことであって、そうする以前に、或いはそうしたのちに、それによって己が、或いは相手が何を感じたかなどというものはどうでもいいことであった。不要であったのだ。なぜなら、為したいと願ったsれを現実に叶えるために必要なのは力であり、力のあるものの願いが現実になる。それが己の願いであるのか、相手の願いであるのかはただの力量の差でしかなく、例えば誰かの気持ちを慮って己の願いを諦めることさえ、その力量でしかないのだ。 だから紫苑は紅真がある日突然そうしてきたことに対し、驚きはしたが嫌ではなく――むしろ日を追うごとにそれはなんともいえない幸福を紫苑に与えたので、紅真がそうすることを許容した。やがて自らも求めるほどに。 それは夜のことだ。夜にだけ、彼らは身を寄せ合い二人一緒になって眠る。 それは夜だけのことだ。月からも、星からも隠れて、彼らは身を寄せ合う。 その温もりも安らぎも、すべては夜にだけあるものだ。光でも影でもない、夜にだけあるのだ。 相手の背に腕を回し、相手の胸に頬を寄せ、満ち足りるという幸福に酔う。己の、相手の心音さえ響くほどに、あらゆる全ての外殻を遮断して、彼らは二人だけになる。夜にだけ、彼らは互い二人だけになる。 だから紫苑は夜が好きだった。月灯かりよりも星の煌めきよりも、さざめく静寂でもなくて、徒、夜が待ち遠しかった。夜が続くのならば、太陽など昇らなくてもいいとさえ思って眠りついた日々だって少なくはない。 けれどふと思ったのだ。或る少女の笑みに触れた折、彼が自分の生まれた国のことを唐突に思い出せさせられ時に。ふと、彼の脳裏を――喩えるならば悪魔の囁きとでも呼ぶべきもの――が掠めた。 朝も昼も夜も、それに触れていられたら、それはどんなに幸福なのだろう。 朝の日差しは美しく、柔らかかったが、それを目にすることは、紫苑にとって夜の終わりを告げられることであり、傍らにあった紅真の温もりが消えていることの証であった。昼の陽光は眩しく、何より暖かったが、人の温もりとは比べようもないほど、紫苑にとっては虚しいものであった。 その温もりに勝るものはなく。 その安らぎに勝るものもない。 けれどそれは限られたほんの少しの時間だけに得ることができるもので、あるはだからこそ価値があるのかとの考えが脳裏を過ぎらないでもなかったが、紫苑はすぐさま、そんなことはないと神がかった確信を持って否定する。たとえそれが常に与えられるものになったとしても、その価値は欠片も損なわれることがなく、その幸福は増すばかりである筈だ、と。 そしてそれは正しく、紫苑はその事については全く間違っていたなどとは思っていない。もし間違っていることがあったとしたならば。――仮に、紫苑の行為に罪と呼べるものが存在するのであれば、それは、脳裏を掠めた貪欲であり、その行為に間違いがあったのであるとするならば、それは、手段であった。 欲深いことは人にとって美しいことではないのが多数意見だが、それが罪であるかどうかは微妙だ。紫苑を含め、誰もが自分の求める欲望の為に己を高め、身も心も強く成長した。だから、紫苑に間違いがあったのだとすれば、それは罪を犯したことではなく、結果を得るために用いることにした手段でしかありえない。 彼は、陰陽連を――紅真のそばを――離れるべきではなかったのだ。 喩えるならば、紫苑はその当時、幸せでお腹が一杯状態だった。紅真のその腕に抱かれ、その体に身を寄せ、その温もりに寄り添って眠ることが、つまりはそれほどのものであったのだとは、彼は失って初めて知ることで、当時、彼はそれが何より貴く掛け替えのないものであるとは既に理解し得ていたが、それが失われる可能性については微塵も考えていなかった。 彼は生れてからこれまで、与えられなかったことがなかったので――それが彼の望む形であるかどうかは別として――、結局、彼は傲慢であった。つまり、彼は生れてこの方、死ぬほどの空腹というものを味わったことがなかった。だから、満腹であるということの幸せにについても、知らなかったのだ。 知り、彼は耐えることを強いられた。 会えない現実に我慢が出来ず、会いたい思いが溢れ出し、何度邪馬台国を滅ぼしてしまうかと思ったことだろう。けれど、紫苑は会えないことにも、会いたい思いもにも、邪馬台国を滅ぼし陰陽連に戻りたい衝動にも、何もかもに、耐えている。 だって、邪馬台国にいれば、紅真は紫苑に会いに来てくれるのだ。 朝でも、昼でも、夜でも。どこにいても。 紅真が、紫苑を追い掛けて来てくれる。 だから、紫苑は暗く影を作る微笑が美しくうつるほどの幸福で、あらゆる餓えにも渇望にも耐えて、やがて手にすると誓った己の至福を掴む日を狙っているのだ。 |
back 先に書いたのはこれ。短い予定で拍手にしようと思ったら、拍手にするにはきつい長さになりました(いつものこと)。 written by ゆうひ 2008.03.22 |