[眠くなる3つのお題 春色陽光【はるいろひかり】]

 在る一定の年齢に達した頃、二人は自分たちがおよそ平穏などというものとは一切無縁な一生を送るだろうと、漠然と感じていた。
「これはどういうことだ、紫苑!!」
 襟首を掴まれ烈しい怒りをぶつけられながら、しかし紫苑は動じなかった。どうもこうない、見たままだ、というのが、彼の心情である。
 春とはなんと気紛れな季節であることだろう。遂この間までの冬の寒さが嘘のように暖かい――冬の冷たさに慣れたその身には聊か暑いとさえ思わせる――日差しを注ぐかと思えば、また冷たい雨で空気を冷ましては生き物を凍えさせる。ときに吹く強風は、まるで晴れた嵐であった。
 そんな春であるから、人の心は強くも弱くもなり忙しない。
 しかし紫苑は変わらなかった。ときにふわりと笑う様(さま)に少女が喜ぼうと、その強さに兵士たちが騒がしかろうと、春の日差しが伸びるのも、雨が降り一日が暗く沈むのも、春が春であるのに変わらぬように、紫苑はあの頃から――彼が陰陽連を裏切ったその頃から、彼が彼である最も根本的な事は何一つとして変わりなかった。
「紫苑君…。どうして……」
 呟く壱与の瞳には戸惑いが見て取れた。紫苑は壱与に対して敬意を持っていた。故に答えた。それが彼なりの誠意であった。
「欲しているから」
 辺りが息を呑み、ざわめきが波紋のように広がるのを感じた。しかし紫苑は動じない。邪馬台国、ひいては邪馬台連合国中すべてのものが怒りにまかせて紫苑に向かってきたとして、紫苑にはそれらすべてを皆殺しにして生き残れる自信があり、その力量は彼の驕りではなかった。
「…それは、どういう意味、なの?」
 紫苑は言葉が足らない。それは本人も自覚し、周囲も承知していたことだ。だからこそ、壱与は再度問いを重ねた。或いは自らが抱く疑念が、彼の言葉の不足による勘違いであれと願いながら。
 紫苑は正しくそれを理解した。彼は他人の気持ちを慮るという行為がいかに役に立つものであるのかを、ここ最近になって学んだ。だからとって彼がそれで嘘や誤魔化しを与えてくれるかと云えば、それは全くなかった。
 彼はやはりどこまでも――良く云えば、正直ものであった。
「国も民も、父や母さえ、どうでもいいんだ」
 紫苑にとって、それらはすでに遠い過去のことであった。思い出せば心は痛むが、しかし痛むだけのものと成り果てた。それによって紫苑の心は欠片の安らぎも得られない。
「俺の帰るところは、――帰りたいところは、別にある」
 それが即ち先程の光景であるのだと、紫苑は言外に語っていた。
 先程の光景――即ち、ことの発端となった出来事であった。
 今日は春の日差しが本当に柔らかく、それは彼とともに寝ていた夜の温もりのようだと錯覚するほどであった。そんなものにさえ錯覚を覚えるほどに、紫苑は飢えていた。
 そんな折である。紫苑は彼に出会ってしまった。何のこともない。戦場(いくさば)でもなければ女王の護衛中でさえない。まったく紫苑の自由となっていた、ありふれた日常の中で。
 それは夢にまで見たことであった。それほどまでに焦がれたことであった。
 夜に限らず。
 月からも星からも隠れることもなく。
 朝陽の覗くまでなどという期限付きなどではなくて。
 朝も昼も夜も。春も夏も秋も、冬であろうとも。
 月の下でも星の中でも、それこそ太陽の輝くところでだって!
 ――彼に、紅真に寄り添い眠れたらいいのに……。
 誘惑には勝てず、紫苑は紅真の手を取ってみた。紅真はいつものように紫苑に勝負を移動元はせず、それどころかかつての夜にそうしてきたように、紫苑の体を引き寄せた。紫苑は驚き、そして歓喜した。うっとりとその身を寄せた。
 温かいの春の日差しか、或いは紅真の体温であるのか。それさえ分からぬほどに陶酔していた。
 そうしていた時間が実際にはどれほどのものであったのか、紫苑には正確なところなど分からぬ。とにかくその夢見心地な世界は、邪馬台国のとある兵士――紫苑は未だに彼らの顔と名前を一致させることが出来ずにいた――が、それを見つけて大声を出して騒ぎ出したことによって破かれた。
 はたと気づき、紫苑が我に返ったときには、紅真の姿はすでに遠く彼方であり、紫苑は全く追い掛けるタイミングを逃してしまっていた。声を上げた兵士を八つ裂きにしてしまいたいほどの憎悪が胎(はら)の内から燻ぶりを上げていたが、その兵士にとっては幸いなことに、紫苑は紅真を失ったことに未だ茫然としていた為に、その体も意識も上手くは動かなかった。
 容易く襟首を掴まれ、未だその状態に甘んじているのもそのためだ。流石に、もう常の精神状態を取り戻してはいたが、彼らの怒りは紫苑にしてみれば理不尽だが彼らにしてみれば至極当然だとも思ったので、好きなようにさせていた。
 今のところ、紫苑にとってその行為は害になってはいなかったので。
「てめぇ!! 壱与様の言葉を聞いてなかったのか!!!」
 逆上したかのように怒鳴る兵士を一瞥し、紫苑はやはりその名が出てこないなと溜息をついた。それは諦めの溜息であった。
 壱与にならばまだ分からぬが、少なくとも今の状態にある他の者に、紫苑がどれほど言葉を尽くしたとて、きっと、伝わりはし得ないだろう、と。そもそも、邪馬台連合国の人間に、紫苑は自分の気持ちが伝わるとは端から思ってはいなかった。理解し合おうなどと、思ったことがない。
 紫苑と彼らの境遇の違いなど、それほど大差ない。紫苑が国を失ったように、彼らもまた故郷を失い、紫苑が両親を失ったように、彼らも肉親を失った。そしてその果てに、拠るべきところを見つけ、戦うことを選んだ。
 彼らの拠り所は邪馬台国であり――もっとも、紫苑はそれよりも壱与であろうと思っており、おそらくそれは正しかった。邪馬台国の人間でそうと気づいているものは皆無であったが――紫苑の拠り所は紅真であった。違いはそれだけのことだ。けれどそれが決定的なのだ。紫苑と彼らは永遠に理解し得ない。
 壱与の言葉は確かに紫苑の心に届いていた。しかし、紫苑の意見は壱与とは異なった。紫苑は帰る場所を失った。一度、故郷を失った。けれど、彼はもうすでに、心の拠り所を別に見つけてしまっていたのだ。
 紫苑には帰りたいと願う場所がある。
 人は一人では生きられず、帰る場所失うことは身を裂かれるに等しき痛みを感じ、けれどそれは乗り越えられないほどのものではないと紫苑は思っていた。現に、壱与もレンザもヤマジも、その他の人々も、皆、そうして乗り越えて生きている。
 傷跡は生々しく、見れば痛みがよみがえり、虚ろな心が時に甦る。けれどそれをふさぐことは可能なのだと、紫苑は知っていた。少なくとも、紫苑はそう信じていた。
 これからどうなるのか、紫苑には分からない。それは紫苑ではなく、紫苑を今取り囲んでいる彼らにかかっているのだ。
 彼らが紫苑を害そうとすれば、紫苑は容易く害されるつもりがないので抵抗する。或いは邪馬台国が今度こそ滅びるかもしれない。彼らが紫苑を理解できないまでも、彼が敵と通じたスパイではないと判断し、それまで通り付き合うというのであれば、紫苑もまたそうするだろう。紫苑を害さないまでも危険視して幽閉でもすることになれば、紫苑は後(のち)にそこを抜け出すだろう。紫苑には特に邪馬台国を滅ぼす気はないので、見張りの一人や二人、命を落として済むかもしれない。
 紫苑はそうとは知れぬように溜息をついた。
 やはり駄目だなと思う。
 やはり駄目なのだ。
 春の日差し程度では、彼のぬくもりには到底比べるべくもない。否、他の何ものであろうと、比べられるものなどないのだ。それに代えられるものなど、存在し得ない。
 そのぬくもりと寄り添い合う。えもいわれぬ心地良さにまどろむ日は、まだ遠い。




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お題は自給自足です。使ってみたい方がいましたらどうぞご自由に。
written by ゆうひ 2008.03.22