あれがあたたらやま

 男たちの鍛錬に励む声が蒼穹に飲み込まれていく。空は高く、光っていた。
 ハッ!!
 気合いと共に刃が付き出される。繰り出される邪馬台槍術。兵たちの喚声が周囲を包んだ。
「さっすが、壱与様!!」
「ああ、すげぇぜ!! 壱与様にかかれば俺たちなんて瞬殺だぜ!」
 わいわいと興奮したざわめきは、誇らしさと喜びを内包している。語りあう兵士たちの晴れ晴れとした表情は、この空のように清々しく、しかし何故だろう。空の雄大さとは真逆に、見る者にとってどことなく情けなさを与えてくるのは。
 否、ああるは情けなさと不安を感じるのは自分だけなのだろうか――。思い到り顔を顰めたのは、紫苑だった。
(守る側が、守るべき対象よりも弱くてどうする――)
 声に出して突っ込んだところで「だってなぁ…」などと流されて終わるに決まっていたので、紫苑は声にしなかった。この国の兵たちは、良くも悪くものんびりとし過ぎているように紫苑には感じられ、時にそれがひどくもどかしい。もっと危機感を持てないのかと、漏れる溜息を抑えることだけはできそうになかった。
「壱与様ーー!!」
 ああ、今日もまた――。
 次に青空に響き渡った息せききった声に、紫苑は兵たちの完成へ向けた呆れの変わり、今度は心底同情を向けた。
 邪馬台国第二代女王壱与。彼女の政(まつりごと)における師は二人いる。一人は今は亡き先代の女王卑弥呼。そして、もう一人が子の悲壮感漂う声の主――ナシメであった。
 実務面においては未だ幼く未熟な女王を、欲もなくひたすら助けるその献身さを、紫苑は秘かに尊敬していた。欲を出せば――。彼が、欲を出したならば、壱与など傀儡として、彼の思うがまま、政を履かれるというのに。
 師であるにも関わらず、彼はそれを出さずにひたすら補佐であり続ける。内外どちらに対しても、彼はあくまでも壱与の補佐。経験豊富な、けれどどこか頼りなさを印象させる男。
「あれほど危険なことはおやめくださいと――!!」
「ああ、はいはい」
 ごめん、わかってるってば、ナシメ。
 可哀想なくらい必死なナシメに、壱与の返事はどこか御座形だ。ナシメは壱与が槍を振るうをことを好ましく思っていないことは、邪馬台国にいる誰もが良く知るところである。そして、本来は活発にあることを好む壱与がそれにうんざりとしていることも。
 より正確にいうのであれば、ナシメは危惧しているのだ。壱与自らが刃を携え前線に出ることにより、その命の危険が増すのではないかと。そして壱与はよいえば、自ら先頭に立って歩かなければ気が済まない性質をしている。危険を人に押し付けてじっとしていられるほど、彼女はまだ大人ではない。
 だからナシメは泣いて頼む。「はいはい」と返事をしながら、壱与が宮殿に向かって歩いていく。その背をナシメが追いかけていく。
 紫苑はいつもと同じ、それを見送る。
 がやがやとした兵たちのざわめきが彼の耳に入る。それが何を話しているものなのかまで、彼は聞き取ろうとはしなかった。興味もなかったし、ある程度の想像もつくから。
 寄りかかっていた壁から背を話し、一歩を踏み出す。あまりにも危機感の薄いだらけきったその性根を、鍛えてやる為に。





 空は相変わらず高く澄んでいた。ここ最近はずっと天候に恵まれている。もう数十日も過ごせば、雨の季節がくる。そして太陽が近くなる。
 束の間の、爽やかな風の季節。
「はあ……」
「溜息なら、ナシメのほうがつきたいだろうにな」
 釣竿を前にしゃがみ込んだ壱与の背後から、からからと笑う声が響いた。彼がこんな風に笑うのも珍しいなと、壱与は頬を膨らませ振り返りながらも思う。
 どれほどからであったろうか。彼の笑顔が珍しいものでなくなったのは。
 無邪気な笑いなんて似合わないから、別にそれはいいのだと、壱与は思う。きっと、彼と接する機会の多い邪馬台国兵士たちに聞いても同様の意見だろう。彼らであれば、むしろそんな風な笑顔を見た日には、何が起こるか分からないからしてくれるなとさえいうかもしれない。
 明るい笑い声に、影と皮肉と自嘲が抜けないのは、彼が過去を後悔し続けている証。そしてそれは、決して、他人がどうこう言っていいことではないのだ。
 過去。彼の暖かな記憶と苦い記憶。忘れろ、気にするな、そんなことを、彼は望んでいない。望んでいないものを、容易く他人が口にしていいはずもない。
「何よ、紫苑君もナシメの味方をするの?」
「ことこの件に関しては、俺は初めからナシメの味方だったさ」
「ああ、そうですね〜」
 ふてくされて唇を尖らせる壱与の仕草に、紫苑がまた笑い声を上げた。
「……紫苑君は、どう思う?」
「何がだ」
 既に紫苑はナシメの味方であると答えは出ている。だから壱与の質問がそれでないことは紫苑にも理解できたが、では壱与が本当は何について意見を求めているのか、紫苑は分からない。
「……女の子が、剣を持って戦うこと」
 壱与の云いたい事は分かった。分かった上で、紫苑は答えた。
「おまえが持つのは槍だろう」
「そうじゃなくて!」
 首を傾げて訊ねている。その姿を見なくとも、紫苑の仕草が容易に想像できた壱与は、紫苑の天然ボケぶりに思わず背後に振り返る。体ごと振り返り仰いだ先にあったのは、してやったりとばかりに笑みを作った、幻のように美しい顔(かんばせ)。壱与は思わず見惚れていた。ああ、なんて小憎たらしいのだろう。
 壱与が何も言葉を発しないのをどう取ったのか。紫苑は「だって――」と、口を開いた。
「だって、女が戦うことなんて、珍しくもないだろう。というか、当たり前のことだろ」
 やはり、紫苑は首を傾げて壱与に問い掛ける。壱与ははっとして我に返った。
「えっ?」
「そんなの、今更だろう。ナシメが怒鳴るのは、お前の身を案じてのことで、お前が女だからじゃないだろ」
 その身を案じるのは、彼女が女王であるからだ。大切なだけの少女であるならば、おそらくあの温厚な男は少女が槍を振るっての腹を駆けまわることをやめさせたりなどしないのではないのだろうか。はらはらと心配しながら、それでもその輝くような笑みに、にこにこと笑うのではないだろうか。
「ヤマジもレンザいも、他の遣るらも、女子供だからと手を抜いたことなどないだろう。一度剣を取り、立ち向かってくることを決めたのなら、」
 ――年齢も性別も関係ない。考慮されるべきことにはならない。
「えっ、だって、そんな――」
 だって、いつ、戦ったことがあるって云うの?
 壱与の言葉にならない疑問に、紫苑は呆れたように眉を顰めてみせた。
「陰陽連の暗殺部隊には女子供も多い。――なんだ、壱与。おまえ、」
 ――気づかなかったのか?
「そういえば、紅真も女だぞ」
 俺と同じ年だから、お前よりも年下だしな、壱与。
 紫苑の言葉に、壱与はただただ目を見開くばかり。胸中、絶叫したい思い出はあったが。
  ――気づかなかったわよ。
 何一つ、言葉にはならなかった。





 空は蒼い筈なのに、粉塵の為にその青さは窺がえない。高い空。高い空に高く上っていく硝煙。
 彼――彼女が女性だと知れてから、壱与は一人勝手に、彼女との距離がぐっと身近になったような感じを持っていた。理由は分かっている。彼女らは同じ、戦いに身を置き、自ら戦うことを選んだ女――。
 あまりにも些細な理由だ。むしろそんなものは接点ですらないと呆れられてしまうかもしれないと、壱与は苦笑する。
(でも、しょうがないじゃない)
 なぜなら、それが彼女の目指す理念でもあるのだからと、彼女は誰にともなく言い訳をする。
(だって、仕方ないじゃない)
 たった一つ。ほんの少し。些細な共通項でいい。そのささやかな共通点によって、その他の異(こと)にするあらゆるすべて無視して、手を取り合う。
 それは理想だと誰が言おうが。
 それは無理だとすべてに突き付けられようが。
(だって、私はそれを目指してる)
 その為に、彼女は戦うことの覚悟を固め、現実に戦いに身を置き、今もまた、戦い続けている。歩く都度に。
「ねぇ、ちょっと! ああ、もう!! ちょっとは人の話を聞いてくれてもいいじゃない!!」
 槍を振るう。赤い瞳の彼女は身軽にそれを避ける。
「ごちゃごちゃとうるせぇよ!! 話す必要なんかあるわけねぇだろ」
「必要なんかなくても話したいのよ! だいたい、どうして私を狙うのよ!!」
 昔は紫苑ばかりを追い掛けていたはずなのに、最近の彼女ははっきりと壱与に狙いを定めている。それこそ、紫苑が壱与のもとへと近づけないように別の人間と――本来、彼女が単独行動を好むのだとの情報は、もちろん紫苑からである――組んでまで!!
「うるせえって云ってるだろうが! てめぇを狙うのに特別な理由なんてあるか!! 任務だからだ!!」
「嘘!」
「!」
 壱与の言葉に、紅真の動きが止まる。壱与には自分の言葉が紅真にどれほどの衝撃を与えることができたのかなど分からない。或いは何も与えられていないのかさえ、分からない。
 けれどそれは特別なことではない。相手が紅真ではなくとも、彼女はいつだって、自分の言葉がどれほどの効果を他人に与えているのかなど測ることができなかった。いつこの声を、言葉を、命を奪われるとも知れぬ中で、それでもひたすらに紡いだ言葉。その中で学んだこと。間を開けてはならない。言葉を紡ぐことのできる瞬間を逃してはならない。たとえ一音でも多くの声を音として空気を震わせ、少しでも多くの思いを言葉にしなければ、そこで何もかもが終わる。彼女の真の武器は槍ではなく、理想と、新年と、それを表現する言葉なのだから。
「陰陽連は神威力を狙ってる。邪馬台連合も神威力を狙っている。だから私達は敵対している。神威力を狙う者同士、それを奪い合ってる!! でも、あなたが私の命を狙うのは、陰陽連の思惑からは明らかに外れてる!!」
「違げぇ!!」
「違わない!」
 紅真が大剣を振るう。壱与が槍で弾く。紅真が前へ踏み出す。壱与はは後退する。一進一退。壱与は言葉を紡ぐ。
「紫苑君に一気打ちを仕掛けてばかりだったあなたが、突然私を狙いだした。紫苑君の相手を他人に譲ってまで――くッ!」
「五月蠅せぇ!! 紫苑の譲れねぇもん全部ぶっ潰してやる!! てめぇをぶっ殺して、あいつの帰る場所を消し去って、――それで終わりだ!!」
「!」
 ガッ!!
 大上段から振り下ろされた紅真の渾身の斬激を、壱与は槍の柄でどうにか受け止める。ぎりぎりと込められる力に、壱与は両足に、腰に、両腕に力を込めて踏ん張る。
「……貴女、彼の帰る場所に、なりたいのね」
「何を――、」
「解からないなんて、言わせないわ…。だって、あなたのそれ、私、知ってるもの」
「……ッ」
「くっ」
 紅真が県に込める力が強まった。壱与は耐える。踏ん張る。
「私、知ってるもの。酷くもどかしい、その、嫉妬。ッ、私、知ってるわ!」
「!」
 壱与の槍が紅真の剣をはじき返す。紅真が体制を崩したのに、壱与はすかさず槍を真横に払う。紅真が退く。壱与が追い詰めるように突き出す。
「なら、そうすればいいじゃない」
 何を躊躇うことがあるというのか。彼女には、己が組みする組織に対知る愛着など、欠片もないではないか。ただ恋慕う男の気を引こうと、一心不乱に叫んでいるばかりではないか。
「もっと、頭を使い無さないな、紅真ちゃん」
 壱与は笑った。勝ち誇って見せたつもりはなかったが、きっと、紅真にはそのように映っているだろうなと思い、それ概ね正しかった。





「んふふ〜。新しい仲間を紹介しまーす!」
 ご機嫌の壱与によってその肩を抱かれている彼女を目にしたとき、紫苑は目を丸くせざるを得なかった。ぱちぱちと瞬きを繰り返し何も云わぬ紫苑に、不機嫌ですとばかりに顔を顰めていた紅真の目つきがますます悪くなり、視線を反らしてしまう。
「ちょっと、紫苑君! 黙ってないでご挨拶!!」
 まるで子供を叱るような壱与のセリフに、紫苑ははっと我に返り、それから急に湧きあがる胸の高鳴りに肩を震わせた。この時、彼は自分でも意外ではあったが、楽しかったのだ。ふつふつと沸き上がる可笑しさに、笑いが抑え切れずに肩が震えるのを止められない。
「ふふ、紅真。たいへんだったな」
「チッ」
 壱与に付きまとわれたて――。言外に込めた紫苑の笑いに、紅真はちた打ちで返して顔を逸らした。そのらしさに――陰陽連時代のやり取りと何一つ変わらぬその懐かしさに――紫苑はますます肩を震わす。
 寝返った紅真の猛攻ぶりにより、陰陽連の一団はいっそ可哀想なほどに完膚なきまでにぼろぼろにされた。邪馬台国への帰路を取りながら、ふと、紫苑が紅真を振り返る。
「紅真」
「あ?」
 嫌々ですとばかり、それでも素直に振り返る紅真に、紫苑はそっと微笑んだ。酷く温かな感覚に、心のみならず体全体が包まれている心地がした。優しさと慈しみに満たされた時、人は、そのようにふるまえるのだと思った。
「ほら、あれが邪馬台国だ」
 紫苑が指示し、紅真は白く伸びやかなその腕の、細くしなやかなその指の指し示す先へと視線を送る。首を巡らせてみたそこには、人が営みを贈っていることを示す影があった。
「……」
 紅真は特に何を云うでもなかった。彼女が好意的な言葉を吐くなんてらしくない。けれど常の悪態も出てはこなかった。
 彼女がその視線の先に移す邪馬台国に対し、いかなる思いを抱いているのか、紫苑には思いを巡らすことすらできない。彼と彼女はそれほどに違っていた。
 けれど、と紫苑は己の思考を巡らす。
 事象に対して感情を湧き起こす。その尊さを、彼はすでに学んでいたからだ。
 紫苑は思う。紅真の意志とは関係なしに、彼は思いを巡らせる。

 あれが、邪馬台国。

 指し示したそこがすべてではない。そこにはまだまだ、彼女に見せていないものが数多くある。そのすべて、一つ一つ、些細なことであったとしても。すべて、一緒に見ていきたいと思うのだ。
 そうしていつか、また再び。
 二人、今、この日に見たことを。今、この時に感じたことを。そうしてこれから後(のち)に見る数々のことを。共に、振り返るのだ。




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まだまだやってないことというのは幾らでもあるものなのです。紅真は女化にするとそのあまりの口の悪さに困ります。
タイトルは高村光太郎による智恵子抄「樹下の二人」中の一文「あれが阿多多羅山」より。
高村光太郎の詩が好きかと聞かれば、個人的には語感と語呂が好きではありません。
written by ゆうひ 2008.04.26