決して届かぬ君に | |
一人の男が死んだ。黒煙が昇っていた。 灰色の空に、薄灰の煙。空を雲が覆っているにもかかわらず、ただ空が鼠色であるかのようだった。 この家で最も強い力を持っているのが曾祖父であった。もう九十を超えるその男は未だ背筋伸びて体格も良く、実年齢より三十は若く見える。彼の子の方が年配に見えるほどであった。 古い日本家屋。ともかく広い。周囲を塀に囲われているそこに、曽祖父は正妻と愛人を共に住まわせていた。 朝夕二回の飯時には、左に正妻を、右に愛人を置き、二人の妻は何十年と向かい合いながら共に食事をし、しかしその最中(さなか)は徒只管俯き箸を口に運ぶことにばかり没頭して、互いに目を合わせることがなかったという。 俯き黙する二人の――決して良好とはいえぬ感情を互いに抱いている――妻を前にし、その男は何十年と何を思い飯を口に運んだのか。 今、曽祖父の妻はすでになく、代わりに二人の妻の各々の子の、そのまた子の、その子らが、曽祖父を上座に向かい合って坐し、飯を口に運んでいる。重く淀んだくらい気のようなものをその肩に背負っているかのように、同じ血を引くその『親族』らは、毎食共に食卓につき、決して口を開かない。 そんな食事風景で、珍しくも口を開いたのは曾祖父であった。というよりも、曽祖父を除いては、この家で口を開けるような無神経な、そうでなければ能天気に過ぎる奴はここにはいない。同じように、徒々酔狂な奴もいなかった。 曾祖父が何を思ってそんな提案――それは曽祖父の口から上った時点で確定事項ではある。曽祖父自身の口から撤回されぬ限りにおいて――をしたのかは、未だ謎のままだ。彼が如何(いか)な想いをその胸中に抱えてその生涯を送ったのか、正(まさ)しくそれこそが暗闇を明かり一つない中で彷徨う様にかくそくないものだ。そんな中で出口を密陽とすることの方が愚かしい。 即ち、曾祖父と正妻の血筋の曾孫である彼と、祖父と愛人の血筋の曾孫である彼女――紫苑、彼らは同じその男の曾孫であるという以外の共通点をほとんど持たない。年齢は近いが同じではなく、見た目に至っては正反対といってもよい――を、添わせるというものであった。 誰も曽祖父のその言葉に否やを唱えはしなかった。彼と彼女ですら、顔を上げもしなかった。 彼女が何を考えているのかを、彼は推測することすらできない。彼や彼女の祖父や父は、この家に蔓延する、この重く淀んだ曽祖父から放たれていると錯覚する空気に圧されて常に俯いているが、彼女はそんなものの重みを感じてなどいない。そのことだけが、彼の知り得ることであった。 曾祖父に意見を唱えることの癒える人間などいないこの家にあって、彼や彼女が厭だとでも云えば何かが変わっただろうか。おそらく、曽祖父はそれをあっさりと受け入れたような気もするし、そうであったところで何も変わらなぬであろうとも思う。 兎にも角にも、彼は彼女が否を唱えない。そのことに心のどこかで確かに安堵し、また別のどこかで確かに失望していた。それは彼の最も弱い部分であり、それは世界を見下ろす彼であり、それは最も純粋な彼であり、それは最も愚かな彼であった。 「おい、聞いたか。紅真君が婚約したそうだ」 これは義務であるので、彼――紅真にはどうすることもできない。即ち、良家の子息は須らく教育を受けることが義務付けられているのだ。より正確にいうと、子弟に教育を受けさせる義務であるのだが、その家に縛られている子息であるならば、自ずとその義務を連帯する責任を負うことになるので、受ける義務といっても差し支えないだろう。 人が集まる場所で噂話に花が咲くのは、ある意味避けることの出来ぬ理のようなものだ。その対象が概ね、その集団の中にあることも含めて。 そうして此度、その対象が紅真であったというだけのこと。彼を中心にして人が円を描き遠巻きにしている。意識の先にあるのは紅真であり、紅真も己が注目されていることを正しく感じ取っている。けれど彼は黙っていた。 彼には特別親しい友人というものはなかったが、かといって人付き合いが下手ということもない。面倒には思っていても、苦手に感じてたことなどないだろう。 誰かを中心にして追随するような人付き合いはしないが、誰かが寄ってくれば人並みに会話というものを成立させる。そういったことを必要としているわけでも、切望しているわけでもなかったが、彼はただ人との付き合い方というものを本能的に身に付けていた。自覚してのことではないので、苦痛もない。 「やあ、紅真君。聞いたよ、婚約おめでとう」 「ああ、ありがとう。だがそう珍しいことでもないだろう。俺たちの年齢なら、いつそれが身の上に降りかかっても驚きもしないのじゃないか」 「あはは、確かにそうかもなぁ。紅真君は冷静だな」 こうして愛想よく話しかけられればそう返すことができるくらいには、彼は人間関係というものを円滑に保つ術を実践していた。決して心得てないどいないだろうが。 それにしても、と彼は思う。なんと、よくしゃべることなのだろう。 いくら同年齢がとはいえ、男ばかりでこれだけ賑わしいのだ。紫苑が身を置く女学院などでは一体どうなってしまうのだろうかと、紅真は思いを巡らす。 彼とは正反対。人との関係を切望しながら、それに対して全く不器用な彼女を思う。いや、或いは不器用なのは家のことでだけで、同じ年頃の他人とであれば、紅真がそうであるのように、また別の面を持っているのかもしれない。 (くそっ) その己の思惑に僅かに気分を落ち込ませたことに嫌悪して、彼は舌打った。 中庭に面したその廊下は長く、かといってそうそう家人に出会うこともない。陽の光が美しい姿を描いて降り注ぐ。庭の見事さを、しかし愛でる者などいない貧しいこの邸にあっては、それは全く宝の持ち腐れであったろう。 「紫苑…」 「紅真」 ただ真っ直ぐと。陽の光が白いうちに、輝く木々の葉が碧に生える頃に歩くそこでばったりと出会う。薄い白絹の着物に身を包んだ紫苑の両手には、盆。皿とナイフとメロンが乗っていた。 「どうしたんだ、それ」 「? ああ、爺さまのところにな、」 「じじいの?」 「ああ」 紅真が眉を顰めた。紫苑は嗤っていた。 唇を薄く引き延ばし両端を持ち上げたその笑みはその心の在処を図ることを許さない。何を考えているのか分からないその昏い笑みは、元来単純である紫苑の闇を露わしているかのようで、紅真はそうさせるこの家が尚煩わしくて仕方がなかった。そうしてまた突き付けられる。彼と彼女の相違点。 単純であるのに暗く複雑にコーティングされた彼女と、暗く闇に堕ちていながら単純にあろうとする彼と。 人の手を借りねば生きることもままならぬ老人に支配されて怯えるこの邸の中で、唯一その老人から解放されている二人は、しかし、この家からは解放されているようにも見えなかった。それが二人の真意を明らかにするのにもっとも重要なことであり、それは彼女が負わねばならなかった装飾と、彼がそう在りたいと装う皮に隠されている。 まるですべてを見透かすかのように達観したその装いを、しかし彼だけは嘘だと知っている。知っていて尚、彼女のその薄く笑んだ口元に、緩く伏せられた目蓋に、その真意が幻のように霞み不安を覚えずにはいられない。 「食べるか?」 動く彼女の唇に、彼の視線はくぎ付けになる。鮮やかで、妖しくあり過ぎる故に、目が放せずに魅入られる。 「紅真」 はっとして我に返った彼の目の前に、やはりあったのは薄く嗤う彼女の白さと、鮮やかな庭からの翠光。まるで誘っているかのようにぬれて光る唇は、彼の願望が見せる幻であるのか。彼には判断がつかなかった。 一人の男が死んだ。どこかで喜色が生まれた。それはしかし暗いものであったから、澱む空気の重たさは変わらなかった。 否、それは歪んだものを取り入れたことによって、さらにその澱みを増したのかもしれない。純粋な喜びとは、本来幸福に属するものである筈だ。しかし新たに邸に蔓延したそれは、明らかに負に属している。 曾祖父の肉を種として、生まれたての黒煙が空に昇っていく。しと降る雨の中にあって尚、それは昇っていた。 勝ては初めて彼女の手を握る。白く細やかなその手首を掴む。 「行くな」 彼は口にしていた。遠ざかろうとしていた彼女の歩みが止まった。 歩み去ろうとする私のこの腕を、敢えて無防備にしているその手首を、掴む手があった。漸く掴んできた手が在った。 それはまがうことなき彼の手であった。 私は歩みを止め、俯く彼がくぐもった呟きを発した。 靄のようにあたりを包み込む霧雨に、あらゆる音が絡めとられてしまうような中で、けれどその声は確かに私の耳に届いたのだ。 「行くな」 ああ、ようやっと、彼から私を求める言葉を聞くことができた。 私は薄く笑んでいた。引き伸ばされた唇も、歪に上がる口角も、正面に顔を向けながらその視線は俯いている彼には見えぬものであろう。 届いた彼の手は、彼に決して届くことのない私の手の代わりに二人を繋いでくれる。彼の手が離れるようにと足掻かなければならぬ事はどうにももどかしいばかりだが、それでも彼の手が私に届くのだからそれで構わない。 高望ばかりをするべきではないのだと自重する。だって、彼は私が好きなのだから。 きっと、彼は今こう思ってる。 決して届かぬ君に手を伸ばした。 案外と近く、意外と容易く手の届いたことに目を丸くする。 これならば、これならば…――。 「好きだ」 漸く叶った彼からの言葉に、私はやはりほくそ笑む。 あの時思った通りだ。 これならば、これならば、それ以上、その先もにも、きっと容易く手が届くに違いない。 |
|
back 近代文学の薄暗さがテーマ。私は近代文学はどこまでも薄暗くて陰鬱だと思ってるらしい。 でも一人称で書いていたのを三人将に変えたらそうでもなくなった。 written by ゆうひ 2008.05.20 |