これから先の観月なら、私と共に在ればいい。

「ああ、懐かしいな」
 ふと呟かれたその言葉が、偶然に耳に届いてしまったのだ。反射的に首を巡らせてしまってから、紅真は内心で舌打ち、そんな言い訳をした。
 紅真の視線を目ざとく感じた紫苑もまた首をめぐらせ、二人の視線が絡み合う。紅真は益々顔を顰め、逆に紫苑は薄っすらと笑った。
 珍しい。
 紅真は思う。紫苑のその恵美は、まるで過去を懐かしむかのように穏やかだった。――穏やかなになれるような過去など、その胸の裡に抱えてなどいるはずもなかろうに――そう、思わずにはおれない。
 紅真にとっては自分への嫌気がいや増すばかりだが、その思いが顔に出ていたらしかった。紫苑が思考に沈むように笑った。
「いや、ちょっと、な」
「なんだよ」
 むっ、と苛立ちを顕わにした紅真の気配を正しく感じ取ったのだ。紫苑はまた笑った。声を立てぬその笑いに、紅真の苛立ちと、それとは別の焦燥感が増す。何に焦れているのか、そんなことは分からなかった。
「ああ、昔、な」
「昔?」
 紅真の顔が訝しむように益々顰められる。
 紫苑は今度は胸中でもそうと自覚しながら笑った。表情は変わらなかったが、それは確かに『益々笑みを深めた』と、そういうことであった。
「ああ。昔。とても小さい頃だ」
 未だ幼いと云われても反論できぬ年頃である紫苑だ。しかし、その思い出はさらに幼い時分のことであった。
「その日もこんな風に月が眩しくて」
 夜の空。星が一切ないかのような錯覚を起こすほど、月が皓々と輝いていた。
「父上に肩車をされながら、あの空を見上げ、あの月に両手を伸ばしてた」
 決して届くはずもないのに。そんなことは分かっていたのだろう。何が楽しかったのかなど、今の紫苑にはもうわからないが、その当時の、幼かった紫苑は、ご機嫌に笑っていた。
「俺はひどく機嫌が良かった。父上も優しく笑っていた。何か、話していた気がするけれど、もう、思い出せない」
 紫苑は遠くを見据えるように目を眇めた。
 地平の向こうを見遣るかのように目を眇めた紫苑の横顔を、紅真は苛立ちながら見つめていた。
 紫苑の言葉は続く。彼の唇がこんなにもなめらかに動くのを、かつて紅真は見たことがあっただろうかと思う。流れるように――或いは止めることが出来ぬとでもいうかのように――それは紡がれていく。紅真の耳に届く。
「月の形さえ覚えていないのに、ただ美しいばかりのそれが、今も脳裏に蘇って離れない」
 記憶の中で、それは満月ほどの明かりを伴っていた。しかしそれが満月であった確証が紫苑にはない。
 上弦であったような気もする。下弦であっただろうか。もっと欠けた日の月であったかもしれない。
「思い出せないんだ、何も」
 正しいことが何一つも、思い出せない。
 記憶が欠損しているのではない。忘れたのとも違う。ただ、あらゆるすべての記憶に、それが現実に起こったことであるという確証が持てないだけ。確証が持てないから、もしかしてこうだったろうかと想像を膨らませ、脳内で思い描いただけのその光景が、今度は朧になった現実と並び、そして迷う。
 いったい、何が本当であったのか。
「あの時の月はどんどん美しさを増しているんだ」
 真実ではないかもしれない。そう思いながら、それは美しかったという疑いのない思いが、より美しい思い出を真実の光景だと選び取ってしまう。
「もう二度と、俺はあの日に見た以上に澄んだ月を見ることができない」
 紫苑の言葉が途切れる。いつの間にか、そこから笑みは消えていた。紅真の苛立ちもまた、消えていた。
 紫苑はただ見つめ続ける。隣に立たずむ紅真ではなく。紫苑の横顔を見つめ続け、その言葉に耳を貸し続ける紅真にではなく、その青い瞳はどことも知れぬ闇へと続く眼前を、その運命を見据え続けている。
 あの日。幼いあの日の夜。
 父の肩車にご機嫌だったのか。澄んだ月の輝きの先に見出した明日の輝きにご機嫌だったのか。神々の頬笑みでも見たのか。
 もう、そのどれも見ることがかなわない。
 こんな自分では。
「莫迦じゃねえのか」
 唐突に、――少なくとも、紫苑にはそうであった――紅真が告げた。鼻を鳴らすそのしぐさはいつもの彼のもので、彼が心底不機嫌でない証しのようにさえ思えてしまう。紫苑は自分の瞳にうつった紅真の顰められた横顔にそう思う。また、おかしさに笑いがこみあげてくるような心地がせりあがってくるようだった。何がおかしいのかは、紫苑にはわからなかった。ただ、胸のあたりにまでせりあがってくる、それは「楽しい」という思いだ。
 紅真はいまだ、紫苑から顔を反らしたままだ。
 紅真の横がを見つめ続ける紫苑ではなく。その続くはずの言葉を聞き逃すまいと彼に意識のすべてを集中させている紫苑にではなく、ただ、眼前の、どこまで続いているのか果ての見えぬ闇の奥、彼が歩むのだろう道を、その赤い瞳は見据えているばかりだ。
「月が澄んでるも何もねえだろ」
 ただ、空が澄んでいるだけだ。目が曇っているはずもない。だって、紫苑の剣を、紅真は容易く止められたためしがない。
 心が澄んでいるか。そんなものは関係ない。
 だって、彼の心が澄んでいるか否か、そんな些細なことで、あの巨大な輝きの在り様に影響を与えるだなんて。そんな己惚れ、いっそ傲慢にも等しい。
 紅真がふっと笑った。紫苑にはそれが自嘲に見えた。しかし紅真が自嘲する理由など、紫苑に分かろうはずがない。考えたところで見出せるはずもない。間違った答えにさえたどりつけぬ。
 紫苑にできることは、ただ、目の映る紅真の言葉を待つことだけなのだ。
「あんな月の一つや二つ、見上げりゃいつだってあるんだ」
 きっと、この世界は、自分たちが思っているよりもはるかに巨大で、底知れない。だから、何をもって、唯一無二などといえようか。見上げれば、空の形も大きさも、いつだって違うのに。そしてそれでもなお、空はいつだってそこにあり続けるのに。
「愉快なことなんて、いくらでもあるに決まってる」
 紅真の顎が僅かに持ち上がる。月を見ているのだ。――紫苑は思った。
 反らされた咽喉が青白く輝いている。その視線の先に、青く光る月が皓々と輝いてあるのだ。
 思いながら、紫苑はその真白い咽喉から視線を外せずにいた。月の輝きならば、見なくとも分かる。ここにある。
「……」
 魅入られるように見つめていたそれが視界から外れたのは、紫苑の視線が動いたからではなかった。対象が動いたのだ。次に紫苑の視界に入りこんだのは、見つめて止まなかった紅真の正面。赤い瞳と、笑む口元と。
 紫苑は思わず瞠目する。
 紅真は笑っていた。それは自嘲などではなく、ただ楽しげであった。得意気であった。まるで子供のようであった。
 だから紫苑は瞠目した。紅真の笑みは益々楽しげなものへと変わる。
「ほらな」
 ここに、おまえの間抜け面がある。――眇められた瞳とともに投げられた言葉に、紫苑の瞳はいっぱいに見開き、そしてふいと笑った。それは楽しさを感じている者の笑いだ。あらゆる悲しみも、孤独も、すべて笑いに昇華しようとする者の笑い声だ。
「ああ、本当だ――」
 紫苑は紅真に反した。未だ、笑い収まらぬまま。
 今宵の月の形はどうであったか。この素晴らしいと感じた月の名を何と言ったか。なんであろうと、良夜であるには違いあるまい。
 有明か。後のだろうか。三五夜であったろうか。
 上りか降りか。三日、待宵、十六夜、立待、居待、臥待、更待、下弦――。朔ではあるまい。この眩しさだ。夕月夜かもしれぬ。
 それとも無月の夜、星月夜の素晴らしさにその輝きを勘違いしているだろうか。
 なにだろうと構うまい。こんなにも心が高揚している。楽しくて仕方がない。
「おまえの隣に立つだけで、な」
 紫苑の呟きが紅真に届いたか。それは分からないけれど。
 見上げた空には、夜が広がっていた。




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紫苑の誕生日を祝いたい!小説(一ヶ月遅れ←書き始めて数日後に気づいた)。
紫苑と紅真が隣り合って並んで月見上げてるところが書きたかっただけ。
紅真が果てしなく遠回しに紫苑を月見に誘うのが書きたかっただけ。
ネタ元は童謡「ゆうやけこやけ」。最後はその片鱗さえなくなった。
written by ゆうひ 2008.10.11-25