ドクター

 紫苑は困り果てていた。別に樹海の中で迷ったというわけではない。彼にはその知人のレンザのような特殊な能力があるわけでもなかったが、樹海で己の在り処が分からなくなって途方に暮れるなどという可愛げはない。たかが動けぬ木々の群れ。いざとでもなれば、すべて薙ぎ払ってしまえばいいのだから。云えばその乱暴なばかりの所業に、木々と心を通わせるかの知人は烈火の如く怒るだろう。云ったことはないので定かではないが、紫苑は思った。しかしそれとて困るほどのことではない。
 では何に困っているのかといえば、目の前にはわんわんと泣き喚く紅真の姿。お前はそんな性質ではなかっただろうと、眉根が下がるばかりである。どうしようもない。
 南の国の樹海に入り込んだのは紫苑の単独のことであった。誰にも、なにも告げずにきたのだ。

『いいから、いいから。たまには紫苑くんだって、たまにはゆっくり休まなくちゃ』
 そう云って背を押したのは、ほかならぬ女王陛下。とどのつまり、紫苑は取るつもりもない休暇を言い渡され、ぽっかりと一日の暇ができてしまったのだ。そして足を向けるのが樹海というのも、どうだろう。少なくとも今現在彼と生活を共にする国々の者たちには、永遠に理解できそうにないことだった。
 どんなに変わりものだと呆れられたところで、紫苑には紫苑なりに理由があってしていることだ。そもそもそれまで過ごしてきた人生の中身が違うのだ。理解できないことなどあって当たり前で、理解されずともそれは仕方のないこと。仕様がないと思っている。だから、紫苑は早々に放棄する。理解できない人の感情を理解しようとする努力を。
 しかし今回はそうも言っていられない。だから紫苑は困り果てていた。かつてないほど、困り果てていた。
 苦手なことに面と向かい合わなければらないことは苦行以外の何物でもない。しかし苦行へ向かうことを厭う心を抑え込み、為すべきことを為すだけの胆力ならば持ち得ている。ずっと、そうして彼は越えなければならないあらゆるものを越えてきた。だから今回だって出来る筈だ。いつもは早々に放棄してきた努力。そのつけが回ってきたと思えば、もはや後悔して祈りを捧げるしかあるまい。それにしてもこれはあまりにも酷い。
 決して泣かない男の涙の、その意味をどうして理解すればいいのだろう。

「あー…っと、紅真。その、目に、ゴミでも入ったか?」
 そんなことあるわけがないと思いながら――それでも他に掛ける言葉も浮かばなかったので――云えば、案の定。
「んなわけねぇだろ、このボケ」
 否定の言葉が返ってきた。
 さてどうしようか。紫苑は再び途方に暮れた。

「てめぇ、なんでこんなところにいる」
 紫苑が次に掛けるべき言葉を探っていた――それは百人中百人が認める、彼の不得意分野だった――時だ。紫苑より遥かに人との意思の疎通に長けた紅真が、泣き腫らした目をさらに腫らすかの如く涙を果てどなく流すままに口を開いた。目を擦ったところで涙が枯れることもなく、腫れた目が益々腫れるだけだろうに、他に涙を拭う術もなく擦り続けながら。
「休みが与えられた。暇だから散歩でもしに」
 これ幸いと、紫苑は紅真から振られた話題にのった。無言のままに時を過ごすには、あまりにも居た堪れなかった。
「樹海に散歩か、は、莫迦だろ、てめぇ」
 迷い込んで死ね。
 紅真の瞳が雄弁に語っていた。吊り上がった、いっそ獰猛とさえいえる口元が実に彼らしいのに、なぜだろう。視線を少し上へずらせば、やはりその涙は幻にはなってくれはしない。
「帰らず森である常世の森にずかずか入り込んだその口で云うか」
「俺はてめぇと違って薄ぼんやりしてねぇ」
 しかもあの森が返らずの森であったのは、方術使いの老いぼれ婆のせいなだけだ。
「まあ、確かに……」
 紫苑は認めた。常世の森は別に深くも険しくもない。あるべき場所に到達させず、秘密を知ったものを生かして帰さぬための罠が仕組まれていたが故の、帰らずの森。
「なら、紅真は何しにここに来たんだ」
 言葉を濁していた紫苑だが、ふと気になり訊ねていた。どうしても気になるというほどではない。ただ、ふとひらめいたので訊ねてみただけだった。特に応えが返ってこなくともいいと思う程度の。
「……散歩だ」
「……」
 紫苑は黙った。それが嘘でも本当でもいいと思った。
 嘘ならばなんと底の浅い嘘だろうと思う。バレバレだ。大方また陰陽連がらみの任務だろう。紫苑に真実を告げぬのは当然のことだ。それにしたって他にもっといくらでも嘘の付きようも誤魔化しの仕様もあるだろうに。
 本当ならば散々に紫苑のことを莫迦にしたその身で何を云うのかと思う。同時に思う。自分たちはどこまで似てるんだろう。ちょっと薄ら寒さがした。
 紫苑はひとつ溜息を吐き出した。それまで悩んでいたことがすべてどうでもいいことのように思えた。なぜ、自分はこんなにもそのことを重く受け止め考えていたのだろう。少し笑ってしまう。
(ああ、やばいな――)
 紫苑は口を開きながら思った。自分の口も瞳も、どうにも笑みを形作りそうだ。笑ったら彼は怒るだろうか。その好戦的な表面ばかりが際立っていてあまりそうとは知られていないが、紅真は紫苑などよりよほど、あらゆる物事に対して真摯で真剣な性質だから。
「それで、どうしてお前は――」
 ――泣いているんだ。
 声にしようとしたまさにその時だった。
 樹海中に響き渡るどころか、樹海の外にまで届いたのではないかというほどの大音量で、紅真が堰を切ったように、吠えるように泣き喚いたのだ。
 それはなく自分を否定するための叫びが混じっているようだった。大声を出して、涙を止める。その試みは、どうやら失敗らしかったが。紅真の涙はもはや慟哭だ。
 ふつと、止めようと喉を震わせた瞬間を、紫苑の優れた動体視力と聴力がとらえたと思ったと同時だった。声をかける暇もないとはこのことだ。それは一瞬で爆発し、大音響を以て空気を、木々を、大地をふるわせんばかりに弾けた。
「こ、紅真…?!」
 紫苑の戸惑ったような声さえ、もはや隠すのが困難なほどだった。ああもう、本当にどうしようか。紫苑は生まれて初めて、誰かに助けを求めたくなった。故国が滅亡したそのときでさえ、彼は誰にも助けを求めなかった。手を差し伸べなかった。ただ、己の力の無さには歯を噛みしめてはいたけれど。
「……」
「は?」
 涙の止まらなぬ紅真が、それでもどうにか流れる涙を止めようと、ぐしぐしと目を擦りつけながら何事かを呟いたようだった。ただしゃくりあげた呻き声が言葉に聞こえただけのか。なんと云ったのかが分からず、紫苑は訝しげに顔を顰めて問い返す。そうすれば答えが返ったので、やはり紅真は何事か、意味のある言葉を呟いていたのだなと、紫苑は納得した。
「……」
「紅真、聞き取れない」
 もっと、大きな声で、はっきりと、云ってくれ。
 吐き出した息の中に含ませれば、紅真は暫らく息をつめてその呼吸を整えることに努めた。どうにかこうにか落ち着いて――それでも肩はしゃくりあげていたが――、言葉を紡ぐ。
 今度は紫苑にも聞き取れた。
「なんなんだよ、その笑い、は」
「笑い?」
 聞き取って、しかし今度は意味が分からず眉を顰める。目を眇めてみても、、紅真からその真意を読み取ることができる何を見つけることもできなかった。
「てめぇが笑ってた」
「……俺だって、笑うくらいする」
 ああ、いつだったが、これと似たような台詞を吐いたな、と紫苑は思う。そのときに反した彼女は、泣いてはいなかった。あれから、いまだに彼女の泣き顔は見ていなかったが、同時に、彼もまた、彼女に自分の泣き顔を見せたことなどなかった。そういう関係ではないのだ。もっと逆の、弱みの代わりに笑顔を見せ合う絆を、きっと互いに望んでいるから。
「嘘だ」
「……いや、現に笑っただろ」
 紫苑は呆れた。紅真本人が、紫苑が笑ったのだといったくせに。泣きながら、難癖をつけてきているのに。
「笑ったことなんてねぇだろ!!、俺の前で!!!」
「は?」
 紅真の涙は止まっていた。目尻にはまだ幾分か残っていたが、流れ出るほどにはなかった。見開かれた瞳は、頻繁に擦り付けたためだ。赤く擦れていた。きっと後からひりひりと痺れてくるだろう。紅真の瞳は元から赤かったが、今は白い部分までも赤く血管が浮き出ていて、ちょっと不気味だと紫苑は思った。腰が引けなかっただろうかと、頭の片隅でどうでもいい心配をした。
「ないだろ。笑ったことなんて……」
 紅真の声はどうしたことだろう。それまで聞いたこともないほど弱々しかった。紫苑をぐっと、正面から睨み据えるように糾弾してきたその眼光は、首に皴が刻まれるのと同じ速度で紫苑の薄紫の瞳から外れていった。こんなに頼りない紅真を、紫苑はかつて一度として見たことなどない。紫苑自身がそうであり、陰陽連にいる大半がそうであるのに倣って、紅真もそうであった。つまり、人に弱みは見せない。自分の弱みは認めない。
 けれど泣く人間も笑う人間も珍しくはない。紫苑のように感情を殺している者の方が稀有だった。
 陰陽連は方術士集団。方術とは即ち、己の心を扱い戦う術。だから、まずは己の感情のコントロールから入るのだ。
 涙も笑顔も演じているだけかもしれない。本気だとしても、自分がそうと望めばいくらでもとめることができるもの。逆に、いくらでも浮かべることのできるもの。紫苑は例外。消せるが、作れない。けれど半分できれば十分だ。己は完全に、理性的である己の支配下にあるべきなのだ。支配されるべきもの。感情とはそういうものであるべきで、そうできるものだけが現場へと赴く権利を与えられた。
 紅真は紫苑よりよほどそれに秀でていて、彼が激高することは珍しくはないが、彼が自分の思惑を離れて感情を表に出すことは見たことがなかった。
「……ああ、なかったな」
 紅真の前でというよりも、笑ったことがなかった。紫苑は思い出すように記憶を探りながら答えた。
 壱与に笑顔を指摘されたときに、永いこと笑うことを忘れていた自分を思い出した。どうして忘れていたのか――というよりも、なぜそんなことに気づいていなかっただろうかと考えれば、すぐに答えは出た。彼が邪馬台国にその身を寄せるようになるまでに、微笑んでしまうような心安らぐ思いとは無縁ではなかったからだ。
 紫苑の記憶の中で、楽しいときや穏やかなときというものは自然と顔が恵美という表情を表に出しているものだった。だから、意識などしたことがなかったのだ。穏やかな気持ちを感じた記憶がある。ならば、きっと、自分は微笑んでいた。だから、自分は紅真の前では笑顔ばかりだった。
 彼の中でイコールになっていた図式がそうではないと紫苑が知ったのは最近のことだ。紫苑はそのことを説明すべきがどうか少しだけ迷った。視線を上に向けたのは考え事をする時の癖だった。まるで脳の中を目で見て答えを探すように。
 眼球だけを動かして上向いた先に見えたのは、当然自分の脳に刻まれた思考の様子などではなくて、樹海の木々の枝の網に遮られて青くは見えなくなった青空だった。明るいどころか薄暗い。答えは見つからず、さてどうしようかと相変わらず考え続けるしかない状況に、けれどもどかしさは感じなかった。
「で、なんでおまえが泣くんだ?」
 答えは見つからず、結局、紫苑は今度こそ訊ねたのだった。
 紅真が今度こそ我を忘れて泣き叫ぶまで、あと――。



 この感情の昂ぶりはもう私にはどうしようもなくて、私は他の大多数の人がそうであるのと同じように、ただ泣き叫ぶしかなかったのです。




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紅真を泣かせたかっただけ。これだけ書くのにどんだけかけてんだという話。
ごめん。しかも最後は逃げた。ぶっちゃけ嫉妬ですな。紅真の。
タイトルは「たすけて!」の意味を含んでます。
written by ゆうひ 2009.01.17-31