いづれ朝ひ(あさひ)の沈むまで | |
彼女は暗殺者ではなかった。しかし優れた武芸者であったので、消された気配には気付けなかったものの、放たれた殺気には跳ね起きた。 体が跳ね上がったのと同時に見開かれた瞳。次の瞬間には、彼女――邪馬台国二代目女王にして邪馬台連合現首魁たる少女、壱与――は、夜の漆黒に浮かび上がる一対の紅点に射竦められていた。 蛇に睨まれた蛙とはまさしくこんな状態なのではなかろうか。そんな暢気なことを考えながら、同時に、背筋に冷や汗が伝うのを感じていた。 どうしようもない開き直りで笑いそうになる心理と、どうしようもない恐怖に強張る体。まるで対のように拮抗し、しかし両雄並び立たぬかのように決して和解しようとはしないそれに、壱与は声も上げられない。強張った顔は動かず、ただその眼球だけが、ぎょろりとばかりに己を検分する紅玉を追っていた。 「紫苑の奴はどうした」 随分と不用心だ。偶々死ぬのが今日だっただけで、昨日もその前の日も、紫苑がいなかった。一日、二日延びた寿命で、お前は何をした? 闇の中で囁く――否、囁くというには語弊がある。その声は闇の中、ひそめられるように静かで決して響きはしなかったが、決して隠そうとはされていなかったのだから――声には聞き覚えがあった。壱与は己の記憶のページを捲る。 陰陽連心部衆の一人――。 (紅真――) 漆黒の闇の中で、彼はいつからそこにいたのだろうか。どれほどそこにいたのだろうか。否、否。闇の中ばかりではない。明るく、容赦のないほどに照りつける日差しの中でさえ、彼はいたのだ。誰にも気づかれずに。いつだって、誰に気づかれることなく彼女の命を奪い、誰に気づかれることもないままに去ることができたのだ。白昼の只中でさえ。 壱与は戦慄した。死の恐怖など克服し、そんなものを突き抜けた先に自分の精神は静謐なほどに凛と立っているのだと思っていた。 嘘だ。 壱与はその瞬間に悟った。 それまで自分が信じていた自分の在り様がただの思い込みで会ったのだと、一瞬で悟ってしまう瞬間を、壱与はこの時まざまざと体感させられた。 恐れを抱くに値しないのは、人を殺すことが理性ある人として罪であると位置づけ、それでもなお人を殺すことを決めた殺人者であったのだ。そう。たとえば紫苑のように。たとえば彼女が愛する、彼女の国のすべての兵士たちのように。たとえば――彼女の敵の総大将、あの、鴉の闇のような男、シュラのような。 人を殺すことは罪である。その罪を恐れはせぬと開き直ったものをこそ、彼女はおそるるに足らぬと裸のままに向き合えるのだ。 今、目の前にいる、この男。 (ダメ――) 壱与は初めて、己の持ち得る、人の心を察することのできる能力を恨めしく感じた。そんなことに秀でてなどいなければ、この恐怖を抱くこともなかったろうに。 (ダメ……。この人は――) ――人を、人としか思っていない。 「せーんせい」 「おお、これはこれは、女王陛下がこんなところにおいでとは」 あばら屋から出てきたのは腰の曲がった、人のよさそうな老婆であった。常世の森のハル婆(ばあ)のように背は小さくなり、彼女とは違い腰お辞儀しているかのように曲がっているために更に小さく見えた。ふぉっふぉ、と咳をするように、しかし柔らかさに満ちた声で笑う。 壱与は苦笑した。 「もう、やめてくださいよ、先生」 「ふぉふぉ、壱与ちゃあはもう免許皆伝だで。先生は壱与ちゃあよ」 目尻を皺だらけにして嬉しそうに笑うその老女こそ、壱与の操る邪馬台槍術の創始者にして師範。壱与の槍の師匠である。 幼い壱与を「壱与ちゃあ、壱与ちゃあ」と、にこにこと呼んでは、まるで我が子のように握り飯だ野菜の漬けたのだと世話を焼き、時に厳しく、時に優しく、壱与を鍛えてくれた。卑弥呼が壱与にとって道を示した人であるならば、老婆はまさしく壱与の母であった。 出会ったときから、彼女の姿は老いたものであった。年を重ねるごとに老いは深まり、けれど常にしっかりとした印象が崩れることはなく、今もそれは健在のようで、決して緊張を強いられるようなものではなく、安心感を与えられる雰囲気に、しかし老婆を目の前にしてそれが脆い存在であるなどとはついと考えに及ばぬのである。 老婆は優しく壱与を迎え入れてくれる。壱与の腕に触れるその手もまた皺だらけで、壱与よりもずっと体温が高いもののそれであった。にこにこと嬉しさを溢れさせて壱与に笑いかける。 「いいんかね、こんなところにふらふらと」 忙しいのではないか。一人で来ては危ないのではないか。 のらりくらりとした言葉遣いの中にも、壱与を心底心配していることが滲み出ている。壱与はそれに安心させるように殊更微笑って云った。 「うん、大丈夫。ちょっと、安全を買ったから」 「?」 「ふふ」 はてと疑問符を飛ばす老婆に、壱与は含むように笑って誤魔化すばかりで、それ以上は言葉にはしなかった。 「ねえ、先生」 すっと、壱与は態度を改めた。壱与の雰囲気の変わったことに気がついた老婆もまた、改めてその新緑の瞳に向き直る。 「ねえ、先生。私、強くなりたいの」 「……。壱与ちゃあは十分強いやね。人の心を守る強さを持ってるよ。壱与ちゃあは人を強くする強さあを持ってる」 「そうじゃないの。私は、自分の身を守ることのできる、強さがほしいの」 心の強さではなく、誰かの希望になれる人格ではなく。もっと物理的で即物的な。単純な強さ。死の恐怖に対抗しうる、最も手っ取り早い方法。 老婆は首を横に振った。 「壱与ちゃあ、それはだれかを傷つける力のことぉよ。壱与ちゃあには、これ以上は必要ない力ぁよ」 それが必要な人は別にいて、そうあるべき人はそれ以上を求めずとも力を手にする。老婆は言い聞かせるように告げた。壱与の眉間に皺が寄った。そんなことは分かっていると云わんばかりの。分かっていて、それでもなお欲するのだと。悩んだ末の決断なのだと。 「壱与ちゃあは卑弥呼しゃあまとおなじいよ。ちゃあんと、必要な強さを持ってる」 老婆は言い聞かせる。その表情がどこまでも切実で、果てないほどに愛弟子のことを心配しているものであったので、壱与は納得もあきらめもつかないまま、しかし引き下がるほかなかった。 浮かぶのは昨夜のことだ。恐怖と悔しさに胸が締め付けられる酔うほどの葛藤を許容せねば思い出せぬ記憶だ。生殺与奪の権利は、間違いなく、彼が握っていた。壱与は彼に拾い上げられた団栗も同じだった。彼女にとってもそれは驚くべきことであったが、心を占めるのは屈辱感であった。なぜそうと感じるのかなど、彼女にはまだ分からない。おそらく、という彼女が立てている推測の一つを披露するのであれば、彼女はもはや「女王」以外の何者でもないからである。壱与はその事実と、己の在ろうとする姿とのはざまに立ち、これから受け入れ昇華していあねばならない。彼女ならできるだろう。彼女にはそれをやり遂げる決意があるのだから。 暗い闇の中だった。月の神も星の神も、太陽を崇める彼女にはいつだって冷たかった。彼女は告げたのだ。目の前の暗殺者に。 「ねぇ、取引しない」 「……莫迦か、てめぇは」 暗殺者は呆れに顔を顰めた。壱与はなんて場にそぐわない暢気な気配かと内心で笑いながら続けた。 「そうかも。莫迦じゃなきゃ、倭国統一なんて夢、実現させようなんて思わないわ、きっと」 自分でも驚いていることであったが、壱与は笑っていた。どれほど引き攣っていようと、怯えていようと、顔は笑いと分類されるものを象っていた。 間近にある紅真の顔が顰められるのを感じた。 「随分と余裕みてぇじゃねぇか」 「そうでもないわ。怖くて怖くて仕方ないもの。死ぬのはすごく恐い」 心の底であろうと、殺すことに罪悪感を持つ人間は只人だ。殺すことを躊躇わぬ人間ならば怖くなかった。人が、ただの石ころにさえ見えている人間が、何より恐いのだと、壱与は彼と対峙し、否、彼の標的になり、初めて知った。紅真という少年にとって、壱与は「人」ではないのだ。おそらく、彼にとって己と同じく人である存在は、この世にただの一人しかいない。 けれど、と壱与は鼠が猫を噛むほどの心境で哂う。 紅真の中にあって人足り得る存在はただの一人。そして件の存在は壱与の手の内にある。これは唯一の活路だ。決して判断を誤ってはらなない。 壱与は緊張に唾を飲み込みたい心境をぐっと抑え込んだ。それは――、彼が思案した時間は、そうは長くなかったはずだ。彼が葛藤しているという印象が、壱与の記憶にはないのだから。 けれどその時間はまるで永遠のようであった。 彼が口を開く、それまでのわずかな時間が。 「で、取引ってのは」 壱与は内心でほくそ笑んだ。内容を相手が聞く耳を持ったことが知れた瞬間、相手がその条件を呑むことが確定した。そのことを、確信したからであった。 『紫苑君との時間をあげる。だから、私にも時間をちょうだい』 暗殺対象の告げた取引内容を思い出す都度、紅真は己の顔を憮然と顰めざるを得なかった。 与えられた任務に対し、彼が忠実であったことなど一度もない。だから、彼を扱う立場にある主らは、彼がそれを忠実にこなさないことを予測して任務を言い渡すのだ。それは任務の通りにこなしても、それをしなくともどちらでも構わぬという意味のあるのと同様、実は陰陽連にとって確実にこなさなければ組織自体が瓦解するというものが存在しないことを意味していた。 紅真という人間は頭がいい。自分の感情に忠実であろうとするのと同じだけの力で、物事の真実を見抜き、冷静にそれを分析し己の行動を決する能力に長けている。そうであるからこそ、紅真は陰陽連の一員として、与えられた任務に対し己の感情を優先し、最低限こなさなければならぬことだけは忠実に、そうでない部分に対してはその時の気分しだいでこなしたりこなさなかったりを繰り返す。 直属の上司にあたるシュラの、他人のことを見透かし楽しむ傾向のある性質を紅真が正確に見抜き、またシュラの方でも紅真の性質を見透かしているという、互いに互いの性質を知っている、そのことを認めあっている上での行いである。これは紅真にとってシュラ自身に対していかなる興味も執着もないと同時に、シュラが紅真の執着するものに対していかなる障害にもならず邪魔もしないが故に成り立っているものであった。 紅真のただ一つの執着。 それが、此度の暗殺対象――邪馬台国二代目女王壱与――の告げた「紫苑」である。 紫苑はもはや覚えておらぬことであるが、紅真はかつて、紫苑にすべてを捧げることを誓った。その誓いが何に対してのものであるかといえば、紫苑にであり、そして紅真自身にである。紫苑のためだけに生き、紫苑のためだけに死ぬ。それが紅真のに理想であり、そのためにならば紅真は独裁の果てに故郷を滅ぼすことさえも厭わぬし、その逆もまた然るに、悠久の平和を築くだろう。 さて、今、紫苑にとって紅真は的である以外の何ものでもないが、しかし紫苑にも心はある。すでに紅真の誓いを忘れ去ってしまった紫苑には、その感情の理由が知れない。ただ、紅真の姿を見ればそれが欲しくて仕方なくなり、狂わんばかりに求めてしまうというだけだ。悲しみに支配されていた頃には利いた自制が、平和に慣らされて気が緩んでいるのか、最近はそれがだんだんと利かなくなってきていることの自覚が、紫苑にはいまだ希薄であった。とても危うい紫苑の精神均衡を、紅真は感じ取りながら、どうしようともできない。紫苑が己を律すれば紫苑の崩壊は訪れないだろう。しかし、高い確率を以て、それは紫苑を完全に紅真から離脱させることを意味する。それは紅真から紫苑が奪われることと同義語だ。故に紅真には動くことができない。 今もそうだ。 紅真を迎えた紫苑は、敵である紅真に微笑みかける。傷だらけでの、節くれだった、それでも尚真白くやわらかな腕を伸ばす。その異常性に気付きながら、紅真は見ない振りをして、自らもまた狂気に表を支配させる。理性を内側に退かせ面を擡げるようにように覚醒する狂喜。その心地良さに身を委ねる。 抱きしめた互いの体は温かかった。 「……いづれ朝ひの沈むまで」 紅真が告げる。紫苑のぬくもりは紅真の体温に比べればほんの少し冷ややかで、苦しささえ齎す籠もるばかりの熱には逆に気持ち良かった。 「……旭は沈むものじゃなくて昇るものだろう……」 紫苑が呆れて返す。紅真はにやりといっそ得意気とばかりに笑って云った。 「だから俺たちは永遠だ」 「……」 紫苑は今度こそ呆れた。目の前の紅真はといえば、なぜか誇らしげにさえしているものだから紫苑はもはや言葉も出ない。 それでも、紫苑の目の前にいる紅真にはきちんと見てとられたので、彼の笑みはますます深まったのだった。 呆れ、しかし確かに紫苑の表情は、理性さえ失った悦びに笑みを象っていた。 |
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back ほんわかほのぼぼのらぶ話(最後)と危ない陰謀野望話(みえないけど前半)という別話を無理やりくっつけた。 だからというわけではないけれど、書き上がるまでに二ヶ月は流石にかけ過ぎだと我ながら思う。 written by ゆうひ 2008.12.08-2009.02.22 |