漆黒の闇の中に、楽園があると君は夢を見ながら死んで行くんだ。 | |
紫苑はその身を横たえていた。仔の祭りにふるまわれたよりもあまるほどの鴨の羽を詰め込んで作られた敷き布に身を沈めるようにして、弛緩しきった体を投げ出していた。 その右手を紅真が取る。細りとした、長すぎもせず短すぎもしない、美しい形容の手。剣を握り、闇の中を掛けるのに、その指の節は立つこともせずに伸びやかだ。 紫苑は投げ出した右の手を紅真のしたいようにさせていた。 その指をなぞるように撫で、その掌に指を走らせ、その手のひらに口づける。したいように、させていた。 「なあ、紅真」 紫苑が口を開く。その視線の先にはただ天井があるだけなのに、きっと、紫苑は天井を見ながらその脳裏には別のものを思い描いているのではないか、と紅真は思った。思い、それは紫苑を神聖視しすぎた考えだな、と胸中でため息をひとつ。紫苑という人間はその外面に反して単純でガサツで短気であったので、おそらく天井を眺めているのであれば天井を見ているのに違いない。 紅真は紫苑の言葉に耳を澄ます。教養も情緒もない紫苑の使う言葉は何かを楽しませる要素など何もないのに、紅真はいつだって、紫苑の言葉に耳そ澄ませずにはおれないのだ。 「今日はすごく楽しかった。ありがとう」 紫苑の口元が柔らかな笑みを描いた。眸は蕩けるように夢見心地だった。きっと、もう眠くて仕方がないのだろう。 紅真は相変わらず紫苑の右の手を取り、その滑らかで美しい造形を好きに愛でていた。 春と秋には収穫祭が倭国のあちらこちらで行われる。国単位、村単位、農家単位。大きいものから小さいものまで様々ある中で、最も大きいのが今日、この日、今まさに開かれている、この新穫祭。邪馬台政権の中央、邪馬台国で一週間かけて行われるそこには、倭国中から品物と人が集まる。特にこれだけの国の賓客が一堂に会すなどそうそうない。紫苑も今ではその内の一人となり果てた。 壱与から紫苑に与えられたのは、彼の故国の跡地。そこで、彼は静かに死んでゆく。 「こんなに楽しいのは久しぶりだ。父上も母上もお歓びになっているだろう? 二人は未だ宴に?」 「ああ、女王との会話も楽しんでいる」 「壱与はたいへんだな。いつも働きづめだから、たまには息抜きの釣りも許してやらないと」 「息抜きばかりしてるぞ」 「ああ、あいつらしい」 紫苑がぐずった。やってくる眠気と、裏腹にまだ起きていたいという欲望の板挟みに、小さな癇癪を起したのだろう。 「たくさんの旬の恵みばかりを集めて、まるで神々の国のようだな」 「神々の国?」 「ああ。紅真は知らないのか? 深い深い海の底。そこは神々の世界なんだ。だから、人は決して立ち入ってはいけないし、そもそも立ち入ることができないようになっている」 人がそもそも水に浮くのはそのためで、人が水中では思うように動くことはおろか、息をすることさえ出来ぬのもそのためである――とは、紫苑の故国の教えである。 「海の中はそれはきれいなんだ。あの青は空の青さなんかとは比べようもできないほど神秘的で…。人の立ち入ることのできる表面でさえあんなに美しいんだ。海の底――神々の国はどれほど美しいんだろう」 うとりと、まるで蕩けるように語る紫苑の表情は本当に魅惑的で、紅真は己の理性が外れずにいることが残念で仕方なかった。理性の箍が外れてしまえずにいる理由など分かり切っている。紫苑の、あきれるばかりの無恥さ加減がそうさせているのだ。 紅真はそれを仕方がないと思う。彼は中央からは遠く離れた辺境の田舎に籠るように生きているのだ。 倭国が統一されてからのその科学水準の進展の目覚ましさたるや、かつての旧文明の担い手である高天の民たちでさえ目を見張るであろうほどもの。異空間を発見しそこに築かれた高天の都さえ霞むほどのそれは、しかしまだ日が浅いが故に、中央とその周辺というごく限られた場所でしか触れることのできないものであった。知識も技術もすべて、進んでいるのはその発展の中心地だけで、それが倭国中に行き渡らせるにはその技術躍進の何千倍も難しく感じれらた。 故に壱与はこういった祭りに積極的だった。 辺境からでさえ人の集まる限られた機会。特に各地域の代表が集まるのだ。この機会を逃す手はない。もはや彼女の夢はただ「戦のない平和な倭国」にとどまりはしない。その永久性を確保するためにできるすべてのことを成すにはあまりにも短い人の命の限りの中で行おうとしているのだ。己の人生のすべてを投げ打ってのことと覚悟しているだろうその姿を、紅真は少なからず認めている。感心しているのだ。だからこそ、彼は彼女に手を貸していた。 政治的に優れた手腕と情熱を持つ壱与と、客観的知識と技術を持ち、その応用力に優れた紅真。この二人が倭国の文明水準を大陸のそれを超えるほどに、今、引き上げようとしている。 紫苑が選んだのは、もはや失われた故国の鎮魂に身を費やすこと。誰が責められるだろう。無惨にも失われた命たちの、その安らぎを願う人生を選ぶことを、人であるならばこそ否定することなどできはしない。死を悼む。人は他の生き物に比べてとかくその期間が長いのだから。そしてそれこそ、紅真が望んだことのなのだから。 壱与から国造りに手を貸してほしいと要請を受け、紅真が提示した条件は二つ。ひとつは方術の使用を禁じさせること。その徹底のためには紅真も尽力している。そしてもひとつが、紫苑に故国の土地を与えることだった。 人の心は思うよりも強靭で、思うよりもずっと脆く繊細だ。酷く傷ついた肉体には傷跡が残り続け、そこが他の部位よりも脆弱であり続けるように、一度壊された精神もまた、同様だった。同様であるのだと、紫苑が証明した。 回復した直後からだったのか、或いは傷の開くきっかけがあったのか。そこまでは分からない。ただ、紫苑の精神が病んでいく――ゆるやかに、正常であるとは到底言えぬ状態に陥っていくのを、紅真は気付きながら、それを隠した。他の誰でもなく、紅真が真っ先にそれに気づいたのは、きっと、紅真が紫苑だけを見ていたからだ。その心具が酷似するほどに、その対象に執着していたから。 なぜ隠したのかなど、紅真にだってわからない。それで紫苑を越えられるなどとは、もう思ってなどいなかった。そもそも、死にかけの人間に挑んで勝って、何が勝利だと云うのか。ただ、誰も知らない、紫苑すら知らない紫苑を、独り占めできる優越感を手放せなかっただけなのかもしれない。 紅真が隠したから、紫苑と心を繋げた壱与はそこに気づくのが遅れた。いや、その頃の壱与はもう、紫苑と出会った頃からは比較できないほどに幅広く、広大と称せるほどあらゆることに関がを廻らせ、気を配らなければならずにいたので、紫苑の状態に気づくのは、やはり遅くなったかもしれない。 常は中央政府から遠く離れた方否か。壊れた精神を真綿で絞め殺すように生きている紫苑。年に数度だけ、こうした大祭の際にだけ、紅真自ら紫苑を迎えに行く。会うたびに紫苑の崩壊は進み、今日はもう、まともな会話も成り立たぬ。 「神々の国はどれほど美しいのだろう」 紫苑は同じ言葉を繰り返す。紅真は紫苑の、変わらぬ紫水晶色の瞳から視線を反らした。 海底は暗闇だ。深ければ深いほど、そこは死の世界へと似通う。 ああ、壊れた心を崩れるにまかせ、隔離されて生活する紫苑には到底解からぬことだ。数年前にはもう、海底に潜る術を人は手に入れている。 そこには陽の光の届かぬ漆黒の闇が広がるばかり。水圧の凄まじさに、まともな形さえ保っていられない。 それは虹の彼方も同じこと。雲の上には何ものも乗ることなどできず、空の先にはやはり漆黒の死の世界が広がるばかり。もし楽園があるのなら。もし、楽園があるとするのならば――。 そこはここに。この場所に。生まれ、生きるこの世界の他には、なにもない。 「紫苑」 紅真は紫苑が嫌いだった。だって、紫苑はいつだって、自分の世界を捨てはしないから。 捨てずに信じ続けるその理想。そのこと割。それらが紫苑を強くすると知っていたから、紅真は信じている何かではなく、目の前にある現実によって強くあり続けようと誓った。壱与という女性はその中間にいるのだろうか。己の夢の世界を、現実の上に築こうとしている。探し続けるのではなく、築くことを選んだ。紅真はそこに考えが及ぶ度にうっそりと笑う。シュラという男もまた、壱与と同じことをやろうとしていた。そして今は、その彼女の下で紅真など比べ苦もないほどに尽力し、諸国を駆けずり回っている。 彼女が紫苑よりは紅真により近いところがあるとすれば、そしてシュラよりもその理想日数ているとするならば、それは、自分の夢だけが新の理想郷だと信じてはいない点にあるだろう。彼女は自分の幸福と、そうでない誰かの理想が異なっていることを知っている。そして、それぞれの妥協点を見出すことができる。 「なあ、紫苑」 神々の国などどこにもないのだと、今、紅真がそれを告げても、紫苑の心には届かないのだろう。 |
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back 祭りの名前に時間をかけることをしないのは、もはや自分のネーミングセンスが皆無だということに、いい加減気がついたからです。 どうしよう。もしかしてここでの邪馬台国の科学技術は21世紀のそれより上の水準かもしれない。 written by ゆうひ 2009.03.20 |