◇ 眠れぬ夜をどうぞ 1 ◇
---*20030409*-----------------------------------------------------------------ゆうひ---
『 そこは炎と夜と塵の匂いに満ちている。 ここは雨と朝と苔の匂いに満ちている。 その本質はどちらも同じ。 世界は血の匂いに満ちている。 』 紫苑はその瞳を開き、腹筋と腕を利用して上半身を起こすと、その反動のままに一回転し、膝を折った体勢のそのままに右足を後ろに引くようにして、それまで自分のいた場所に向き直る。 膝を追って腰を落としたままに見たそこには深々と短剣が突き刺さっていた。 空は濃厚な墨をたらしたような闇色をしている。月のないその夜はあまりにも暗かったが、それまで閉じていた瞳は暗闇に慣れ、紫苑は視界に不自由するようなことはなかった。 耳には夜行性動物の遠吠えと、風にざわめき擦れる梢の音が届く。 彼はゆっくりと口を開いた。 「なんのつもりだ…朱鳥(アケトリ)」 カサリ。 紫苑の呼びかけに答えたのか、彼が先刻前まで眠っていた大木の影から彼と同じ背格好ほどの人影が姿を現した。 夜の闇にも分かるほどに鮮やかな朱色の髪は、松明の炎を思わせる。その瞳もまた同じ色をに輝いていた。 朱鳥。 それが現れた少女の名だった。 「ネボスケ紫苑クン。夜は君だけの時間じゃないんだよ」 朱鳥は愉しそうに笑いながら云った。 紫苑は眉間に皺を寄せながら、その薄蒼の瞳をただまっすぐに目の前にいる少女に向けていた。 朱鳥がくるりと一回転すると、彼女の着ている服がやわらかく夜景に舞う。 「イヤネ。紅真クンが酷く君のことを心配していたから」 朱鳥は再び笑う。それは大人が子供の微笑ましさに瞳を細めるような笑だったが、笑われる対象である紫苑にとってはただただ不愉快なだけのものでしかない。 顔を顰めれば朱鳥が愉快になるだけだと知りつつも、彼はそうせずにはいられなかった。 「君は感情豊かに過ぎるんだよ、紫苑クン」 「お前に云われたくない…」 「アハハ。かもね。でも、そんなんじゃあ、また、一番大切なものなくしちゃうよ」 「大切なものは…もう、なくした」 「だから「また」あらわれるのさ」 「必要ない」 「必要なくたってあらわれたらお終(しま)いだ。それは君を捕らえて離さない」 気がつけば朱鳥の顔が目の前に迫っていた。 上目遣いに覗いてくる松明色の瞳を静かに見返す。 暫く睨み合いが続いた。 張り詰めていた気を抜くように、先にその視線をそらしたのは、以外にも朱鳥の方だった。 まるでつまらないとでも云いたそうな表情で、彼女は最後に付け加えた。 「紅真クンは、そのせいで今、眠れぬ夜を過ごしているよ」 「……俺はお前のせいで眠れなくなった」 「それは失礼。ドウモゴメンネv」 クスクスと。 木々の群れの中に歩み行く後ろ姿を見送り。その姿が完全に見えなくなってから、紫苑は小さな溜息をついた。 「炎と夜と塵が、いつだって、俺を眠らせない」 瞳を閉じれば写るのは、あの日。 大切なものすべてを失(な)くしたあの時。 そこは、血の匂いに満ちていた。 |
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