◇ 涙(るい) ◇





---*20030422*--------------------------------------------------------------ゆうひ---




 『君が微笑ってくれて良かった』

 そう云って、彼女はいつもと同じように、けれどいつもとは異なる静かな微笑を、風にのせました。



 その日は初夏の陽気に包まれた、梅雨の湿り気を帯びた風が吹いてた。
 紫苑は一人、草原を歩いていた。目的もなく。
 不意に歩みを止める。
 目の前には彼にとって掛け替えのない人。

「壱与?」

 紫苑は思わず呟いていた。
 驚きにその翡翠の瞳を見開いて、彼女は勢い良く振り向く。
 その瞳に浮かぶ涙に、今度は彼が目を見開いた。

 いつだって、彼女は笑っていたから。

 それは太陽のように明るく、生命力に満ちていた。
 彼女が笑えば、その周りも笑みに包まれる。
 幸福に包まれる。
 それは、まるで太陽の光が射すと花が開くような…陽だまりに胸をなごますような。

「あ、紫苑くん。えへへ、見られちゃったね」

 壱与は慌ててその涙を拭おうと、手で瞳を擦る。
 紫苑は我知らず、腕を伸ばして瞳を擦り続ける彼女の腕を取っていた。

「赤くなる…」

 涙と、それを拭おうとした行為と。
 仄かに朱に染まった、彼女の日に焼けた肌。翡翠の瞳が紫苑を見つめる。

「……―――泣き虫は、直ったと思ってたんだけどなぁ…」

 まだ、泣き虫のままだったみたい。

 そう云って、彼女は照れたように微笑ってみせた。
 胸が締め付けられる。
 気がつけば、紫苑は壱与を胸の中に抱き込んでいた。
 いつの間に、自分の身長は彼女よりも高くなっていたのだろう…。そんなことを、考える。

「泣けばいい」

 彼はぽつりと呟いた。
 それは小さな小さな声だったけれど…彼に抱き込まれている彼女に届くには十分な声音。

 ゆっくりとその肩を震わせて、彼女は涙を流し続けた。

 理由など、どうでもいいこと。



『あなたは、涙さえ美しい』

 彼にできるたは、ただ、涙を流す彼女を無言で抱きしめることだけ。
 それだけ。




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