◇ 月ニ奏デ ◇





---*20031118*--------------------------------------------------------------はづき---




 中空に、月ひとつ。
 ついこの間まで盛んに聞こえた、虫たちの声も今はない。
 静寂の中、紫苑は大木の幹に背を預け、天を観た。
 かすかに青みを帯びた真円の月が、地上に冴えた光を投げかける。
 その様は、言うなれば夜の太陽。
 ふいに一陣の風が、地を走り梢を鳴らした。
 ざわざわ、ざわざわ。
 光と闇が交錯し、音のない世界に満ちる律動。
 一瞬翻った髪と外套を押さえて、紫苑は目を閉じる。
 暗闇に恐怖はない。自分が今まで辿った道に比べれば、この闇のなんと安らかなことか。
 地を撫ぜて通り過ぎた風は、紫苑の周囲に柔らかな草の匂いを置き土産に残した。それに惹かれて、紫苑は戯れに手を伸ばす。
 指が触れたのは、名もなき小さな草だった。
 少し力を込めただけで、難なくちぎれた一葉は、鮮やかな緑と凛としたしなやかさを残したまま、紫苑の手に収まる。


 遠い記憶が、脳裏をよぎった。


 一時の風に目を細めた壱与は、ふと耳を澄ました。
 ――聴こえる。
 波のように高く低く、澄み渡りすぎてともすれば現(うつつ)のものとは思えぬような、音。
 誰が奏でるものか、分かるような気がした。
 だって、似ている。
 清冽すぎて、触れるのをためらってしまうような、澄んだ空気。
 それでも人を惹くのは、内に秘めたやさしさ。
 今、空に輝く月のように。
 壱与はそっと地面に下り立ち、音の源を求めて歩き出す。
 導く音は、止む気配も見せない。
 ――やがて、とある大木を望める場所で、壱与は足を止めた。
 幹に背を預け、唇に当てたひとひらの葉から音を紡ぎ出す、思い描いた通りのその姿。
 聞いたことのない音の連なり、見たことのない儚げな表情。彼が月を見る時は、過去に思いを馳せる時。
 壱与はそのまま目を閉じて、彼が奏でるうたを聴く。
 暗闇も、怖くなどない。
 このうたを奏でる、あのひとは確かにここにいる。


 中空に月ひとつ。
 ――そして、密やかな調べが、虫の声の代わりに世界に満ちた。




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