+  陰陽連 +



美しい華を手折ることのできない甘さで




 私がようやく農作業を手伝えるようになった頃には、その人はもう随分と年齢を重ねていた。
 高い天井。傾斜のきつい屋根のすぐ下にだけ、明かり取りのための隙間があるだけの薄暗い部屋で、彼女はいつだって心穏やかに座していた。
 幼い私は光栄なことに他の人々よりほんの少しだけ、その人のお側近くにお仕えすることができていた。その当時はそれが本当に光栄で、幼心にも強い責任とそれにも増した誇らしさなどというものを抱いていた。
 その人の名を卑弥呼。邪馬台国の初代女王。あの広大な邸宅に隠(こも)り、いつも占(せん)をしていた女。
 彼女が亡くなって、もうどれほどになるのか。数えればすぐに分かることだが、あえてそうしようとは思わなかった。
 人の消えゆく数を数えるほどの感傷など、今の私には必要のないものなのだから。死者は死者のまま、蘇りなどしないのだから。

 死者であり続ければいい。


 日々は平和に平坦に過ぎていった。あの人はいつだって占をするだけ。今ならばその異様さに嘲笑するところだがその当時は尊敬の念に私の瞳は支配されていた。
 彼女に直接目通りを許されているものは少ない。幾人かの女官と彼女の弟。清廉な彼女が愛した男。
 男を愛していることを彼女が語ることはただの一度とてなかったが、あれとて女であったから。心惹かれる男がいることの、何が異常であろうか。まして華が咲くほどに可憐で鮮やかで。流水の如き聡明で清らかであれば。
 まだ幼い私の憧れの女。敬愛の対象。
 ただ眺めているだけで満足だ、などと本当に欲のないことだと思う。それが当たり前だと感じさせる女だったのだと今ならば思う。


 女と言葉を交わした者というのは、女の身分を鑑みれば思いのほか多かったのではなかっただろうか。こんな私でさえ言葉を交わした。とうてい身分の理解しえないような子供らにまで微笑いかけていた。
 子供に。
 子供だからこそ、彼女はその姿を表したのかもしれない。邪気に触れることを神経質なまでに避けざるを得ない身であったから、子供にくらいにしか直接に触れることが叶わなかったのだろう。
 奥に隠れがちだった女は、よくよく子供に語りかけては説いて回ったていた。。

「語り合う姿勢を、決して捨てないでいてね…」

 女は戦を──その本心が、実際のところどこに向いていたとして──許しながら、同じことを生涯説き続けた。
 死の瞬間まで。
 私の決して説得されなどしないことを知りながら。そのことに憂いながら、それでも涙だけは流す気配さえ見せなかったと思い至る。
 絶望もしなければ取り乱して立つこともなく、声を荒げることさえなかった。
 死の瞬間のその時でさえ。
 静かに黙して地の闇へと消えていった。彼女に付き従った数多の女たちを引き連れていくことへの葛藤など微塵も見せずに。彼女らの恐怖や盲目なまでの崇敬の念への自身の見解を押し殺して、大地の闇へと消えていった。
 強い女だった。
 誰より強いものだった。

 もし、今私の前に彼女が立ちはだかれば、私はあっけもなく打ち負かされることだろう。その意味で、彼女がすでにこの世への干渉せざるすべのないことは、私にとって言えば幸運であるのかもしれない。たとえ今彼女が生きていたとして、彼女が私の前に立ちはだかるなどという事態など起こり得(う)るはずもないが…。
 あれは自ら立って立ち向かう女では、なかったから。


 その日は突然訪れた。
 いくつの国を打ち倒そうとも、その国の再生される以上の速さで新たな国が生まれ戦を仕掛けてくる。戦うのは兵士ばかりで、この国は──少なくとも私が物心付いた頃には──常勝していたから忘れていた。
 戦には少なからず嘆きと憎しみの生じることを。
 その日は晴れていただろうか。私の記憶は赤く染まり、それさえも思い出せない。
 父や母や兄弟らが死んだことよりも、ただ自分のすぐ隣で目まぐるしく起こりうる事象…それまで想像することさえし得なかった数々のことに、茫然自失となっていた。
 眺めているだけ。
 おそらくそれが最も正しく当てはまる、私の姿。死体のように佇んでいた。

 敗戦の後には瓦礫と死体。所々で硝煙の上がっている。わざわざ火まで放つ徹底振りに、いっそ感心した。意図せず漏れた笑みにはなんと名のつけるべきだったろうか。今も、答えなどない。
 静かにして考える暇さえなかった。
 あちらこちらで人々の駆け回る足音と、呻き声と、泣き声と…叫び声。脳にまで届かぬそれらの雑音が聞こえていることを漸く自覚して、よくもこれだけの人間が生き残っていたものだと口を引き攣らせるようにして笑みを作った。
 もう、笑うしかなかった。

 彼女は今回の責任を取らされる事となった。
 彼女を責める声を聞きながら、私の前では今も痛みに顔を歪めている者たちがいて、その視線のさらに先には家の建て直す男たちの姿。
 誰も彼もが満身創痍で、明日の食べるものの事を考えるまいとしていた。
 焼け残った穀物は少ない。今年の稲は全滅だ。

 また、笑いが込み上げてきた。今度は腹の底から。
 愚かしかった。
 自分がこんなにも愚かしくくだらない世界にいたのかという事実に、自暴自棄になってしまいそうだ。
 他にいくらでもやるべきことはあるだろう?
 敵も多いが敵ばかりでもないだろう?
 誰かに助けは求めないのか?
 山にも川にも食料は求められる。まだ動けるものをまとめるのお前たちだろう?

 一人の女にすべてを押し付けるのか?
 それで終わるのか?


 あれから幾歳の夜が過ぎたのか。復興するには足りないが、体裁を整えるには十分な時間が流れたはずだと思ったが、その国は未だに焼け野原のように、この目には写る。
 その間、女は牢の中に閉じ込められていた。
 女の命の潰えたその前夜、私は女に会う機会に恵まれた。それは私が勝手に作った機会だが、私にはどうしても必要だった。
 そして私は再確認する。
 その女は、やはり強かった。

「あなたの考えで、あなたの理想の世界は築けますか?」

 随分とやせ細った、痛々しい姿だっただと思う。そんな様子は声にも態度にもおくびにも見せはしなかったが。
 そうとうに、辛かったはずだ。
 肉体的にはもちろんだろうが、それ以上にその心が辛かったはずだ。誰の悲鳴や泣き声が聞こえても、その手を差し伸べることさえできぬことは、この女にとってはそうとうに…。

「私には、未来を見る能力はありません」
「わたくしにも、そんなものはありませんでした…」
「そうですか?」
「ええ…そうですよ。―――わたくしには、いくつかの存在する未来の僅かを予測するのみです」
「……」
「もう、戻らぬつもりですか?」
「…あなたの予測した未来の通りに」
「戻る未来を見たいと願いました」

 彼女の瞳が伏せられる。
 素直に、美しいと感じた。

「…話すことをしてくれて、ありがとうございます」
「……」
「できれば、これがその最後にならぬようにと…」
「その願いが叶わぬ未来を、私は見ました」
「……未来など、実際にそうなってみなければわからないもの」
「未来は、未来を作り出す意思のあるものの手によってつくられるものです」
「……そう、ですね。わたくしも、そう思います……」

 彼女は微笑った。

「…もう、行きます」

 私は背を向けた。
 翌日の朝は晴れていた。空の青さは透き通るように。
 高台の上から、女の生きながら埋葬される様を見つめていた。
 これを、最後の風景にしようと漠然と望んで。
 私は、修羅の道を行く―――。




振り返る道さえ残さぬ幼さで




----+ こめんと +----------------------------------------------------

 これも携帯で書いてみたり。陰陽連を創設したのがシュラなのかどうかは知りませんが、そうだとして。
 きちんとシュラの過去を書いたのはこれが初めてかもしれません。

 ご意見ご感想お待ちしております_2004/06/28

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