+  国 +



国とは何をもっていうのか




『国にとらわれし愚かな民を高天の都へ行かせる訳にはいかんのさ』

 この国を滅ぼし、私の国民をことごとく殺戮して回った男はそう云った。




 国とは何をもっていうのだろうか。
 ただ人の膨大に集まったところを云うのか。王がいて、民がいて、人の営みを役割を分担し合い、助け合い、一定の秩序を置いてその統制を図る。
 民は国を守るために戦い、血を流す。なぜそうするのか。国があればより安全に生きていけるから?より楽に生きていけるから?
 死んでしまっては意味がいないではないか。さっさと国を捨てて散り散りに逃げた方が利口だ。一人で逃げると危険だというのであれば、数十人単位で逃げればいい。獣と戦う力も食料を確保する力も十分だろう。
 やがて同じように逃げた別の団体と合流して小さな集落を作ってもいい。そこからまた小さな村が興り国へと発展するのかもしれない。

 国とは何を持っていうのか。
 大きな集落。とにかく巨大な集落。ただそれだけのことなのかもしれない。
 たとえ集落が小さかろうと、代表が立ち、小さな規則は生まれるものだ。そしてその情熱の大小はあれ、人は自分の身を寄せる集落を守ろうとするのが常なのだから。

 散り散りに逃げた方が生き延びられるのに。集落などさっさと放棄してしまった方が楽なのに。
 人はなぜそれができないのだろうか。
 集落内で安定した生活を送れている場合は、集落からの離脱は過酷な生への一歩となる。逃げ出すことは愚か、その規則を破り自ら進んで追い出される真似をするものも稀だ。
 だが戦は違う。負け戦ともなればなおさらだ。
 死ぬ確立などとは云うまい。生き残れる確立は無いに等しい。生き残ったところで行き続けられるのか。周りには何も無くなり、誰もいなくなるというのに。
 それでもなお、自分の身を寄せる集落を守ろうとするのだ。もうその形が原型をとどめることもないのを知って、それでもなお自らの命を盾にして。
 義務からか。家族がいるからか。汗水たらして作り上げた多くのものがあるからか。
 ――…そうなのかもしれない。
 長い時間をかけて築き上げられたそこには、捨てるにはあまりにも心痛む多くのものが存在している。生きるために必要なものばかりではなく、そこには捨てることのできぬ「過去」が、思い出が蜉蝣のように坐しているのだ。
 過去だけではない。一見すると同じく代わり映えしない「国」は、それぞれに確かに「個」を持っている。小さな習慣の違いだ。それが踏みにじられるのが、やがて失われてしまうのが怖ろしいのかもしれない。
 墓を暴かれて痛むのが、そこに眠る使者の魂ではなく、そこを訪れる生者であるように。
 そこにある「そのもの」を無視して、その周囲がただ勝手に、それこそ子供の我侭のように固執しているだけなのかもしれない。

『…必ず復興させて下さいね。犠牲になった人達のためにも…』

 生き残ったのは私を含めて十数名。焼け落ちた建造物群を見渡して、私たちの復興に手を添えて下さる彼(か)の幼き女王は云った。
 そういうことなのだ。
 生き残ったのはたったの十数名。それでも私達はそこから離れることができず、自分達の国を捨てることもできない。
 倭国統一の夢を諸国と共通にしながらも、各々の国を捨てることができない。倭国統一を果たしたいのであれば、まずは自らが「連合国」などとはいわず「邪馬台国」としてしまえばいいものを。いや、いっそ「倭国」としてしまえばいいのか。
 そうではないのだ。
 人が残したいのは個としての「国」ではない。自分の依る文化、価値観、土地。そういった漠然とした数々のものが確かな一つの形として集合した「国」なのだ。
 きっと、そういうことなのだ。
 人は、形の無いものにこそ強く心を動かされ、その形のない心にこそ、行動を決定させられる。それでありながら、形の無い何かを「形」あるものとして認識せずにはおれない。

「犠牲になった人達のために」

 失われたものへの悲しみに打ち勝つ、それが「形」だ。それを目に見える形にしたものが、「国の復興」であり、「復興した国」だ。
 そしてそれこそが、あの男の云ったような「国にとらわれる」ということなのかもしれない。誰も彼もが自分の主張ばかりを押し通そうとする、悪癖の形態化したもの。
 それは確かに愚かだ。
 あまりにも愚かだ。
 それでも、私はそれをただ「愚かである」と断じて捨てることができないのだ。そしてそのことをまた、あの男は「愚かである」と断じて笑うのだろう。





「国王、ここはどうしますか」

 私の民が呼んでいる。空は高く蒼い。風が汗を冷やし火照った体に心地良かった。

「待っていてくれ、今そちらへ行こう」

 私は応える。
 ひとまずは、新しい生活のために、先に起きたあまりの悲劇による痛みから立ち上がるために。体を動かそうか。
 立ち止まっていては生きてはいけない。身も、心も死んでしまう。生き残った身としては、それが許されざることと思わねば、生きていくことさえも出来ないだろうから。
 幸い、仕事は限りない。
 復興には長い長い時間を要するのだから。生きている限り、人は無為に立ち止まることを許されるものでもないのだから。
 気長に、地道にいこうではないか。




『再び「国」と呼べるまでになるには長い長い時間が必要ですな…』

 焼け落ちた国を望みながら、それが私の答えだった。
 ところどころにはまだ硝煙がうっすらと立ち昇り、一見すると穏やかな風に乗ってその香りが運ばれて鼻につく。道のりは遠く、事は始まったばかりだった。
 高天の都へ訊ね、倭国を統一してもなお、それを「国」と呼べるようになるまでには、長い長い、時間がかかるのだろう。




それは無形なるものを寄せる依代




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 誰も覚えてなかったらどうしよう…な、安志国王です。名前も出てません(ないよね?)。なんか重臣らしいフナツおじいちゃんしか名前出てなかったはず…。というか、物語中の安志国王はもっと明朗な人っぽいんですけど(汗)。こんなことぐだぐだ悩まなさそう…っていうか考えなさそう。もっと単純な人なんじゃないかなと。
 邪馬台国の人口は魏志倭人伝だと7万戸だからそれを信じると推定人口28万〜105万人と膨大になるんですよね(1戸に4人〜15人計算)。伊都国なんかが千余戸とあるので、国=人口約3000〜4000人弱の集団と考えて書くことにしました。でも千人に届かなくても300〜500人くらい越えたら国と名乗っているところもあったのかもしれません。ただ、邪馬台幻想記では邪馬台国を中心とした周辺諸国の同盟体として「邪馬台連合国」としているので、邪馬台国の人口=邪馬台連合国の人口として考えていたかも。そうすると7万も一国が7万と考えるよりもずっと落ち着きやすいのもかもしれませんが…まぁ、そのへんはあくまでも事実をもとに想像された架空物語ですからね。実際、弥生から古墳時代にかけての形態について突っ込まれても答えられません。だって過去のすべてを知ることなんて現段階では不可能なんですから。
 長い。長くなりましたがまだぐだぐだ語りたい。でもやめときましょう!!(愚痴っぽくなるのも嫌だし)。
 ご意見ご感想お待ちしております_2004/09/09_(c)ゆうひ

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