すこし前までできたこと


彼は男で、彼にとって彼女は女だった。




 二人ともが、すでに十五を向かえて成人していた。蒼志はあと一、二年もすれば王位を継ぐだろう。未だ王位を継いでいないとはいえ、彼はすでに三十を超える妻を持っている。子供もいておかしくはなかったが、彼には未だその兆候は見えなかった。
 緋蓮は未婚であったが、それは彼女自身がそういった方面への興味が極端に薄いためであるだけで、彼女と同年代の少女たちはすでに婚姻しているものの方が多かったから、彼女が放っておいても村の中で縁談は進むだろう。

 彼女の器量は王侯貴族に比べても飛び貫けて優れていたし、何より働き者だ。賢く、年長者を敬い、子供たちの面倒も良く見るから、誰からも慕われ敬意を寄せられている。決して卑屈にはならない彼女の不思議な孤高な様(さま)は時に人々を遠ざけるが、それもまた数多いる平民にはない魅力を彼女だけに持たせていた。

 そんな中にあって彼女は相変わらず疑問に感じていた。或いは呆れていた。

「ねぇ、どうしてこんなところでこんなことをしているわけ?」

 彼女は問うた。右手を腰に当てた彼女の体勢こそが、彼女の心情を如実に語っていた。
 肩の力を抜いて横に下げられた左の手には何も握られていない。彼女はこの場に来たばかりで、先客はすでに大量の山菜を摘んでいた。
 先の問い掛けはその姿を見て開口一番に発せられたものだ。いったい彼は彼女の訪れるどれほども前からここに訪れ、こうして山菜摘みになど勤しんでいたというのだろう。

「日課だ」

 蒼志は答えたが、相変わらず作業の手は止めない。屈みこみ、緋蓮に背を向けたままで黙々と山菜を摘んでいく。
 以前にこれと似た、けれど役割の逆であった場面があったなと緋蓮は頭の片隅で考える。それが美しい思い出であるはずもなく、ただ彼女の記憶がいいがために起こった事象であった。
 故に、彼女は脳裏を過ぎる思い出になんらの感傷も抱かなかった。

「あなた、他にやることがいくらでもあるでしょう? こんなところで閑(ひま)してないで、この国のために汗水たらして働きなさいよ」

 緋蓮が呆れを隠しもせずに云うのに、蒼志は無言で返した。彼の返答の拒否に、緋蓮がため息をついて言葉を紡いだ。内心、彼女は彼のその行為を不貞腐れた子供のようだと感じていた。ため息はそれに呆れたためでもある。
 考えてみると、彼女はいつだって彼の子供っぽさに呆れてばかりいるような気がする。それこそ出会った当初から、今に至るまで。彼も彼女も、何も変わっていないかのようだ。

「集合された中において、人はそれぞれ役割を負っているわ。そして私の役割とあなたの役割は違うし、あなたの役割の中にこの作業はまったく含まれていないのよ。あなたにはそれ以上に優先されるべきことがあるし、だいたい、あなたには閑なんてないはずでしょう? あなたの数えるのも面倒な数の奥様たちを放っておくつもりなの?」

 最後の台詞は何かを意図して発せられたものではなかった。彼女にはそういったことに関する関心が極端に欠けているのだから。ただ、彼女の周囲はそうではないし、彼女の友人を含め、井戸の周りではそういった話題が良く上(のぼ)った。
 彼女はそれを不意に思い出したに過ぎない。

 蒼志の肩がぴくりと跳ね上がり、緋蓮はそちらの方にこそ驚きに瞠目した。
 彼の動揺は一瞬のことで、彼はすぐに止まった動きを再開した。何事もなかったかのように。
 かれど彼女の本意とは別にして、彼女の彼との付き合いは長い。まして聡い彼女のことだから、彼の動揺を見落とすはずもない。

 思いがけない蒼志の反応に虚(きょ)を衝かれ、緋蓮はぱちぱちと瞳を瞬(しばた)いた。彼の背中は相変わらず黙し、彼女がそれを積極的に追究するには、彼女はあまりに淡白に過ぎた。
 仕方なく彼女は肩を竦めて自らもまた彼が先行していたものと同様の作業へ勤しむために膝を折り、腰を屈めた。彼はいつだって摘み取った山菜、薬草の類をすべて彼女へと引き渡すので、ここ数年の彼女の働き振りは群を抜いていると思われている。
 いったいどのようなスピードで行えばそれだけの量を一度の作業で採ってこれるのかと、老若男女が首を傾げる。
 当然ながら緋蓮は真実を語るわけにもいかず、いつだって曖昧にお茶を濁す破目になる。今ではもう本気追求するものもいないが、そのために緋蓮の採集作業は彼女一人で秘密裏に行われるものだと定着してしまったことが彼女には聊か煩わしかった。
 他の女性たちは友人同士で行っているし、彼女も以前は頻繁に誘われたし声を掛けられたものだ。彼女にできることは多く、彼女の仕事はこれだけではない。忙しいときは弟妹に頼んでも差し支えないような簡単な作業である採集を、彼がいるがために彼女は任せることができずにいた。
 様々な些細な弊害が、流石の彼女の胸にも小さなしこりを作っていた。

 別に気にすることなどないのかもしれない。
 そういった考えが緋蓮の脳裏を過(よ)ぎったことは一度や二度ではない。
 次期国王が暢気に山で採集になど明け暮れている。そのことが引き起こすであろう大小の紛糾について緋蓮は思いを馳せ、その度に彼女はそれが国を動揺させることに眉間の皺を寄せ――緋蓮は決して月代国を愛していないわけではないし、まして国が倒れてもいいなどとは当然思っていない。ともすれば彼女は数多いる平民の誰よりも、『国』といったものを、その安定を考えているかもしれなかった――、何よりもそれに自分が巻き込まれることを酷く厭(いと)った。

 なぜそんなことを口走ったのか、彼女は後々どれほど思い返してもみても分からなかった。

「本当に、帰りなさいよ」

 緋蓮の声は思いの外(ほか)静かだった。まるで辺りのざわめきさえ飲み込んでしまうかのような、奇妙な落ち着きが内包されているかのようだった。
 採集の手は止めずに。蒼志へ視線を向けることはせずに。
 彼女は淡々と言葉を紡いでいるようだった。

「あなたを待ってる人はたくさんいるのだから、あなたはその人たちのところへ帰るべきよ。だって、いつ来てくれるとも知れない誰かを待つことってとても淋しいことだもの」

 彼女にはそんな相手はいない。だから、彼女にはそのことの本当の淋しさというものは、実は分からなかった。
 ただ、それでも彼女は女だった。そして家族を愛していた。だから思いを馳せた。
 自分と、自分以外の誰かのための家。場所。
 そこに自分ひとりが取り残されたときの寂寥はどんなものだろうか。その空虚さはどれほどのものだろうかと。
 誰かへ嫁ぐということ。誰かと一組(ペア)になることを受け入れ、それへ思いを馳せること。
 そしてそれが裏切られること。華やいだ希望と氷河期のような現実の差に対面したときの悔しさと悲しみ。暗い場所に佇む感情。

「すべての人を愛せる度量を貴方が持っているとは到底(とうてい)思えないけれど、きちんと向き合いもせずに、端から会いもしていないんじゃないの」

 彼の生活の実情など、彼女は知らないのだ。ただ想像を働かせたに過ぎない。
 いつも蒼志は彼女に話した。ここに来て、自分の生活の断片を。
 やれ釣りをして大物を釣り上げたとか。剣術の訓練で師に勝ったとか。同年代の少年たちと勤しんだ遊戯のこと。そして時には勉強が嫌だと愚痴り。
 その時間を彼女は呆れながらも楽しんでいた。それは弟妹がその日の出来事を一生懸命に話して聞かせる様に付き合う微笑ましさに似た楽しさだったけれど、確かに彼女は楽しんでいた。

 この時のことを回想する都度、緋蓮は幾度となく自分自身への嫌悪感に駆られる。なぜそのような思い込みをしたのかと。なぜそのような自分よがりな押し付けを強(し)いたのかと。
 蒼志の話はあまりにも話題に富んでいたから、彼はとても忙しいのだと感じられた――それは遊ぶことも仕事も勉強も含めて、彼の中にはやりたいこととやるべきことがはちきれんばかりに内包しているのだと感じられた――からであるが、だから彼女は思い込んでいた。
 彼にはたくさんの妻があり、概ね王の妻というものは寵愛を受けたもの以外は実質の夫婦間のやり取りなどなく、お飾りも同然に放っておかれるらしい。そんな平民に浸透している噂も、知らず知らずの内に彼女へ影響を与えていたらしかった。
 だから彼女は思い込み、そして発言してしまった。真実など知らず、確認もせず、何より『彼』の思いも何も知ろうともしないまま。

「私みたいに友人づきあいのできる子っていうのは…流石に難しいかもしれないけど。まあ、男の子ってそういうことを考えるのが遅いっていうけど、そうしようと思うことからすべては始まるのよ。その人が自分の妻なのだときちんと認めて、まずは向かい合ってみなくちゃ。何も始まらないのではないかしら。会わなければ、愛することはできないのよ。もちろん嫌うこともね」

 それが決定打だったのか。それは緋蓮には分からない。
 ただその言葉の切れ目に蒼志が身を起こしたことだけは確かだった。
 立ち上がった彼の背中は、彼女がそれまで認識していたよりもずっと広く大きく、そして見上げた彼の顔は精悍であった。

 近づいてくるその姿から逃げ出さなかった――逃げ出すという言葉は適切ではないかもしれないと緋蓮は思う。そもそも彼女の性格『逃げ』というものからは程遠いものであったし、何よりそのときの彼女には彼から逃げる理由がない――のは、すこし前まで当たり前のようにあった数々の接触の名残りでもあっただろう。
 緋蓮と蒼志の出逢いは幼い頃にあった。だから体が触れ合うほどの接近になど気を寄せることさえなかった。
 それでもと思う。
 それでも、気がつけばそのような接近などなくなっていたな。手が触れ合う、肩が触れ合うことさえ、思い返せばどれほど前からなかっただろうかと。
 ゆっくりと近づいてくる蒼志の厳しい瞳をただ見つめ返しながら、緋蓮はぼんやりと思っていた。

「やっぱり、おまえ……」

 蒼志が呟き、くしゃりと顔を歪めた。
 伸ばされる腕と、それに続き近寄ってくる彼の体。どうしてそんな風にやり切れなさそうに、まるで困ったように笑うのかと、緋蓮はぼんやりと考えていた。
 彼女が彼を困らせたことなど一度だってないはずだ。いつだって、困らされるのは彼ではなくて彼女なのだから…――。




そして彼にとっての彼女と、彼女にとっての彼の差異が明らかになる。





こめんと
 なんだか緋蓮の考え方をきちんと描き切れていない気がします。このシリーズでの彼女を表現し切れていない感じをひしひしと感じながら書いています。それでも最後の方はほんの少しですが緋蓮の、賢い女が眼前の現実を捉え理解し切れていない感じが出せているかなと思います。このシリーズの緋蓮はひどく現実的でクールな女性ですが、だからこそ浮世離れした存在なのだと思います。そして彼女はある分野において世間知らずなのでしょう。浮世離れしているから人の心の機微に疎いところがあるのかもしれません。
 ご意見ご感想お待ちしております_(c)ゆうひ_2006/01/22・24・25
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