あの頃とはちがう
彼女は母になり、そして、彼も父になった。
身篭った。その原因となる出来事など、緋蓮にはただの一つしか記憶がなかった。それ以来、彼は彼女の前に姿を見せず、彼女も彼のことなど思い出そうともしない。 水辺で吐気に耐える。婚姻も済ませていない女だ。当然人目は気にしているも、こういった自分の意思とは異なるところで切羽詰った状況にあっては、当然万全に周囲に気を走らせることもできなかった。 たった一人に見られただけだとしても、狭い村内のこと。あっという間に噂は広まり、真相は経験豊かな女性たちから見れば明らかだ。 いったい誰の子なのかと詰め寄られ、それまで働き者で貞淑な娘だとの評判は一瞬で地に落ちた。今では村のものすべてが、緋蓮を汚れ物でも見るような目付きで遠巻きにする。 密やかに交わされる悪意というものは、その内容が直に聞こえているわけでもないのに、いつの間にか正確な内容が本人の耳に届くのはなぜなのだろうか。 洗い物の折、農作業の折、いたるとこで物理的な痛みを与えられた。石飛礫(いしつぶて)は大小様々で、緋蓮の体にある小さな傷は急激な速度で増えていった。 悪意に晒されるのはいたるところでなどという生易しいものでは収まらない。常だ。寝ているときでさえそれらは緋蓮に突き刺さる。 それでも緋蓮がその相手に連絡を取ることはなかった。あれが最後だと彼女は割り切っていたし、彼もまた同じ思いでいると――彼の本心がどうであれ、彼女は思っていた。 だから彼女は強くいようと思った。どうせ誰も国王の顔など知らないのだから。生まれた子供から父親が察せられるはずなどないのだから。子供が生まれれば、今度はその子供もまた、緋蓮が今まさに受けているような視線に晒されることになるだろう。 だから、緋蓮は強くいようと思った。 誰にも、何にも、どのようなものにも負けず。崩されず。倒れることなく。しっかりと立ち続けようと自分に言い聞かせるように決意していた。 そしてそれを自らの子供にも伝えようと決意していた。 それは他の誰でもない自分の分身の筈なのだ。だから、教え込まなくともその子は孤高の存在だ。どんな目に晒されようと、どんな苦境に陥ろうと。どれほどの迷いに囁かれようと。結果的には必ずや一人で立ち、前を向き、まっすぐに歩き切るはずだ。 今度からは二人できるのだ。何にも負けず、媚びずに。 それは彼女の覚悟だった。 けれど彼女の思惑は外れた。それは彼女にとってまったく悪い方向へと。すなわち最悪だった。 生まれた子供は誰の子であるのかがあまりにも明らかで、そのありえなさに周囲はどよめきに包まれる。 なんということか。緋蓮は舌打ちしたい気持ちに駆られた。 もちろん生まれた我が子に対してではない。八つ当たりしたいといえば子供の父親にであるが、ここにあって本気で舌打ちを向けたのは、或いは運命と呼ぶべき何かであっただろう。 つまり、子供の髪と瞳が黒くなかったことが、彼女にとって『非常に面倒臭い』結果を、彼女へと齎したのだった。 緋蓮は憤慨していた。元々感情を表に出したりしない彼女であったから、それはもちろん胸中でのことだったが。 子供は男の子。顔立ちはどこをとっても緋蓮に似ていると明らかだ。 これは後々緋蓮が笑い話にすることであったが、緋蓮はその子供の見た目の一片も父親に似たところがないことが最大の救いであり、幸福であったとのことだった。 しかし同時に性格が似ていやしないだろうかとの不安に駆られ、それを抑え込むのに一苦労したとも語り、彼を酷く落ち込ませたものだった。 子供は男の子。顔立ちはどこをとっても緋蓮に似ていると明らかだ。 それなのに。 それなのにもかかわらず!! 誰もその子供と彼女の顔立ちの似通っていることに気がつかない。指摘しない。 子供の持って生まれた銀の髪に青い瞳。 そればかりを指摘して、似てもいないのにかの男の子供であると騒ぎ立てるのだ。 噂は村を出て瞬く間に王宮に届き、早馬が飛ばされた。緋蓮の元へやってきた王宮からの使いを目にし、緋蓮は『いつもそんなふうに対応が早ければいいのに』と苦虫を噛み潰していた。 こんなときばかり行動の早い役人に対しては睨みつけるだけは気が収まらない。だからといって怒鳴りつけるような性質でもない。 腕の中の赤ん坊は周囲の喧騒に我関せずとばかり。すやすやと眠っていた。 ああ、これはきっと大物になるぞと緋蓮は遠いどこかを見ながら思う。 人の意見を聞かないのは、きっと自分と彼との両方に似たのだろう。できれば自分だけに似たのだと思いたいが、緋蓮は自分がそこまで美しく清らかな女ではありえないことを誰より知っていた。 男と交わらずに子供が生めるか、アホ。巫女でさえそんなこと起こらない。まして自分が聖女であるものか。 緋蓮はここにきて漸く思い始める。或いは自分はずっと混乱していたのではないのか。 妊娠が発覚したときも、子供が生まれてからも、その子供の姿にも。周囲の目が気にならなかったのは、気にするだけの余裕がなかったからではなかったか。 眼前に聳える広大な建造物。初めて目の当たりにした。 そうだ。 彼は、こういうところにいる人間だったのだ。 初めて。あれだけの長い時間を共有しておきながら、ここにきて初めてその本質に一端を垣間見たような気がした。 それまで見てきたものすべてがまるでまやかしであり、緋蓮は彼の何一つ知らなかったのだと感じた。 それはあの日と同じ。 おそらくは腕の中の赤児を身篭ったあの時に感じたものと同じものを感じている。 緋蓮は強い女性だった。芯のしっかりした人間だった。 彼女は自分を卑下しないし、つまり高い身分などというものに憧れさえ抱いたことがなかった。 それは彼女になんの感慨も齎しはしない。 初めから彼女がそういった身分にあれば、彼女はそれを享受しただろうが、それに溺れることはなかっただろう。そして現実の彼女はそういった身分とはかけ離れたところにあり、そういう身分の女が特別な寵愛を受けたときに与えられる思惑といったものは、彼女にとって面倒なもの以外の何ものでもなかったのだ。 すでにいる子供の父親である男の『妻』たちから向けられる嫉妬も、その女たちの親から向けられる悪意も、自分の世話をするのが仕事になったという侍女たちの内包する蔑みも。儀礼や様式でさえも。 何もかもが、彼女には煩わしいものであった。 「それで。今頃になって私の前に現れた理由を窺おうかしら」 緋蓮は目の前で所在無げに佇む男に冷たい視線を向けた。堂々とした様子で座す彼女を見れば、どちらが主であるのかと、その答えを知っていても悩む破目になっただろう。 幸いであるのか。この場には彼と彼女と――あとはまだ一人では起き上がることもできない二人の赤児が寝息を立てているだけだ。 余談だが、この赤ん坊は本当に良く寝る。緋蓮は村の赤ん坊の世話も良く引き受けていたが、ここまで眠りっ放しの赤児も珍しい。かなりの物音がしても目覚めない。まるで自分に被害が及ばないと理解しているかのように。 緋蓮は蒼志に座るように促した。図体のでかい男が目の前に佇んでいたら煩わしいからだ。邪魔だと言外に告げたわけだが、出て行けとは言はなかった。 話さなければならないことが、彼にも彼女にもあるのは確かであり、それから逃れ続けるにはもうそろそろ限界だった。 そう。限界だ。 そろそろ向き合わなければならない。いつまでも逃げ続けているわけにはいかないのだ。 「悪いけれど、名前はもう決まっているのよ。紫苑というの。秋の花の名前よ。9月の…秋の終わりの月に生まれたから。男の子に花の名前はどうかとも思ったけれど、好きなのよ。私。どこにでも図太く生えて伸びる、この雑草が」 緋蓮は眠る赤児の頬を優しく突付きながら云った。人差し指の先に赤ん坊特有のミルクのような体温が伝わって温かい。 緋蓮が優しく微笑を浮かべた。それはもう立派な母のそれだ。 母性に満ちたその姿に、蒼志は思わず見惚れた。 「いい…名前だと思う。男に花の名前がおかしいとは思わないさ。お前に似て美人になりそうだ」 「あらそう? 誰も私とこの子が『似てる』なんて云ってくれなかったのよ。あなたと『同じ』ってことばかりに目を向けてね」 「……悪いとは思ってる」 「あらそう? 別に思わなくてもいいわよ。私、あなたはともかく、この子は心底愛してるもの」 紫苑を見つめ続ける緋蓮の瞳に浮かぶ笑みが深まった。 「あなたは何も悪くなんてないわよ。他の誰が相手でも、こういうことについて私は受身だったと思うもの。まあ、それにしてももう少し平凡でよかったのだけれど…。これはこれで支障はないわ。少々煩わしいこともあるけれど」 蒼志は黙って聞いていた。 彼が可決しなければならない問題は彼女の本来の気持ちがどこにあるのかということであり、彼女が解決しなければならぬ問題はそれを彼に伝えることだ。 「はじめに云っておくけれど、必要なものは何一つないわ。そしてあなたはあなたの役目を忘れないこと」 彼の妻は緋蓮だけではない。彼の父親――現月代国王がそうしているように、彼は数多の妻を平等に愛するべきなのだ。もっとも、完全な平等などではないけれど。 「責任感は一時のものよ。私には何の義理立ても必要ないわ。他の何かから守ろうとする必要もない。この子も同じよ。ただし、父親としての自覚は忘れないでね。私が教えてあげられないもの、あなたでなければ伝えてあげることのできないものが確かにあるのよ。悔しいけれどね。だから、それだけは忘れないで」 「いい…のか?」 蒼志は呆然と呟いた。見開かれたその瞳が彼の驚きの大きさ――緋蓮の言葉が彼にとってどれほど意外であったのかを物語っている。 「いいも悪いもないわ。非常に不本意だけれど、この子の父親はあなたなのだし。あなたにしかなれないのだから。仕方がないじゃない」 仕方ない。突き放すように飛ばされた言葉に、蒼志の僅かに浮き足立った心が急落した。 がっくりと頭(こうべ)を垂れる蒼志には意も介さず、緋蓮は言葉を続ける。 「あなたの奥様たちにも、お兄様や叔父様たちにもそれはもういろいろと云われているわ。あなたがここに来るまでに知ったこともけっこうあるしね。でもあなたはまったく気にしないで。この子も私と似たような目に合うだろうけど、それについても同じよ。そこは私がきちんと伝えるし、何より私の子だもの。そんなことで歪んだりしないわ。どんな悪意にも暴力にも屈しないわよ」 ただの平民の女が王に見初められて後宮に入ることは珍しくもない。しかし、その女が時期国王を産むのは前代未聞の出来事だった。 時期国王を身篭る女は、いつだって気品と聡明さに満ち溢れていた。高貴な身分だからこそ得られる教養があってこそ、洗練された王を育てられるのだと考えられている。 「そういえば、あなたのお母様にはまだお会いしていないのよね。噂はあなたのお父様同様、どこからでも耳にすることができるけれど。…とても頭のいい方のようね。でも性格は私とは合わなさそう。あなたともね」 まるで突然変異のようだと緋蓮は感じていた。 蒼志だけが、この閉ざされた中に巣食う人々の中で唯一、その外へと目を向けた。なぜそう到ったのかまでは緋蓮にはわからない。わかるのは、蒼志の着眼点があらゆる枷を外されたかのように広く自由に向けられているということだけだ。 緋蓮の話は一区切りがついたかのようだった。 蒼志はそれらのことに何を返すべきかを逡巡していた。僅かに訪れた沈黙をどのように扱えばいいのかと、途方に暮れそうになる。 結局それを打破したのも緋蓮だった。 「最後に一つだけ聞きたいことがあるのだけれど……」 緋蓮にしては珍しく、僅かに言葉尻を濁した。ほんの少しだけ躊躇うように間(ま)をとった後で、しかしその声のトーンは何一つ変えずに蒼志に顔を向けた。 「あなた、私を愛してたの?」 小首を傾げて訊ねてきた彼女に、蒼志はさてなんと答えれば彼女に自分の思いが今度こそ正確に伝わるのかと、木目の模様渦巻く天を仰ぐのだった。 |
それから二人が夫婦となり、母子(おやこ)であった彼らに父が加わり、親子になった。
こめんと |
ここが一番書きたかった場面です。ここまで来るのがとても長かったような気がします。本文の一行目を書く直前まで、緋蓮は巫女になっている予定でした。あれ?と、書き始めて自分でびっくり。でも実はどっちでも良かったので話が繋がればどっちでも可。いつものことですが、史実のあれこれは一切無視でお願いします。 ずっと緋蓮視点で描いてきましたが、最後は蒼志の視点で一話からを振り返り、未来を描きたいと思っています。 ご意見ご感想お待ちしております_(c)ゆうひ_2006/01/16・25・0203 |
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