約束とひみつきち


約束はなかった。あるのはただ自分だけの秘密基地だった。




 初めてその姿を目にしたのは、霧のような雨の吹き荒ぶ日。太陽は厚い雲に隠れ、陽光(ひ)の射さない暗い午後のことだった。
 白い肌は張り付く雨と冷えた空気に温もりをなくしていた。周囲には誰も居らず、蒼志自身とそう歳の代わらぬだろうその幼い少女は一人、黙々と畑を耕していた。

 水滴の滴り落ちる髪は暗闇の中にあっても輝く濡鴉色。跳ねた土に汚れても惨めさの欠片も見出せないのは、どことなく強気さを伴って輝く瞳のためだろうか。
 なぜ彼女が一人で畑を耕しているのか。
 雨に濡れるのも構わず外へ遊びに飛び出しただけの蒼志には、おそらくは永遠に分からぬことだった。

 その日から、蒼志の目にはその少女の姿が自然と飛び込むようになっていた。
 いつだってその少女は働いていた。そして、その姿を目にする蒼志はいつだって声を上げて遊んでいた。
 陽光の下、体を動かして友人たちと駆け回っていた。

 それらの行為を彼の周囲にいる人間が快く思っていないことを、蒼志は正確に把握していた。ただ歳の近い少年たちと遊びまわるだけなら顔を顰められることもないだろうに、蒼志はわざわざ王宮を出て市井(しせい)で平民の子供らと泥にまみれて遊びまわるのだ。
 言葉遣いも態度も悪いと、彼の母がことあるごとに眉間を顰めるのを、彼は見慣れていた。そんなときの母の蒼志を見る目は、まるで汚らしいものでも見るかのようであり、蒼志は初めて自分がそういった視線を母に向けられたときに何を感じたのか覚えていない。
 思い出そうとしてみても、あまりにも些細なことだと感じたのか。それとも幼すぎる時分のこと故に覚えていないのか。
 どちらにしても、記憶に残らぬほどには印象の薄いものとして受け止めたのだろうと彼自身は結論する。

 蒼志は思う。長く続いた慣例は決して粗悪ではないが、所々に腐敗が見える。
 肥大化した国はいつしか個々に無関心になり、それぞれの身分がそれぞれに何を思い、成しているのかがまるで見えない。
 何よりも蒼志は自分に数いる兄弟たちの異様さに顔を顰めていた。

 父――現月代国王――は数多の女性たちと婚姻を結び、その女性のほぼすべてとの間に子を設けていた。女の元へ通う頻度に差こそあれ、概ね『平等』であるその行為には貴族たちも好感を抱いているらしい。
 しかし蒼志は知っていた。
 彼の母が内心で酷く苛立っていることに。正妻という地位だけが、夫の通う頻度の少ない彼女の唯一の拠り所であることに。

(あの娘だったら、夫が他の女の元へ通うことに、何を思うだろう)

 ふと脳裏を過(よ)ぎった思いに、蒼志は自分自身ですら驚いていた。なぜそのような考えが浮かんだのかなど分からない。
 その疑問は実はどうでもいいことで、それ以上に、彼はただ彼女と話してみたくなった。とにかく彼女と接してみたくて仕方なく、その思いは日ごとに強まっていったのだった。

 思い立つと行動に移すのは早く、蒼志は少女を見かけた土地とその支配者を割り出した。彼女がそこへ税を納めに行くことは調べるべくもなく知れた。
 彼女は五人の兄弟の一番上で、弟妹の世話に負われる母の代わりに家事をこなし、父と共に畑仕事に精を出していると評判だった。

 出逢いの場に選んだのはあまり人の立ち入らぬ山道の外れだった。そこは彼女の秘密の採集場所で、けれど彼女はそこが蒼志に見つかったことについては何も云わなかった。
 酷く冷静で物怖じしない少女だった。
 その彗眼に惚れたのか。見目も美しい少女は清廉であって妖艶な女になり、あまりにも淡白なままだった。
 結局蒼志は生まれながらに『王』であり、あるいは同じく『王』たる女を求めていただけなのかもしれないとさえ思い皮肉気に口端を吊り上げた。
 彼の周囲にいる人間は皆『高貴』な身分ではあったが、その内実は酷く惨めだった。
 嫉妬と倦怠。誰もが誰かに取り入り縋ることばかりを胸に抱えて策謀を巡らせている。慣習と慣例に縛られて、自分がなぜそれに従うのかさえ理解していない。
 それが正しいと思ったからこそ従うのが本当であるはずなのだ。特に彼の父は『王』であるのだから。
 愛してもいない女を正妻にして、なぜその女から時期国王が生まれたのかさえ考えもしないで。

 つまり、その少女――緋蓮は、誰にも頭を下げぬ女だったのだ。そしてそれこそが、彼が望み、しかし彼自身でさえも実践することのできずにいる『王』の姿だった。





 それは晴れた日の朝だった。風華が舞いそうな冷たい空気に、少年の頬が朱く上気していた。

「父上は母上しか愛せぬ、心の狭い人間なのですか?」

 次の年明けで四歳になる緋蓮の一人息子――紫苑が、くりくりとした紫水晶の瞳の視線をまっすぐと向けて訊ねてくる。つぶらな瞳を一身に向けられて、緋蓮はしかし動じずに僅かに小首を傾げてから息子へと改めて顔を向けた。

「そうね。母も、父上のそういったところは心が狭いのだと思います」

 紫苑の表情が明らかに曇り、意気消沈した様子を全身で表していた。
 緋蓮は言葉を繋げた。

「けれどね、紫苑。母が――或いは他の誰がそう思うからといって、それで本当に父上が心の狭い人間だということにはならないのよ」
「? どういうことなのですか?」

 紫苑が顔を上げて訊ね返すのに、緋蓮は幾分表情を和らげて言葉を発した。けれど緋蓮は慰めの言葉を掛けようと思ったわけではない。彼女はいつだって、息子と対等に向き合うことを心に定めている。

「父上の本心がどこにあるのか。それは、母にも分からないことなのです(分かりたくもないし)。でもね、紫苑。父上は、何(なん)の考えもなく、他人の目に浅慮にも写る行動を取ったりはしないわ(たぶん)。だから、それは父上なりの考えがあっての行動の結果なのだと、母は思いますよ(それで迷惑を被っているのは私たちだけれど)」

 優しい眼差しを向けて語る母をまっすぐに見詰めたまま、紫苑は小首を傾げた。

「父上は、自分が心の狭い人間だと見せているのですか?」
「いいえ。そうではありませんよ。ただ人の目にはそう写ってしまうだけのことなの。それは王としてあまり褒められた態度ではないかもしれないわ。ただの我儘だとも云えてしまう。けれどね、紫苑。それは、裏を返せば信念を曲げないことでもあるのよ」
「信念ですか?」

 知らない単語に紫苑が首を傾げた。

「ええ。自分の考えを曲げぬ意志のことです。それは母もまた同じく持っています。だから、紫苑。あなたも自分の信じた道は違えずに行きなさい。自分が正しいと思う道を突き進みなさい。そして、それを貫き通しなさない」
「はい、母上」

 素直に返事を返してくる息子に、緋蓮は瞳を更に細めて笑んだ。
 息子がまっすぐに育ってくれていることが、純粋に嬉しかった。

「けれど、どうして急にそんなことを聞いたの? 誰かに何かを言われたのかしら」

 おそらくは同年代の遊び相手である紫苑の叔父――蒼志の弟――たちの元へ遊びに云ったときに小耳に挟んだのだろう。
 子供たちの口から大人たちの愚痴を間接的に聞いたのか。それとも大人たちの話しているのを直接耳に入れたのか。それは不明だったが。
 紫苑はそれには直接答えなかった。代わりに別の疑問を口にする。

「母上、どうして私には父上のように兄上も弟もいないのですか?」

 母からの問いに対する明確な回答を避けた言い回しのそれは、決して母に嘘はつきたくないがための遠回しな返答でもあった。
 そのことに深く追求するでもなく、緋蓮は軽く小首を傾げて返した。

「あら、紫苑には兄弟はいないけれど、歳の近い友達ならいるじゃない。父上の弟の――橘と萌葱だったかしら? 紫苑には叔父上になるけれど、二人ともあなたと歳は変わらないでしょう?」

 緋蓮の言葉に、紫苑は不服そうに唇を僅かに尖らせた。顔を下に向けながらも視線だけは相変わらず緋蓮をまっすぐと見つめていて、その上目遣いが『どうして分かってくれぬのかと』恨みがましく訴えてくるのが愛らしくて、緋蓮は胸中こっそり微笑んだ。

「そうですが…。でも、」
「でも?」
「……」

 紫苑は首を左右に振った。自分の心を的確に示す言葉が出てこなかったのだろう。
 この子供は実に彼女によく似ていて、自分の心を偽ることなく、躊躇うことなくまっすぐに明かす。しかし彼女とは異なり、もっとも重要なことはその胸の内に仕舞い込んで隠してしまうのだ。
 直線的で大雑把で。細かいことはまったく気にしない。
 本当に、顔も性格も母親である緋蓮似のこの少年は、それでもあの男の血を継いでいた。

(彼も、ずっとそうして抱え込んでいたのかしらね)

 数年を経て漸く秘めたる思いを打ち明けるに到った夫を思い、緋蓮は胸中で苦笑した。





 愛し合う恋人というものを見る機会は普通にあった。男と女は互いの気持ちを通わせ、共にあることを誓い合っていた。
 幸福が二人を包み込み、けれど蒼志にはまずその『約束』がなかった。

 通わせる気持ちはいつだって一方通行で、彼女が欠かさずにそこを訪れるのはそれが習慣化した『仕事』であったからだ。
 彼の胸には決して表には出せぬ秘密の砦が存在していて、それに殉じることがすでに『彼』を構成する上で欠かせぬものになっていた。

 彼女への思いを、蒼志は今になっても言葉にすることができずにいる。
 それは確かに『愛』あるけれど、決してそれだけではなかったからだ。
 そこには崇拝や尊敬、畏敬、畏怖。決して犯してはならぬ神聖な何かが内包されていて、あるいはそれをすべて含めて男が女を『愛して』いるということなのかもしれなかったが、蒼志にはそうとは割り切れなかった。

 だから彼は今でも苦笑する。
 彼は王であり、けれど決して、彼は彼女には勝てないのだ。
 決して越えられない存在が目の前に佇み、そのひ弱な姿に守りたいと思わされる。もしそのようなことが訪れたとき、自分は初めて彼女の言葉に逆らうことになるのだろうと、蒼志は漠然と考えていた。
 きっと、彼女は自分を守る必要など無いと怒鳴るだろう。もっと他に守ってやるべき人間はいくらでもいるのだと。彼の守りの手を求めている女たちがいるはずだと。
 けれど蒼志はきっとそ彼女を胸に抱いて死ぬのだ。
 怒鳴り声に逆らって、炎にでも何にでも包まれようと、きっとその女をそれらすべてから守るために胸に掻き抱いて閉じ込めるのだろう。
 自分の無駄にでかい体が、少しでもその女への苦痛を和らげる盾になればと願いながら。

 そんな未来など来る予定はまったくなかったが、その日、蒼志は自らの名に冠されたそのままの色で澄み切る空を眺めて漠然と考えた。




胸の中の秘密基地に、遂に彼女を招待した日から数えて僕は。





こめんと
 このシリーズは1を除き2〜5(特に3、4、5)を同時進行で書いていました。実際に書き上げたのは順番通りでしたが、書き初めとかが前後していて書いてる途中に別の回(番号)の話を考えていたり。この5のお題が一番気に入って持ち帰ったのに、1を書き始めた途端に5がもっとも難しい(どうやってここに繋げればいいんだ。むしろこれが一番に来てれば楽なのに…!!)ことに気がついて愕然としました。それでも無事に思い浮かんで良かった良かった(笑)。
 本当は蒼志の独白で1〜4の時間を一気に振り返る予定だったのですが、緋蓮と紫苑の話が浮かんだのでムリヤリ詰め込みました。なので今一蒼志の思いを上手く書ききれなかったかな〜との未消化感があります(いつものこと)。

 ご意見ご感想お待ちしております_(c)ゆうひ_2006/01/25・0208〜09
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