朝露の君
暗闇を歩くのは慣れている。
そんな人間どこにもいない。
一人にはなりたくない。
もう、誰も失いたくない。
もう、何も奪わせなしない。
ACT-7
ガタンッ
派手な音を立てて、紅真は背中から壁に叩きつけられた。
骨が軋むような衝撃に顔を顰め、紅真はなんとか立ち上がろうとした。
「くッ…」
「やめておけ」
紅真の眼前に佇んだのは、黒髪に赤い瞳の男だ。
狡猾そうなその瞳に写る紅真の表情は、苦痛と悔しさに歪められている。
男は威圧的なまでに堂々とした態度でそこに佇んでいた。
「私はお前を過小評価してはないさ」
男が、言葉とは裏腹な見下げるよな視線を紅真に向けて言った。
「それは知らなかったぜ」
紅真は皮肉るような口調で答えた。
挑発するような嘲笑を浮かべて男を上目遣いで見る。
「私の息子だからな。何時も私達を見下していただろう?」
男は見透かすように言った。
紅真は悔しさのあまり、奥歯を噛み締めた。
ただ目の前の男を睨み付けることしか出来ない。
「別に構わないんだよ。そのおかげで、私は反逆の眼を容易く摘むことが出来た」
男はそこで一端言葉を切ると、その後ろにある部屋の扉へ顔だけを動かして視線を移した。
男の視線を辿るように、紅真もそちらに視線を移す。
ゆっくりと扉が開かれ…。
「!…なんで……―――」
紅真は思わず、うめいた。
扉から姿を現したのは二人の男と一人の女。
二人の男は国王付きの兵士だ。
そして女は――。
「――紫苑…」
紫苑は後ろ手に縛られた姿で、兵士に引きずられる容(かたち)で室内に連れてこられた。
随分抵抗したのだろう。
髪は解け、白い肌には所々に擦り傷や切り傷、痣がついている。
きつく縛られた両手首には、うっすらと血が滲んでいた。
「まさか生き残りがいたとはな。こればかりは気が付かなかった」
男が言った。
紫苑の元へと歩み寄り、その顎に手を掛け自分の方に紫苑の顔を向かせる。
紫苑は顔を激しく振ることで、その手から逃れた。
激しく、射抜くような瞳で男を睨み付ける。
男がうっすらと笑う。
紫苑は尚も睨み付ける。
云いようのない静寂がその部屋を満たした。
「なぜ…」
不意に呟いたのは紫苑だった。
思いつめたような瞳で、男を見つめ返しながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
しかし、それでも静寂は破られはしなかった。
「なぜ、裏切った。俺達が…一体何をした」
「≪朝露≫が欲しいのだよ」
紫苑の台詞に、男は微かに笑んで答えた。
静かな声だった。
「朝露?…」
紫苑は疑問に顔を顰めた。
聞いたことがない。
もちろん「朝露」自体の言葉は知っている。その物もだ。
わからないのは、男の示す≪朝露≫だった。
「朝露のように美しい宝石のことだ」
小指の先程にも満たない小さな石。
永遠の至福を約束するといわれる伝説の石。
たった一つだけ、どんな望みも叶えてくれるという石。
「ただの、御伽話しの産物だ…」
男の説明に返したのは、紅真だった。
随分強く、壁に叩きつけられたようだった。
いまだ、立ち上がる事が出来ずにいる。
「そうでもないんだよ」
紅真の声に、男はそちらヘ振り返った。
優越的な笑みを口元に湛え、言い聞かせるように語り出す。
「様々な歴史を見直し、様々な伝説を紐解き、様々な文献を模索した」
見え隠れする小さな手掛かりを見つけては、それを繋ぎ合わせていく。
「暇人め…」
男の説明に、紅真は小さく舌打ちして毒づいた。
皮肉の一つも言ってやらなければ、到底耐えられない心境だった。
しかし男には、紅真の声など耳に入っていないようだった。
もしかしたら届いていたのかもしれないが、男はまったく気にしなかったのだ。
負け犬の遠吠え。
男に言わせれば、紅真の皮肉はそれであったのだ。
男は尚も語る。
その苦労までも噛み締め、理解させるように。
まるで己に酔った様に語り続けた。
「もちろん時間は、かなりかかった。
似たような物語りや物質は、至るところに数多く存在していたからな」
どこの地方にも、一つや二つは願いを叶える石のような存在が伝説としてある。
花や、星や、湖や。様々な物に、伝説は存在していた。
「しかし、私が探しているのは実際に存在する物だ。
空想ではない。伝承さ。
幾つもの手掛かりの中、私は漸くそれを見つけた。それが、≪朝露≫なのだよ」
それは決して、人の理想が生み出した空想ではない。
夢のような、だが夢ではない物。
確かに存在している物。
「そして、どうやらそれは―――」
そこで一端言葉を切り、男は紫苑に向き直った。
はっきりと紫苑を指し示し。
「君達が持っていると云うことを、突き止めたんだよ」
言った。
「君達の体内のどこかに、それは受け継がれているらしいとね。
君のお父上とお母上…。後は、あれは無駄だったのかな?
少女は、すでに切り刻み解剖済みだ。しかし、どこにもそれらしい物がなくてね」
君が現れてくれて嬉しかったよ。
狂気に歪んだ笑みで、男はそう言った。
彼の手には、鈍く輝く長剣が握られている。
それが振り上げられた時、紫苑は死を覚悟した。
男の腕が弧を描くように振り下ろされるのと同時。紫苑は思わず目を瞑る。
父と母と侍女と。切り刻まれた彼らの姿が脳裏を過(よぎ)る。
全身を貫くように駆け巡る嫌悪感と恐怖と。様々な負の感情を、歯を食いしばることで耐えた。
もうだめだ。
死ぬんだと思った。
直ぐに、痛みが身体を襲うのだと思った。
しかし、いつまで待っても、痛みは襲ってはこなかった。
そっと目を開けてみる。
視界は真紅に染まっていた。
男が一人、背中に剣を刺された状態で、うつ伏せに倒れている。
視線を上に上げる。
倒れた男の足の方。紫苑の前には、荒い呼吸を繰り返している、紅真の姿があった。
良く状況が理解できなかった。
周りの者達も同じ心持ちなのだろう。
誰一人として、行動を起こす者はいなかった。
たった一人。紅真だけが、荒い呼吸を繰り返し、肩を上下させているだけだ。
最も早く動き出したのは、その紅真だった。
素早く男の背中から剣を抜き取ると、そのまま紫苑を縛る上げている兵士を切り倒した。
紫苑の手首に巻きつけられている縄も切り落とす。紫苑の両手が自由になった。
紅真は紫苑の横を通り抜け、今度は、先程紅真が叩きつけられた壁際に佇んでいる男達を切り付けた。
小奇麗な衣装を着ているところから、かなり位の高い家臣であることが知れた。
男達は、ただ小さな悲鳴を上げるだけで、簡単に倒れた。
そこまでの動作が一連的に行なわれて、室内に残る他の者達の思考が漸く働き出したようだった。
腰から長剣を引き抜き、紅真に向かっていく。
漸く紫苑の頭も働き出した。
紫苑はとっさに判断すると、先程紅真が切り倒した兵士の腰から、長剣を引き抜いた。
戦わなければならないと思った。
今、戦わなければならないと。
紅真は兵士たちを切り捨て、どうにか紫苑の元にまで来た。
紫苑の隣に並び、彼女を守るようにする。
紫苑もまた同じ。
二人の位置は対等に在り、二人の瞳は同じほどに強かった。
どちらも、生きることを諦めてはいなかった。
二人は部屋から駆け出した。
この城から逃げ出すのだ。
紅真に倒されなかった兵士が、二人の後を追う。
部屋の騒ぎを聞きつけて、他の兵士たちも集まってき。
何人の人間を切ったのか。
もう分からなかった。
今は逃げることだけを考えた。
足を止めずに走り、行く手を遮る者達を切り倒していった。
どこまで来たのだろうか。
紫苑と紅真の二人は、なんとか逃げ延びた。
城を出た所までは、はっきりとした意識があるのだが…。
そこから先は、どこを走ってきたのか憶えていない。
どのようにして追っ手を振り切ったのだろうか。
それさえも、わからなった。
「紅真…ここが何処だか分かるか?」
紫苑は紅真を振り返り、そして息を詰めた。
自分よりも明らかに多くの血を流した紅真が、その足元に倒れていたのだ。
「紅真!!」
紫苑は慌てて叫んだ。
倒れ込んだ紅真の頭を持ち上げ、膝の上に乗せる。
紅真は気を失っているようだ。呼吸が浅い。
どうして紅真はこんなに傷を負ったのか。
紫苑は次第にはっきりとする意識の中に、その理由を悟った。
逃げながら、戦いながら。
紅真はいつだって紫苑の盾になっていたのだ。
逃げている最中は、それだけに頭が働いていて、気づきもしなかった。
全ての紫苑への攻撃を、紅真が受けとめたわけではないが、それでも。
紅真は確かに紫苑への攻撃を、身を盾にして受けとめていた。
紫苑を守ろうとしていた。
「どうして…こんなこと」
紫苑はなんとかその言葉を吐き出した。
声が詰まり、掠れてしまっている。
胸が締め付けられるように苦しく、喉がはちきれそうに熱かった。
「紅真…?」
どうして良いか分からなかった。
紅真の呼吸がだんだんと弱くなっていく。
弱くなって…。
「紅・・・真……?」
止まった。
紫苑はただ呟いた。
どうして良いか分からなかった。
何が起きたのか、分からなかった。
「いや…」
紫苑は首を横に振った。
唇が震えた。
目が閉じられなかった。
「いやだ…」
紫苑は呟いた。
とても小さく、弱い呟き。
誰も、答えてはくれない。
「い、いやぁぁぁァァ!!!」
紫苑は紅真を抱きしめ、あらん限りの声で叫びを上げた。
誰も、答えない。
紅真の瞳は、堅く閉じられたままだった。
もうすぐ、夜が明けようとしていた。
何が起きたのか、分からなかった。
つづく
■あとがき■
…紅真ファンの方。怒らないで下さい。
できれば読むの止めないで下さい。
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2001、9、2