朝露の君
決して眩しくはなかった。
けれど、やわらかくもなかった。
強くはあったが、優しくもあった。
ACT-8
紫苑は紅真の身体を抱きしめた。
抱きしめながら叫び続け、やがてそれもできなくなった。
声が枯れる。喉が痛かった。
それでも嗚咽が零れるのは止められなかった。
叫び続けている間、不思議と涙は出なかった。
夜が明ける前の、曇り空のような空だった。
狭い、不衛生な路地裏に座り込んで見上げる空は、より一層淀んで見える。
紫苑は不思議で仕方がなかった。
建物と建物の間から、ゆっくりと日が昇るを眺める。
だんだんと空が白んでいき、影が現れる。
こんなにも哀しく、こんなにも絶望に身を落としているというのに…。
望む朝日は、彼女の心をまっさらにした。
一筋の涙が、紫苑の頬を伝って流れ落ちる。
頬から顎へ流れ、一滴となって落ち…。
まばゆい光となって弾けた。
紫苑は何が起きたのか分からなかった。
ただ呆然と、激しい光の弾けたそこを見つめていた。
すると。
「紅…真……」
紅真がゆっくりと瞳を開いた。
紫苑は信じられずにそれを見つめる。
「紫苑…?」
紅真の口が動き、小さな声が発せられた。
はっきりと耳に届いたその声に。その言葉に。
紫苑は涙を流した。
ぽろぽろ。
零れ落ちる涙が、止められない。
ころころ…カラン。
小さな透明な石が、辺りに零れ落ちる。
朝日に照らされた、紫苑の涙だった。
「≪朝露≫…」
不意に紅真が呟き、紫苑の頬にその手を伸ばした。
目尻に溜まった涙を、親指の腹で拭う。
紫苑は為すがままに、紅真に触れられていた。
その顔は、いまだ悲しみに歪められている。
抱きしめたくなるような、その切ない表情に、紅真は胸が締め付けられる様な気がした。
「…まさかこんな所にあったなんてな」
命拾いしたな…。
そう言って、紅真は無理やりに上半身を起こした。
慌ててそれを支えようと、手を添えてくる紫苑を、そっと胸に抱き寄せる。
流れる銀髪の掛かる肩口にその額を押しつけて、彼女の体温を感じる。
女性特有の、柔らかな香りを感じた。
「あいつの探してた≪朝露≫は、お前達の涙が、朝日を浴びることによって出来るんだ」
紫苑の肩に顔を埋めたまま、紅真は淡々と言った。
紫苑は何も言わず、ただ黙ってそれを聞いていた。
「探しても見つからないはずだな。…ほんと、バカみてぇ……」
紅真のその声は、あくまでも淡々としたもので。
ともすれば、やりきれなさに涙が出そうだった。
後は何も言えずに、紅真は紫苑をきつく抱きしめた。
身体が震えるのを抑える様に、きつく、きつく抱きしめた。
「紅真…」
「なんだ?」
「…願い、叶うのか?」
静かな朝の刻。
紫苑は静けさを壊すことなく尋ねた。
言葉足らずにも聞こえるその問い掛けに、しかし紅真はきちんと意味を理解した。
「どこがいいんだ?」
紅真が訊く。
それは偶然だったのだろうか?
二人を取り囲む様に、幾つもの≪朝露≫が散らばっている。
「…静かな所がいい」
風が吹いて。
水が流れていて。
木々のざわめきが辺りを包む。
一つ一つの≪朝露≫が、それぞれ輝きを発し――。
「ずっと…一緒にいられる所…」
一斉に砕けた。
辺りには何も残っていない。
誰もそこには居ない。
新たなる一日の到来を告げるように、世界を陽の光が包んでいく。
暗い闇の中を漂っていた。
ぼんやりとする意識がかろうじてそこに残り、その中で、自分が消えて行くことを漠然と感じていた。
ゆらゆらと漂うその感覚に、身を委ねるしかない。
どうしてそう思うのかは分からなかった。
ただ、なぜか知っているような気がした。
ああ、死ぬんだ。
死がどんなものであるのか。
死ぬとどうなるのか。
そんなことは、一度だって考えたことなどなかった。
死のうとも、死ぬとも思っていなかったから。
もう一人にはしない。
決して一人にはさせない。
そう誓った相手がいるから。
絶対に、生き抜く気でいたから。
ぼんやりと漂っていた。
暗闇の中を漂っていた。
上も下もない、虚無の世界を漂っていた。
ああ、死んだんだ。
漠然とそう感じた。
思いのほか、それは辛くも哀しくもなかった。
ただ、残してきた愛しい人のことを思い、胸が痛んだ。
一人がどれほど耐え難いことなのか。
それを知っている自分が、最も愛しい人にそれを与える。
自分の死よりも、その人の孤独が痛かった。
不意に、身体全体が淡い光で包まれた。
あやふやだった感覚が薄れ、何かに守られたような感覚。
漂っているのは変わらないが、その行き先が変わったような感覚。
海の底に沈んでいくのではない。
誰かが、自分を海面へと浮上させているのだ。
おぼろげで、纏まりを失いそうな意識が、徐々にはっきりとしたものになってくる。
目の前が弾けた。
脳裏に直接情報が送り込まれてくる。
すべてを理解した。
目を開けると、そこには寂しそうな愛しい人の顔。
こんな顔、決して、させたいわけではなかった。
ゆっくりと手を伸ばし、その頬に触れる。
雫は、小さな石となる。
その雫を、ゆっくりと拭う。
起き上がろうとすると、全身が痛みに悲鳴を上げた。
紫苑は手を当てて、それを助ける。
思わず抱き込んでいた。
もう離したくなくて、消えてしまいそうな希薄なその存在を、強く抱きしめ続けた。
霞のように、霧のように。
それは、そこにはっきりと存在しているにもかかわらず、気が付けば消えてしまいそうで。
紅真は、紫苑をそこに繋ぎ止めるように、きつく抱き締めた。
「…願い、叶うのか?」
紫苑が呟く。
何を言いたいのかなど、考えずとも分かる。
「どこがいいんだ?」
紅真は問うた。
力ない紫苑の声は、それでも耳に心地良かった。
「…静かな所がいい」
紫苑が応える。
小さな、呟くような声だった。
紅真に凭れ掛かるようにしてくる。
「ずっと…一緒にいられる所…」
その言葉が、とても嬉しかった。
心の底から温かくなってくる。
≪朝露≫が輝き、一斉に弾けた。
それは、彼女を愛するモノの起こした奇跡。
決して逃げようとは思ってはいない。
すべてを捨てて逃げようとは思わない。
償いはする。
だけど。
少しだけ、休ませて―――。
そこは美しい所だった。
静かで、とても美しい所。
朝露のように、健やかな所。
世界は様々な理由により、かつてない混乱に陥った。
それは大きな戦争であったり。
治療法の確立しない流行病であったり。
相次ぐ異常気象であったり。
混乱に陥った世界を力強く導いたのは、どこからともなく現れた、紅い瞳の青年だった。
無意味な殺しをする事無く、しかし正義を振りかざしはしなかった。
ただ、強く生きて行くことを説き、人々を愛し、それを全力で守る人物だった。
青年の隣には、いつも銀の髪の美しい女性がいた。
争いを好まず、しかし決して臆病なわけではなかった。
逃げることはしない。
見捨てることも決してしなかった。
人々は彼ら二人を愛した。
心から尊敬し、彼らを王と認めた。
二人はいつも幸せそうで、そんな二人を見、人々もまた幸せだった。
辛い時も決して希望を捨てず、どんな時も諦めなかった。
その強さに、人々はいつだって励まされた。
二人の治めた世界には、希望と愛が溢れていた。
力強く、積極的に生きていこうとする意志に満ちていた。
荒れて行く大地にも負けない、生命の躍動。
生命は、いかな状況にあろうとも、生きる術(すべ)を見い出す。
一つ一つ。一歩一歩。
確実に、世界は立て直されていった。
朝日が昇り、一日が始まる。
水と緑に溢れ、風が吹き。
生きる意志に溢れた世界。
誰もが愛した王の世界は、人々が少しずつ積み上げて創られた。
誰もが愛した世界と、そこに住む人々を、彼等は心から愛し、全力で護った。
そうして。
世界は幾つモノ繁栄と荒廃を刳り返し。
いつもそこにあったのは、朝露のような希望。
美しい銀の髪と、赤い瞳の奇跡。
強く、そして優しく。
決してやわらかくはないけれど、暖かく。
眩しくはなかったけれど、輝いていた。
いつも真っ直ぐで。
いつも、傍に居てくれる。
何か苦しみを背負った様に悲しそうで、それでも微笑っていた。
その微笑に、人々は―――。
逃げない。
自分の罪は知っている。
だけど。
今は、休ませて―――。
朝露のような彼らは、最後まで、強かった。
最後まで幸せそうだった。
最後まで、二人一緒だった。
誰が、彼らの罪を知っていたのか。
誰が、彼らの罪を許すのか。
ずっと、一緒にいよう。
大切な君と。
得たかった君と。
ずっと。
一緒に―――
今、手を取り合った君と。
おわり
■あとがき■
終わりました。
なんかよく分からない終わりで申し訳ありません。
ここまで読んでくださった方いましたら、心より感謝申し上げます。
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2001、9、2