紅天に華の散る 




 帰る烏も鳴く頃。紅混じりの影を引っ張って帰路を駆けていた。
 肩に掛けた防具と竹刀がなければもっと早く走れるのにとの思いが常に脳裏にちらついていたが、実際にそうするわけにもいかない。バスと電車を乗り継いで、最寄駅から家まではそれなりの距離がある。
 どうしてこんな住宅街に居を構えたのかと、どうでもいいことで両親に悪態をついた。駅から離れた住宅街に、いったい何の魅力があったのだろう。
 言葉の代わりに小さな舌打ちが鳴った。
 息を切らしながら走る。目指すものは唯一つで、思考は余りに纏まらない。ぐるぐると、徒然とした数々のことが、浮かんでは消えを繰り返していた。
 成績は準優勝。誉められるにも祝うにも値する。事実、同校の者達はこのまま祝賀会にでも洒落こもうと張り切っていた。その主役となるべく紅真も当然誘われたが、彼はそれをさっさと振り切って――どうせ彼の通う学園の人間は須らく、主役の存在などなくとも実力をフルに出し切って楽しむに決まっている――帰路についたのである。
 呼吸が乱れているのは、走り続けた酸欠よりも、気持の急いた余りのことではないかと疑いたくなるほどに、彼は必至だった。
 もう家は目の前だ。即ちそれは、あと少しで、彼の元へ行けるということ。



 夏は鬼門だった。知っている人間は少ない。夏休みで日常的に関係を持つ人間が限られるようになるからだ。
 紫苑は自室の寝台に横になりながら、熱でぼやける視界で窓の外に目を向けた。
 じりじりとした太陽光の眩しい蒼天は、いつの間にか藤色交じりの橙色に変わっている。両親が帰宅した気配はない。夏風邪はいつものこと、と慣れ切ってもっとも気が緩んでいるのは、実は彼の両親かもしれなかった。
 毎年決まっているかのように風邪を引くのだから、そうならないように注意すればいいというのは他人事だ。注意相が日頃の疲れが噴き出るように熱が出るのが、紫苑にとっての夏であるので、もうどうしようもない。
 それは暑さにやられるとか、夏季の長期休暇に入り気が抜けるのとは少々趣が異なる。夏も幾日か過ごしたある朝、ぼっと熱が出て倒れ込むのだ。
 それにしても、と思う。
 いくら毎年のこととはいえ、よりにもよって今日であることはないではないか。随分前から、応援に行ってやると約束していたのに。
 これも毎年のことであるが、彼は小さいころから変わらない。紫苑が熱を出せば、紅真は必ず、心配そうに眉間に皺を作って、その枕元を離れないのだ。泣きそうな表情がすぐ隣にあって、紫苑は自分の身よりもそちらの方が辛そう心配になってしまう。
 早く直さなくちゃ。
 起き上がらなくちゃ。
 気ばかりが急いて、風の苦しさではなく、儘ならぬ己が身にこそ泣きたくなるのだ。
 紫苑は溜息をついた。吐き出した息は熱が籠り熱かった。
 最近では両親が共に家に残らないほどに慣れ切ってしまった事態で、しかし子供のころはそうはいかない。たかが風邪と侮って放っておけるほどの体力も気力も、子供に期待する方が罪だ。傍につき従っていたのは退廷母親で、寝込む紫苑の傍に痛がる紅真を、風邪がうつっては大変だからと、紫苑と紅真、双方の母親によって紫苑の枕元より引き離されようとするのに全力で抵抗していた姿が、忘れることもできないほどの強い印象を持って記憶されている。
 ベッドの掛け布団を小さな手できつく握りしめ、それでも引き離されてしまうと、紫苑の傍を離れたくないと泣き叫ぶのだ。
 あの紅真が、涙を見せるだけでも大変なことなのに、泣き叫ぶだなんて!
 病床に着きながら、そんな紅真の姿に、紫苑自身もまた泣きたくなる思いを、何度味わったことだったろう。
 負けん気が強くて意地っ張りで。他者に弱みを見せることも頼ることもできない性質なのは、紅真のみならず紫苑も負けず劣らずのことだ。そんな人間が涙を流す、ましてそれを見せ、形振り構わず請うなどと――。
 どれほどまでに切実で、胸の苦しい思いであるのか。
 そこでは間違いなく、誰よりも、紫苑こそが紅真の気持ちを最も理解し、共感することができる。
 頼ること、それはすなわち進退きわまりどうしようもない状態に窮しているということであるのだ。少なくとも、本人にとってはそういった状況にあると追いつめられた上での最終手段に他ならない。矜持の高い彼が、人に縋るなどどれほどの事態であるのか。仮令紫苑にそれがわかったところで、肝心の親には伝わらない。
 普段は泣かないこの子が泣くなんて珍しい。よっぽど離れたくないのだな。
 そこまでは伝わるが、それ以上は伝わらない。
 幼い子供の分際でと軽んじられるかもしれないが、年齢など関係ないはずなのだ。その時の紅真は、或いはそうなるときの紫苑は、まさに命を、己の人生を駆けてことに向かい合っている。風邪がうつるだなんて生易しいかそうなので動いてはいないのだ。たとえそれによって命を落とすことになったとしても、自分はそこを動きはしない。それだけの思いで、紅真の小さな手のひらは布団を握り締めていた。
 結局、それは紅真が体力の限界を迎えて終わるか、或いはもらい泣き状態に陥った紫苑が気管を詰まらせ噎せる姿を目にして漸く諦めてその手を離し、渋々母に背負われて帰るかだ。どちらにしても、紫苑は遠ざかる紅真の姿をただ見送ることしかできない。
 どれほど悔しく、どれほどじれったかっただろう。手を伸ばしても届かない。否、伸ばすことすらままならない。
 だから、これは言葉にしないけれど、眸を開けてそこに紅真の顔があることが、満たされるほどに嬉しいのだ。こうやって、その心配顔を見ると、何よりも安心するのだ。
「紅、真……」
「紫苑っ」
 少しでも手を伸ばす素振りを見せれば、すぐに応えてくれる。紫苑は己の顔が微笑していることを感じていた。
「試合は、どう、だった…」
「……」
「負けたのか?」
 紅真が仏頂面を作り黙してしまうのに、紫苑はくすくすと柔らかな笑い交じりに訊ね返した。簡単に負けてしまったとは思わない。負けると決めたなら一回戦で負けて、同輩の応援もせずに飛んで帰ってくるはずだ。
 こんな、空の色が紅くう色づく時間になるまでズルズルと留まっていることなどある筈もない。それだけの己惚れと、そうするだけの信頼がある。
 けれど勝ってもいないだろう。少なくとも、紅真の満足のいく勝ち方はしていないはずだ。
 勝てばそれを大々的に誇り吹聴するような人間ではないが、勝利を隠すような遠慮もない。勝ては勝ったとただ応えるだろうにそれをしないのは、紅真の中ではかなりバツの悪いものであるのだろう。
 言い訳なんて絶対にしない――まして嘘をつけるほど要領がいいわけもない。そこは紫苑も同じだったけれど――紅真だから、紫苑から聞くのだ。おそらくかなりの確率で事実に相違ないであろう推測を。
「俺の、せいか…」
「…違う」
 憮然とした、それでも律義に答えを返す紅真に、紫苑の笑みはますます深くなる思いだった。
「でも、心配は、してくれた、ん、だろ?」
「……」
 都合が悪くなるとすぐに黙ってしまう。そんなことを面と向かって認められるほど素直ではないのは、紫苑も同じだったから、ただ、笑ってしまう。
「何人に、負けたんだ?」
「……一人」
「すごい、じゃない、か。それ、なら、準優勝、だ」
「でも、試合はどれも最低だった」
 紅真の顔が苦々気に歪む。一つ一つのすべて。どの試合にも、それだけに集中できなかったことに、どういった状態で対してしまったことに対してだろう。
 紅真はそれを許さないだろう。自分に甘い人間ではないし、理由があるからと云って簡単に妥協を許すような容易い炎で動いているわけでもない。
 だから、紫苑だけは赦さないといけない。紫苑だけでも、それを認めておかなければならない。
「そ…なら、次は、勝て」
 ありがとう、なんて。云われても、素直に受け取る性質ではないし、言葉にするのは少し違う気がする。倒れるほどの熱も、不安も、心配も、心細さも毎年のことで、傍にいることも当たり前。
 だから、感謝しても。どれほど嬉しくとも。その思いを抱いているという事実だけで、それはもう充分なのだ。それ以上にも、以下にもならない。それが、すべてなのだから。
「当たり前だ」
 ぶっきら棒に返す紅真があまりにもらしくて、紫苑はやっぱり、嬉しさに顔を綻ばせた。

 次は、這ってでも、応援に行かないとな――。

 彼の思いに応えるためには、きっと、それでもまだ足りない。
 心配を内包した紅真の瞳はガーネットのように魅惑的な赤色をしている。その背後、夜へと移ろう空の色もまた、炎よりも尚鮮やかに――そしてどこか不安を与えるような禍々しさを持って――燃えるように輝いていた。







こめんと
 「紅天」と「夕天」と迷いました。「青」には「赤」だろうと思いました。「華の舞う」と「華の散る」で迷いました。どっちも場景的にはかわらんなと思いました。因みに私は年末年始が鬼門です。風邪引きます。でも祭りには行くのです。
 なんかこういうの書きたいという漠然とした思いだけで書いたので、元帥の方はどうにも消化不良でした。こっちもたいして変わらないけど、幻水よりはまだ描きたいことを掛けた気がします。幻水では軽やかさを、邪馬台では緩やかさをテーマに書きました。
 試合がどうのこうのは幻想水滸伝小説「蒼天に鳥の舞う」で話していますので、興味があればどうぞご覧くださいです。
 ご意見ご感想ありましたらぜひお寄せ下さいです...2007/09/04-09