月の精霊 星の王
***ACT-3***
--**--------------------------------------------------------------*---
激しい悲しみに襲われる。 暗闇の中に身を落としたような揺らぎが起こる。 まるで深い海の底にでもいるような揺らぎだった。 静かで、痛くて、何も考えられず…けれど、どこかで心地良くも感じる。 不思議な感覚だった。 紫苑ははっとして目を覚ました。 目に写るのは見なれた天井。 乱れた呼吸を整えながら、ゆっくりと横にしていたその身を起こす。 ドクンドクン 胸に手を当てると、早鐘のように大きく早く止めど無く。 血流の流れる生々しい音。 汗が全身から溢れだし気持ち悪かった。 夢を見た。 恐ろしい夢。 「忘れないで…」 紫苑は呟いた。 白銀の髪に藤色の瞳。 華奢なその白い肌には、薄衣のドレスが汗によって貼りつきその肌に更なる艶をかもし出す。 大切な人がいる。 大好きな人がいる。 その人が自分を忘れてしまう夢。 怖い夢。 紫苑は両肩を抱き締めた。 身体の震えが止まらない。 涙さえ出なかった。 恐ろしすぎて…身体が乾く。 恐怖に震える身体。 恐ろしい夢を見た。 「紫苑くん…大丈夫?」 そう声をかけたのは薄茶の髪に翠色の瞳の少女だった。 名を壱与と云い、太陽の女王。 心配気にひそめられた眉は、普段はその冠の通りにまばゆい笑顔を作り出しているはずだった。 「ああ…平気だ…じゃなかった。ご心配ありません。壱与さま」 紫苑は答えた。 表情が言葉を裏切っている。 彼女の顔色は陶磁器の様に白く、血の気がまるで無いかのようだった。 ひどくやつれて見える。 「もう、何度も云ってるでしょ。私相手に敬語は無用だよ。紫苑くん」 壱与はあえて紫苑の容態には触れずに、どこかおどけたようにして云ってみせた。 わざとらしく頬を膨らませてみせる。 「そういう訳にはいきません。わたしは最下層の精霊の地位。あなたは最高位の王の位なのです」 紫苑は云った。 彼女らの生きる世界を≪三宙界≫と云う。 「宙」とは種族のことを指し、この世界にはその名の通り三つの種族が暮らしていた。 もちろん大まかに分けて…だ。 「太陽」「月」「星」の三種族がいて、神を頂点にそれぞれの王、民、精霊と云う順に身分がある。 民の中にも更に細かく身分分けがあり、精霊もまた同様だ。 紫苑は精霊の中でも最下位――つまりは全体で最下位に位置する「孤燈(ことう)精霊」だった。 最下位の身分である紫苑が何故王に使えているのか。 理由を云えば、それが最下位精霊だからだ。 「孤燈精霊」は「太陽」「月「星」の全体の精霊を集めて数えてもその数は極端に少ない。 珍しく生まれても幼くして死んでしまう者がほとんどだ。 しかし能力的には王以下のどんな身分の者よりもずっと上だった。 能力が高いにもかかわらず最下位の地位に甘んじているのは、一重にその数の少なさと野心の無さ。後はその特殊な生まれによるものからだった。 「…いつも通りで良いよ、紫苑くん。わたしは…別に偉くも何とも無いんだから」 「太陽の頂点に立つお方です」 「固いなぁ…紫苑くんは。わたしはただ王に生まれただけだよ。特別に何をしたわけじゃない。あんまり融通利かないと、タメ口をきくのを王命令にしちゃうからね。私以外の人にもタメ口〜」 からかう様に云う壱与に、紫苑は諦めたように溜息を一つついた。 「ふぅ…。分かったよ、壱与…これで良いんだろ?」 「そうそう☆」 壱与の笑顔に、紫苑は苦笑を返した。 彼女が自分を気にかけてくれていることを知っている。 紫苑は心中で感謝した。 「…紫苑くん」 おもむろに声をかけたのは壱与だった。 紅茶を煎れながら、紫苑は視線だけで壱与に問う。 紅茶の甘い香りが鼻をくすぐった。 「あのね…紅真くんの事なの」 壱与は実に言い難そうに、それでもきちんと紫苑の顔を正面から見返して云った。決して視線を逸らせるようなまねはしない。 それが壱与という女性の強さだった。 「…夢を見た」 壱与の言葉を待たずに、紫苑はポツリと呟いた。 「夢…。どんな?」 「……」 それは暗い暗い時間だった。 天(そら)には淡い光を放つ大きな星一つと、煌く小さな多数の星。 地にはやはり煌くような――でも星ではない明かり。 紅真が居たのは天高くそびえる塔の上。 身を乗り出し空(くう)を見つめていた彼の前に、紫苑は現れた。 「それで…?」 「…憶えてなかった。」 「え…?」 「突然現れた俺に驚いて…意味が解らないような顔してた」 紫苑はそこで一度言葉を切った。 壱与は言葉を何一つ紡ぐ事ができなかった。 「言葉も届いてないみたいだった」 最後にそう云い、今度こそ本当に紫苑は口をつぐんだ。 ティーカップから立ち上る紅茶の暖かな湯気が、紫苑の表情を僅かに隠す。 白い湯気に見え隠れするその表情に掛ける言葉を、壱与は思いつく事が出来なかった。 ただの夢。 そう語ってしまうにはあまりにもリアルなそれは…どこまでも残酷なもので。 うわべだけの根拠のない言葉をどれだけ並べても、彼女の不安は消えはしない。 (何やってるのよ…紅真くん…――) 壱与は胸中で呟いた。 歯痒かった。 何も出来ない自分がどうしようもなく苛立ちかった。 (やっぱりダメだったの…) こんなにも悲しむ彼女を見るくらいなら。 いっそ、あんな事を云わなければ良かった。 そんな後悔が浮かぶ。 いつもは美しい紫苑の翼は今日はその背の中に仕舞い込まれて。 それは紅真も好きだった色。 彼に出会った時から、決してしまうことなく彼のために現し続けていた翼。 (紅真くん…――) ―――あなたが思い出さないと、いつまで経っても会えないんだよ。 壱与は縋るように祈った。 いっそ、あんなこと云わなければ良かった。 |
---*--------------------------------------------------------------**--