月の精霊 星の王




***ACT-9***



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 ここはどこだろう?
 まるで地に足が着いていないような浮遊感。
 漂うようにさ迷っている自分を感じる。

 けれどそれはいつもと同じ。
 生まれた時から、自分はまるで漂っているようだった。
 地に足が着いていないような…浮遊感。

 これは夢だ。
 夢の続きだ。
 ならば……。

(さっきみたいな幸せな夢がいい…)

 紫苑はぼんやりとそう思った。

 地に足が着いていない。
 生きているはずなのに、まるでそんな感覚が無かった自分に「生きている」という実感を与えてくれた人。
 誰より愛した人。

 今は離れてしまっているその人に会えた夢。
 その人が…自分の名を呼んでくれた夢。

 どうせ同じ夢を見ているのなら、過去の、生きていることを感じられぬ頃の自分を夢に見るより、思い出すよりも。
 愛しい人に触れる夢を見たい。

 抱き締められることによって、その人に自分の名が呼ばれることによって。
 自分は大地の上に下り立つことが出来る。立つことが出来る。
 生きていると感じられる。

 浮遊感が消える。

(ああ…誰かが呼んでる……)

 呼ぶ声が聞こえる。
 自分を呼ぶ声が聞こえる。
 それは声ではないかもしれないけれど…確かに自分を呼んでいる。

(誰…?)

 誰が呼んでいるの?

 紫苑はまるで導かれるように、ふらふらと漂うように進み始めた。
 上も下もない空間。
 前も後ろもない空間。

 紫苑はまるで漂うように、何かに引き寄せられるように進んでい行った。
















 思い出すべきことはそれで全てではないはずだ。
 自分は確かに知っていた。

 愛しい人を救い出すその方法。

 愛しい人を抱き締めたくて仕方がないその衝動。
 会いたいと願う欲。
 心が叫び続けている。

 紫苑。

 愛しい人のその名を。

 けれどまだ呼べない。
 会うことは出来ない。

 思い出さなければいけないことは他にもある。
 愛しい人の全て。
 それ以外にもう一つ。

 会いたい。

 思い出せ!

 頭の中が割れそうに痛かった。
 けれどそんなことに構ってはいられない。
 思い出さなければならない。

 思い出せ!

 心が、身体が。
 ひどく騒がしく求めて止まない衝動。

 会いたい。
 触れたい。
 抱き締めたい。

 不意に何もない空間から空間がひび割れたようにして光が溢れ出した。
 紅真は驚いて初めその瞳を見開き、しかしすぐにその余りの眩しさに眼前に手を翳して陰を作る。
 赤い瞳を細めてみれば、そこから現れるのは求めて止まない人。

「紫苑!!」

 思わず紅真は叫んでいた。
 眩しいのも忘れ、割れた空間より倒れ込むように現れた紫苑を両の腕を伸ばして抱きとめる。

「紅…真……?」

「ああ…」

「俺・・・のこと、わかる?」

「紫苑…」

 紅真が呼べば、紫苑は安心したような。嬉しそうな微笑を浮かべる。
 紅真はその腕で、その身体全身で強く紫苑を抱き締めた。
 強く、きつく。
 その存在を確かめるように抱き締めた。

「紫苑…ゴメン……」

 ずっと一人にして。
 たくさん泣かせて。

「もう…一人にしないから」

「うん…」

 紅真は紫苑のその細い身体をきつく抱き締めた。
 もう二度と離さぬように。

「紫苑…これからやることがあるんだ」

「知ってる…」

 紅真が云えば、紫苑は僅かに笑みを作って云った。
 真剣な、強い意志を固めた紅真の瞳を、やわらかな暖かい眼差しで受けとめながら、紫苑をそっと紅真のその頬に触れる。
 確かにそこにいる実感を得たかった。

「きっと壱与も来ると思うぞ」

「太陽の女王が?」

 紫苑がどこか笑みを含むように楽しげに云うと、紅真は僅かに顔を顰めた。
 太陽の女王は苦手だった。
 どうにも自分のペースが崩されてしまうのだ。

「きっと大丈夫だ。…紅真、誓いを聞かせて」

「ああ…そうだった」

 それは忘れたわけではなく、預けておいた記憶だったのだ。

 今だ腕の中にある紫苑の耳には、金のカフスが煌いている。
 それは誓いの証。
 信頼して、誓って。
 自分は彼女に記憶を預けてきた。

「愛してる…紫苑……」

 永遠に。
 もう二度と離れないから。

「紅真…記憶は戻った?」

「ああ…」

 一番伝えたい言葉。
 それがキーワード。
 誓いの証に贈った金のカフスの中には、忘れたと思っていたその記憶が封じられている。

「行こうぜ…、神の元へ」

 紅真は云った。
 紫苑の瞳は、やわらかく温かく。まるで母が子を見守るような穏やかな光で満ちていた。



 ようやく微笑みを取り戻した天使。
 その微笑の瞳。













 神の手の上で踊らされ。
 それももう終わり。

 君を、真に解き放つ。
 僕は、君だけを愛する。
 全ては、こうして自由になる。

 その為の行動。

 預けていたのは、決してそれが誰かの元へと奪われぬようにする為。
 君を信頼していた証拠。
 信頼できる君がいたから。
 君を真に愛していたから。

 だからこそ。


 その罠に足を踏み入れたのだ。





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 モドル