朝露の君
僕には、一体何ができるのだろう?
朝露に濡れたある日、僕は漠然と考えた。
ACT-1
この大陸にはいくつもの国と呼べるものがある。
それらは互いに牽制し合い、からくも危うい調和を保っていた。
同盟を組んでみた所で、それがいつ裏切られるかなど分かったものではない。
そう主張するのが、俺の父親である。
俺は知っていた。
いつ裏切るか分からない存在こそが、自分の父親その人であることを―――。
その日、紅真は自国と同盟を組む国に訪れていた。
国王である父親に着いて来たというのか。連れて来られたというのか。
どちらとも言えない曖昧な。端的に言ってしまえばどうでもいい事であったのだ。
どこの国も、誰にも興味がない。
ただ気の向いたようにしてみた。それだけだった。
ここは自国の同盟国。緑が豊かで、経済的にも恵まれ…およそ理想的な国であるらしかった。
治安の良さが王の才覚の高さであるのであれば、この国の王は間違いなく一流だ。
誰に聞いても答えは同じ。「理想的な国」。皆がそう答えるのだった。
紅真はそんな国を作り上げた王の暮らす城の中にある、美しい庭を歩いていた。
国の安定さを表しているがの如き、そこは美しく調和が取れていた。
決して派手ではないが、心を落ちつかせる穏やかな造りだ。
細部にまできちんとした手入れが成されているその庭は、ここがどれほど大切にされているかがよく分かる。
紅真は草を払った。
虫の居所が悪い。
簡単に言えば、単なる八つ当たりによって、紅真はその美しい庭の調和を乱したのだ。
薙ぎ払われた草が中に舞い飛ぶ。
それらは、はらはらとしたやわらかな様子で、ゆっくりと地に落ちていった。
「何をしている!」
最後の一枚までもが地に落ちた時に、そうした紅真を咎める怒鳴り声がした。
草の舞い落ちる様を見つめていた紅真の視線が、その声の方に向けられる。
鋭い視線を向けたその先に居たのは、銀色の髪に紫色の瞳の少女だった。
白く淡い色のドレスをその身に纏う少女の瞳は、目の前に居る紅真の行動を咎めるように、険しい物だった。
少女の怒りの程がありありと見て取れる。
「ここの草花を勝手に刈る事は、許されていないはずだ」
少女は声を押し殺して言った。
一歩一歩確かめるように、紅真の方へと歩いてくる。その瞳は未だ鋭く吊り上げられたままだ。
少女の凛としたその姿からは、その高貴さがかもし出されている。
紅真は少女の正体に直ぐに気が付いた。
「…俺はこの城の客だ。城を好きに見て歩いて良いと了解を得ている」
「好きに見て歩く事は、好き勝手に振舞っても良いという事じゃない」
紅真の台詞に、少女は間髪入れずに返した。
少女のその言葉に、紅真は言葉を詰まらせる。彼女の台詞は正論だった。
少女は尚も言葉を続ける。
「黒髪に赤い瞳…。今この城に来ている客人は、我が国の同盟国の王と皇子だけだ。…お前がそうか?」
「…そうだ―――」
「…ふん。程度が知れたものだな。
何ゆえ父上がお前達のような者の治める国と同盟など結んだのか。理解に苦しむ」
「なんだと…!」
少女の嘲るような言葉に、紅真は怒りの為に声を低くし、始めから険しかった瞳を、さらに険しくさせた。
怒りに震える紅真を何ら気にすることもせず、少女は尚も言い募る。
「言葉の通りだ。最も、お前の父親である現国王は優秀なのかもしれないがな。
…どちらにしても、この程度の者が皇子なのだ。父としては最低だろう」
少女の言葉に、とうとう紅真は切れた。
国と父親への侮辱。紅真はそれに怒りを覚えたのではない。
彼が怒りをおぼえたもの。それは―――。
「俺を侮辱する奴は許さない―――!」
己へ対する侮蔑だった。
紅真は腰に下げられていた剣を引き抜いた。
そのまま少女の首筋めがけて剣を突き立てるように構えたまま、少女へ向かって真っ直ぐと駆ける。
後一歩で少女の首にその剣が付き立てられようとしたその時。
紅真には何が起きたのか理解できなかった。
彼は剣を取り落とし、少女に馬なりに乗られる形で、仰向けに倒れていたのだった。
首筋には少女が握り締めている短剣が当てられている。
少女の瞳は。その表情は、首筋に当てられる短剣と同じように、冷たく、涼やかだった。
「怒りの観点が片寄っている。悪い事ではないが、一国を収める者としては失格だ」
少女は静かな声で言った。
国よりも何よりも、自分を思うとはどうなのか?
怒りに任せて考えなしに剣を抜くことがどういう事なのか分かっているのか?
自国以外の地で、身分もわきまえず問題を起こすつもりなのか?
少女の言葉の言外には、様々な非難が見て取れた。
しかし、未だ驚愕に目を見開いたまま。
自分がどのような立場に立たされて入るのかを理解できずにいた紅真には、
声として形にされた言葉すら耳に届いているかどうかも妖しかった。
「自分が最強だとでも思っていたのか?弱き私にも勝てないのに?」
少女の声には抑揚がなかった。無感動。そういう風にも聞こえる。
少女はゆっくりと、紅真の首筋から短剣を離していった。それと一緒にして、少女自身もその身を起こす。
紅真はただ呆然と、真っ白になった頭はそのままに、少女が自分から離れていくのを眺めていた。
「…何をしてる?まさかこの程度で腰を抜かしたわけでもないだろう」
少女は紅真を見下ろしながら言った。
少女のその言葉に、紅真は漸く我に返る。はっとしてその見を起こすと、慌てて辺りを見まわした。
探しも物――自分の剣――は、紅真自身のすぐ傍に落ちていた。よこたわる己が剣を拾い上げて収める。
その間も、少女はどこか冷めたような涼しい視線で紅真のそれらの行動を見ていた。
「…お前…誰だ?」
「…それはどういう意味で聞いている?もし俺の身分を聞いているのだとしたら、お前、相当な間抜けだぞ」
「名前だよ!!」
紅真は怒鳴った。
少女の言葉の一つ一つがすべて癇に障る。絶対の自尊心を傷付けられた直後だからだろうか。
少女の、人を小ばかにしたような優越した態度の為だろうか。
紅真には、どちらも当てはまるように思え、またどちらも当てはまらないように感じた。
「…どちらにしても間抜けな質問だな。お前は自分を客人だといった。この城のな。
ならば、この城に住まう者の名くらい覚えておけ」
少女は呆れたように言った。
自国の同盟国の名すら知らぬのではないのかと、一抹の不安さえ感じる。
少女の瞳には、紅真がただのバカ皇子にしか写っていなかった。
「まぁ良いけどな。俺の名前は紫苑だよ。…紅真」
少女の皮肉るような台詞の最後に自分の名前が添えられ、紅真は些か驚いた。
まさか自分の事を知っているなどとは思わなかったのだ。
そんな紅真の表情を、紫苑は正しく読み取り、嘲笑して見せた。
それは、自嘲のようにも見えたが、紅真にはそうは感じ取れなかった。
「憶えているさ。それくらい」
「…」
「お前、自分は強いと思ってただろ」
紫苑の言葉に、紅真は何も答えなかった。
紫苑はかまわず言葉を続ける。
「でも、俺もお前も弱いんだ。誰よりも弱くはないけれど、きっと、誰にも勝てないと思う」
「誰よりも弱くないなら、誰かには勝てるんじゃないのか?」
紫苑の言葉に、紅真は疑問の声を投げかけた。
彼女が何を言いたいのかが、まったく分からない。
そもそも、何故急にこんな話しを仕出したのかも分からなかった。
「勝てないさ。自分で得たものなんて何一つない。すべて与えられた物ばかりだ」
その言葉を聞き、紅真ははっとした。
今まで、自分の力で、自分の意志で得た物があっただろうか?
与えられた物ばかりではなかったのか?
強いと錯覚させる地位は、気が付いたら自分の物になっていた。自分で手に入れたものでもないのに…。
強いと錯覚させる剣術は、自分から得たいと思った物ではなかった。
気が付いた時には、それを身につけるように言われていた。
確かにそれを身に付ける努力をしたのも、それを身に付けたのも自分だが、
それは本当に自分が望んでいるかどうかすら分からない。
そんな事にすら、今はじめて気がついた。今まで…気がつかなかった。
その事に、紅真は愕然とした。
「俺達は自由とは程遠い位置にいる。それでも、俺達には逃げる事は許されないんだ」
自由の代わりに与えられる物。
窮屈の代償に支払われる物。
富の代わりに支払った物。
権威の代償に縛られる事。
廻りにある全ての物を享受する、あらかじめあるすべての物。
そこには、運命さえも含まれる。
上に立つ者とは、それらすべてに耐えながら、それでも自分の力と意志で何かを得てこそ勝者となる。
「…さっきは悪かったな。俺も、ただの八つ辺りだったのかもしれない」
紫苑は言うと、紅真に向かってその手を差し出した。
紅真が一瞬だけ疑問符を浮かべると、すぐに了解したという顔をして、
己の手を差し出された紫苑の手に絡ませた。
互いに握手を交わす。
それにどんな意味があったのか。その時は、大して考えてもいなかった。
それは親愛の印だったのかもしれない。
小さな自分達が交わした、無言の同盟だったのかもしれない。
芽生えたかもしれない友情の証だったのかもしれない。
新たに得た好敵手への、宣戦布告だったのかもしれなかった。
その時は、その理由についてなんて大して考えもしなかった。
ただ、一緒に微笑って手を交わした。
その手は…とても暖かかった。
互いの手が触れ合って得たものは安らぎだった。
一人で闘い続けてきた事への孤独。
その苛立ちを癒していく、小さな安らぎ。
紅真は始めて見た。
紫苑の微笑み。
紫苑は始めて見た。
紅真の笑顔。
立場の同じ。強力な理解者を得たことに、二人は互いに微笑んだ。
見えない圧力に押し潰されそうな心は、いつも捌け口を探していた。
一人で悩み続ける事の孤独は、常に、寄り添える同胞を求めていた。
理解し合える誰か。
競い合える誰か。
慰め合いたかったのだろうか?
「悪かったな。ここは…あまりにもきれい過ぎるんだ」
紅真は庭を振り返り言った。
調和の取れた庭は、誰からも愛される理想の存在だった。
自分が求める完全さが、求められる完璧さが備わっている所。理想的な存在。
「分かるさ。八つ辺りの一つもしたくなる。でも…それ以上に、美しいと思えるんだよ」
紫苑も庭に視線を向けて言う。
虫唾が走るほどの憎悪が湧くと同時に、その美しさに慈しみを憶える。
「…今度は勝つからな」
暫らく沈黙が続いた後、紅真がポツリと呟いた。
小さく、聴き取るのがやっとのその呟きを聞き、始めて紫苑が驚きに顔を歪める。
それからゆっくりと笑顔を作ると。
「それって、負けたことを認めることになるぞ?」
言った。
紅真は不敵な笑みを向ける。
「負けを認めるのも、強さのうちだからな」
「…なるほど」
その日、欲しかった者を手に入れた。
つづく
■あとがき■
…すみません。本当にすみませんです。
オリジナルとして読んでいただけたら嬉しいと思います。
しかも続きます(汗)。続き物ばかりですみませんです。
さらに…現時点でどこまで続くか漠然としかわからない。
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2001、8、13