朝露の君
ゆっくりと訪れる朝
触れる日差し
眩しい朝
ACT-5
二つの真実が交差仕合、もはや自分の願えさえ解からない。
何を望んでいるのか?
何がしたいのか?
もう自分自身にもわからない。
それでも、この安らぎが心地良くて…。
その安らぎの正体も知っていて…。
それを、認めようとしない自分がいる…―――。
世界がゆっくりと白に染まって行く気配に、紫苑は意識を覚醒させた。
重く閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げて行くと、始めに映ったのは見慣れない白。
それが天井である事に気が付いた時、紫苑はそれまでの経緯の全てを思い出した。
(…ここは―――)
紫苑は今だぼんやりとした意識のままに、瞳だけを動かして周囲を見まわした。
瞳だけを動かしたのは、それ以外の全てが動かせなかったからだ。
拘束されているわけではない。
ただ、動かすだけの力が出ない。それだけだった。
身体の上には、やわらかなシーツが掛けられている。
天井もシーツも枕も壁も。この部屋は全てが、清潔な白を基調としていた。
部屋に置かれている調度品の数々は、基調となる白に良く合う物ばかりだ。
決して己の存在を主張しすぎる事のない、品の良い物ばかりだった。
紫苑は自分の右横に設置されている窓に目を向けた。
透き通るような青空が、窓一面に広がっている。
紫苑は、自分の意識がその青空に吸い込まれて行くような感覚を味わっていた。
何も考えることもせず、ただその青に見とれる。
と。
カタッ
窓とは逆方向の頭上から聞こえた乾いた音に、紫苑は我に返る。
視線だけで注意深く睨みつけると、そこはこの部屋の扉だった。
先程の音は扉の開いた音。扉を開けたのは―――。
「こ…うま…」
紫苑はなんとかその言葉だけを搾り出した。
たったそれだけの行為が、とても辛く、きつい作業だった。
口の中がカラカラに乾いていた。
「…気が付いたのか」
紅真は紫苑を見下ろして言った。
紫苑の放った声はとても小さい物だったのだが、紅真は確実にそれを捕らえたのだ。
紅真の声に、紫苑は何も言うことができずに――
――それでも必死に声を出そうと口を微かに震わせ――紅真を睨みつけるようにして見上げた。
「…水は飲めるか?直ぐに食事を採るのは無理だろうから、まずは栄養過多のスープを用意させる」
紅真は、紫苑の横になっているベットの隣に椅子を引いて腰掛けた。
備え付けられている水差しから、グラスに水をそそぐ。
紫苑はそれを相変わらずの鋭い目付きのまま睨みつけてた。
紅真はグラスに水を注ぎ終えると、僅かに椅子から腰を上げ、紫苑の口元にそのグラスを持ってきた。
紫苑は首を動かしてそれを避ける。
頑なに閉じられた口元が、彼女の確固たる拒絶の象徴だった。
「意地張っててもしょうがないぜ。立ち上がる体力もないくせに」
紅真の言葉にも、紫苑は決して顔を戻そうとはしなかった。
紅真は溜息をついた。
今の紫苑であれば、紅真は大した力を必要としないで言い成りにさせる事が出来る事は間違いない。
しかし、紅真はそうはしたくはなかった。彼女の自尊心を傷つけたくはない。
かといって、このままでは彼女は死を待つばかりだ。
「…そんなに無駄死にしたいのか」
その言葉に、紫苑は微かに反応した。
無駄死になんて出来ない。
自分を逃がす為だけに、どれほどの命が消えたと言うのか。
自分の命に、どれほどの願いと希望がたくされているというのか。
「・……」
紫苑はゆっくりと、その顔を紅真に向け直した。
紅真の手にあるグラスから、ゆっくりと。ゆっくりと。冷たく潤う水を体内に採り込んでいく。
それはまさしく生命の水であった。
紫苑は必死で水を飲んだ。ただそれだけの行為に、大変な集中力が必要だった。
水を飲む紫苑の様子を見つめ、紅真は微笑を浮かべたが、紫苑がそれに気づくことはなかった。
「まだいるか?」
「…」
紅真はどこか、からかうような声音で言ったが、紫苑は黙って頷いた。
一度その手から与えられた生命の水を、身体は今だ欲し続けていたのだ。
数杯目かの時、紫苑は漸く自らの手をグラスに添えることが出来た。
今だそのグラスを支えているのは紅真であるが、
口を動かす事も困難だった事を思えば、かなりの回復振りである。
「もう一人で飲めるだろ。何か他の物を持ってくる」
そう言って、紅真は椅子から腰を上げ、扉へと向かう。
扉のとってにその手を掛け、その扉を開けようとした其の時。
「…いつ気が付いた?」
紫苑が言葉を発した。
問うているのは、紅真はいつから自分の正体に気が付いていたかと云うこと。
紫苑が紅真の名を口に出した時、紅真はそれについて何の驚きも示しはしなかった。
彼は自分の正体を知っている。
「何のことだ?」
「とぼけるな」
有無を言わせぬ紫苑の声音とその瞳に、紅真は軽く肩を竦めて見せた。
観念したかのように答える。
「お前が競りに出された瞬間にだ」
紅真の答えに、紫苑は驚きを隠すことが出来なかった。
まさかそんなに早くから気付かれているとは思ってもみなかったのである。
紫苑自身、自分がどれほど寝ていたかは分からないが、
紅真が紫苑の正体に気が付いたのは、自分を競り落とした後だと紫苑は思っていた。
「…何故そのまま放っておいた?」
討ち滅ぼした王族の生き残りを見つけておきながら、何故放っておいたのか。
本来ならば、こちらを真っ先に訊ねるべきだったのかもしれない。
しかし、紫苑の頭に真っ先に浮かび、真っ先にその口から紡がれたのは、その前の問いだった。
紅真を睨みつけながらも、紫苑は自問自答していた。
「紫苑…」
紅真はとってから手を放し、紫苑の元へと歩み戻ってきた。
紫苑の頬にその手を添え、辛そうに顔を顰める。
「紫苑。お前、俺をどうしたい」
「殺したい」
「なら、殺せ…」
紫苑は即答した。
紅真も直ぐに返した。
「俺も、俺の親父もお袋も。この国すべてを焼き払え」
「…何故?」
「俺は、お前の裏切り者でいたくない」
大切な友を裏切る。
そして笑う。
紅真の脳裏には、あの日の――あの朱く燃える炎に包まれて沈んでいく
紫苑の国の滅びの様がリプレイされていた。
「美しい国だった…。この国よりもずっと」
いつか、自分がこの国を治め。この国を守る立場に就いた時には、あの国のように。
活気溢れた美しい国する為に尽くそうと、心に希望を抱いていた。
それが、自分の為すべきことなのだと信じていた。
「何も出来なかったんだ。止めようと思えば出来たのに…」
いや、それ以前から分かっていたのに。
いつかはこんな日が来ると感じていたのに。
なにも出来なかった。
「裁かれでもしたいのか?」
「そうかもな」
「…」
己が放った業火が、因果を巡り振り戻って来る。
朱く輝き、猛る炎を見つめながら、そんなことを思った。
紅真の自嘲じみたその言い方とその答えに、紫苑は一度言葉を切った。
やけに静かな静寂が辺りを包み始めた頃。
「…俺は、お前の奴隷だ」
紫苑が口を開いた。
「俺はお前に買われた身だ。主を殺せるものか」
「…あの程度の金で買われるのか?本当に?」
「金額には意味がない。俺は、お前に命を救われた。もう殺せないだろ」
紫苑の台詞に、紅真は暫らく呆気に取られたようになった。
何を答えて良いのだろう。
暫らく何も言えず、何も考えられず。紅真は紫苑を見つめていた。
そして急に笑い出した。
肩を小刻みに震わせて、クツクツと笑ながら、紅真は紫苑に にやりと笑って言って見せる。
「先に手を出したのは俺だろ?立場は平等だぜ?」
「お前は止めたかったんだろ?」
ならばそれはお前の仕業ではない。
紫苑は柔らかく微笑った。
国が滅びてから、始めての微笑だった。
「…信じるのか?」
「信じるさ」
信じたいから。
それに、縋り付きたい――。
真剣な眼差しで問い掛けてくる紅真に、紫苑もまた、真剣に答えた。
互いに見詰め合う。
どれほどそうしていただろうか。
不意に、紫苑がその頭(こうべ)を紅真に持たれ掛けてきた。
「もう…残っていないんだ」
そう言って、紫苑は瞳を閉じた。
紅真は紫苑のやわらかな髪を、優しく梳いてやる。
二人の思いは重なっていた。
何もかもを失って。
何も残っていないと思った。
欲しかったのは、分かち合える気持ち。
身を預けられる安らぎ。
愛しいあなた。
その日、欲しかった者を手に入れた。
つづく
■あとがき■
ACT-1 の最後と同じです。
手にした人は同じですが、そこにある気持ちには微妙な違いがあります。
というのを表現したかったのですが…出来ていないでしょうね(泣)
BACK ← TOP → NEXT
2001、8、21