朝露の君


















 怒りに燃えてみるのもいいだろう

 静かなる焔を煌煌と焚き照らす

 そうして生きるもいいだろう























ACT-4



 もはや自尊心など役に立たない事は知っていた。
 それでも、それがなければ生きていけないことも知っていた。
 どんなに惨めな所へ貶められようと。
 どんなに暗いところへと感じようとも。
 生き抜かなければならない。
 其の為に選び取った感情が、自分の本心とは違っていたとしても。
 もはやその感情でしか、自分を支えられなかった。

























 奴隷商人に拾われたのは、彼女が髪を黒く染めてから数日後の事だった。
 染められた不自然なその色は、煤と埃にまみれ、一筋の艶も発しはしない。
 風呂に入る事はおろか、水さえ掛けられないそこは、ある意味都合の良い隠れ蓑だった。

「食事だ」

 声が響き、足元の遥か遠くを照らす蝋燭の小さな光に、紫苑は目を細めた。
 でこぼことした傷だらけの器に入った具のないスープが、檻の中に入れられる。
 紫苑は暗い檻の中に入れられていた。
 光はまったく射さない。土にまみれて薄汚れた小さな薄布だけが、そこには置かれてあった。

 紫苑を拾ったのは、小太りの奴隷商人だった。
 紫苑は逃げ延びた丘から、どこか近隣の国に逃げ込もうと思い、余り人通りのない街道を選んで歩いていた。
 とっさに逃げたとはいっても、食料や金品は多少は持ち得ていた。
 もっとも、それは決して多いとは言えず、むしろ少ないと言って良かった。

 そうであるのだから、紫苑の体力はおのずと低下してくる。彼女は強かったが、無敵ではなかった。
 心身ともに限界に近くなって行く紫苑。
 目を閉じれば燃え盛る炎が迫ってくる。
 夜の暗闇は身を隠してくれるようで頼もしくもあったが、それで眠れることはなかった。

 実際、我が身に降り懸かり始めて知ったことであったのだが、
 人通りの少ない小さな街道という物は、奴隷商人達にとっては、格好の獲物場らしい。
 堂々と光の当たる表を歩くことの出来ない者が通る道だからだ。
 特に戦乱で潰された国に繋がるそういった道を通る者は、運良く逃げ延びられた者が多い。
 それらを勝手に狩り、勝国で売れば、誰に文句を言われる事も咎められる事もない。

 紫苑が奴隷商人に捕まったのは、まさしくそれによるものだった。

 奴隷商人に捕まった時、紫苑は彼らを打ち倒す事が出来なくもなかった。
 しかし、彼女はあえてそれをしようとはしなかった。
 打ち倒す事は出来ても、その後に歩くだけの気力と体力が残るとは思えなかったし――。
 ――何より、もう食料が底をつきかけていた。否、正確に言うのならば、底を付いていたのだ。

 紫苑は為すがままに捕まり、今に至っている。

 今居る所に連れて来られて直ぐ、紫苑は右太腿の上部分――足の付け根――に小さな刻印を押された。
 どこへ逃げてもそれとわかる、奴隷としての烙印。
 押し付けられた黒いその傷痕は、もう二度と消える事はない。

 それが押し当てられた時、それには相当の痛みを伴ったが、紫苑は悲鳴の一つ。
 涙の一粒も零しはしなかった。
 抵抗らしい抵抗も、しはしなかった。そんな素振りは、欠片も見せはしなかった。
 ただ黙って、どこか冷めたような瞳で、自分に烙印が押し当てられる様を見つめていた。

 紫苑はスープと共に投げ入れられたスプーンを手に取った。
 ゆっくりとした緩慢な動作で、冷めきった具の無いスープに、さじを入れると。
 とてもスムーズな慣れた手つきでそれを掬い上げ、口に運んでいく。

 スープを飲む為に開かれた口は、スプーンを口に入れることも叶わぬほどに薄くしか開かれず。
 それを飲み込む喉の動きは、とても痛々しい物だった。
 暗闇には、肉の無い骨ばかりかと思えるほどに細い手足が影となって浮かび上がり。
 彼女の体力が、もはや食事をする事さえ限界であることを容易に知らしめていた。

 紫苑はスープを飲み干した。

 一日に一度与えられる食事は、とても貧しい物であったが、それでも、食事が取れるだけマシなのだと。
 紫苑は心からそう思っていた。
 自分の国が潰れて。本当だったら、自分はもう死んでいたはずである。
 命は惜しくは無かったし、生きようとも思いはしなかった。
 できるなら、このまま死を待ちたかった。

 しかし、それでも紫苑は死ぬわけにはいかなった。
 そうして、死ぬことが許されない理由を糧に、食事を取り、その命を繋ぎ、その意志を保った。
 もう惜しくは無い命を、必死で繋ぎ止めていた。
 そしてそれが、紫苑の瞳に光を灯していた。
 ともするとそれは逆であり。
 瞳に灯る光こそが、ぎりぎり彼女の命を繋ぎ止めているのかもしれなかったが――。






















 実際に競りに出されたのが、あの悪夢からどれほど経った頃だったのか、紫苑にはもう判らなかった。
 ただもう、久しぶりに浴びた外の陽光の眩しさと。照りつける太陽の暑さが辛かった。
 ただでさえない体力が、急激に奪い取られていくような気がする。
 喧騒なのだろうか?
 本来ならずっと近くで騒がしく響き渡る人の声が、あまりにも遠くで響いているようだった。

 視界が霞み、音が消え。
 それでも、紫苑のその瞳から光が失せることはなかった。

 首と両手足に、冷たく黒光りする鉄錠がはめられる。
 そんなことをしなくても、もう逃げる体力など無いのに…。
 紫苑はぼんやりと、そんなことを思った。
 食い込む鉄の輪が、陽の光に熱せれらて、焼け付くように熱かった。

 競りに賭けられる為の檻に入れられて、紫苑は はっとした。
 後からすれば、あのような限界状態で、どうしてそれに気付く事が出来たのか。
 とても不思議で仕方がないことではあるのだが…。
 その瞬間の紫苑には、当然のようにその姿を捉えることが出来たのだった。

 炎に飛び込む虫のように、その姿が視界に飛び込んできた。
 意識がはっきりと覚醒していく。
 紫苑は格子の向こう側から、見間違う事ないその姿を睨みつけるのだった。

 紫苑はただその姿を睨み続けていた。
 怒りに燃えるその瞳に宿る焔が、少女の価値を上げていくようだった。
 紫苑の全神経はその姿に集中し、あとはもう何も聞こえず。何も見えず。

「2000」

 声が響いた。
 彼の声だ。
 紫苑が元々きつかったその瞳を、周りに気付かれぬ程度に更に鋭くすると、彼と瞳があった。
 どこか嘲笑ったような彼のその表情に、紫苑は更に表情を鋭くする。

 機能の低下した器官では、彼らが何を言っているのかは聴き取ることが出来なかったが、
 彼の嘲笑う中に隠れた、思いつめたような。切羽詰まったような雰囲気を紫苑は感じ取った。

(なんでそんな辛そうな表情をする?)

 紫苑は胸中で呟き、顔を顰めた。
 辛いのはこっちの方ではないのか。
 そう問いただしたい心情にかられ、なんとかそれを押し止める。

 様々な感情が駆け巡った。
 様々な思いが駆け巡った。

 幾つもの記憶。
 幾つもの思い。

 それまで湧いてすらこなかった様々な幾つもの物が、紫苑の心を掻き乱す。
 掻き消えそうになる、たった一つだけあればいい感情を、紫苑は必死で繋ぎ止めた。
 吐き気がするほどの感情の坩堝に、いきなり放り込まれたかのようだった。

 そうこうしている内に、どうやら自分を競り落としたのが彼になったらしい。
 紫苑の心も、幾分か落ち着きを取り戻していた。

 檻に入れられたまま馬車に積み込まれ、自分を競り落とした彼の帰路につく。

「もう…それだけでいいんだ…―――」

 紫苑のその呟きは、馬車の揺られる音に掻き消された。
 急激な眠気が紫苑を襲う。
 その眠気に逆らいきれず、紫苑はそのまま暗闇に身を沈めていった。


































 もうどれほど振りかも分からない。

 漸く訪れた、夢さえいない睡眠だった。






























 なんで、彼の元でそれが訪れたの?
























つづく



■あとがき■

ああ。キャラ壊れまくり。
もう何を書きたいんだか…。
もう少し文をまとめる力が欲しいです。



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2001、8、15