朝露の君
生きることはとても苦しいことである。
生きるために必要なこと。
それは生きようとする執念である。
ACT-3
炎上する祖国から逃げ出した屈辱を、どうして忘れられようか。
戦うことすらせずに逃げ出した自分に、何ができるというのか。
戦いがしたいのではない。好きなのではない。何の抵抗もせずに逃げ出した事が許せない。
逃げたくなどなかった。一人生き続ける事などしたくはなかった。
けれど。
自分を除く大勢の願いは、無視することができなかった。
紫苑は小高い丘の上にいた。
ここは彼女の国を望むことのできる美しい丘であり、彼女のお気に入りの場所の一つでもあった。
青々とした草が風に揺らめく音は、心を覆う靄を払う。
頂上に植えられた巨木は、丘の森人の如き威厳に満ちてた。
紫苑はその木の根元に手を付いて倒れこんだ。
崩れ落ちるように倒れこんだ彼女のそこここには、煤(すす)や軽い火傷が見て取れる。
呼吸も絶え絶えに、そこにいることすらもがとても辛そうであった。
彼女の背後には、白煙がもうもうと立ち上っている。
天に延びる一筋の柱とは言い難いながらも、それはまさしくそれその物だった。
この白煙は、彼女の国の滅びの証である。今まさに、彼女の国は炎の中に消えていったのだ。
彼女の愛したもの。彼女を愛したもの。
それらが皆一様に灰となって消えていく様を、
少女は涙も流せぬほどに疲れ果てた身で、なんとか見ようとした。
しかし、彼女の瞳が見せる物は、皆、霞がかかったようになり―――。
彼女は祖国の最後の場に立ち合うこともできぬまま、気を失っていった。
同盟国が攻め入ってきた。それは、突然の出来事だった。
彼女の父親――彼女の国の国王は、自らに怒りを抱き、自らの愚かさを憎み。
そして、その為に命を失うであろう多くの国民を、一人でも守ろうと力を尽くした。
王も王妃も家臣達も。皆が国の為に戦おうと腰を上げた。皆が、国を守ろうとした。
紫苑も戦おうとした。
自分の力は大した戦力にはならないであろうが、それでもないよりはマシであると自負した。
しかし、彼女の父と母と。その他大勢の者達がそれを止めた。彼女に逃げろと言ったのだ。
当然紫苑は拒否した。これは明らかな侵略である。
王族を皆殺しにするまで、敵は引き下がりはしないだろう。
よって、自分一人だけが逃げることなど不可能であり、
また、紫苑自身、敵を前に一人だけ逃がされるなど望みはしなかった。
自ら率先して盾にならなければならない立場に居ながら、
誰かを盾にして逃げ出すことなど、どうして出来るというのか。
紫苑はそう主張したが、それが受け入れられる事はなかった。
彼女の身代わりには、紫苑と同じ年齢、同じ背格好の侍女が選ばれた。
選ばれたというよりも、彼女は自ら進んでその役目を引き受けたらしく、
紫苑がどれほど説得しようとも、その役目を捨てる事はしなかった。
「生き延びてください」
侍女は、強い瞳でそう言った。
紫苑達王族の証は、煌く銀の髪だ。灰色の髪に青い瞳だったその侍女は、髪が銀に染めやすかった。
紫苑の銀の髪は、黒く染め上げられ、まったくの別人のようになった。
たとえ誤魔化しきれなくとも、かなりの時間が稼げる。
少しでも遠くに逃げ延び、その血を絶やす事だけは避けろ。
追い立てられるように、紫苑は逃がされた。
紫苑は逃げた。必死で逃げて、漸く今居る丘の上に辿りついた。
しかし、そこで彼女の体力は尽きた。
もう何を考えることも出来ずに、紫苑は木に寄り添うようにして気を失ったのだった。
いつもと何ら変わりなく、穏やかで気持ちいい風が吹きぬける。
そこで眠る紫苑のその姿は、彼女の心中とは正反対に静かで。心和む風景だった。
奴隷商人に拾われたのは、それから数日後のことだった。
つづく
■あとがき■
場面が紅真視点から紫苑視点に移りました。
きっと時間と場面が行ったり来たりすると思います。
判りづらくてすみません。
今回は特にそうですね…。しかも短い。
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2001、8、15