月の精霊 星の王




***ACT-1***



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 月の精霊と星の王の恋物語り。
 それは子供の頃よく聞いた寝物語だった。
 結局、星の王と月の精霊はどうなったのか――。その答えはどうしても思い出せなかった。大概、こう云う物語りの最後はハッピーエンドで終わる物だ。だが、そんな気はしない。かといって、それの最後が哀しい結末だったという気もしない。
 まったく完全に忘れてしまったのか。
 それともこの物語りには結末など無かったのか。

(バカみてぇ…)

 そこまで考えて、紅真は胸中で呟いた。
 まるで少女のような思考ではないか。
 そんな事を思う。

 黒髪に赤い瞳の少年は、一人、寝就けぬままに自室のベランダで夜風を受けていた。
 ひんやりとした秋夜の風は肌に冷たい。
 そろそろ室内に戻りいい加減に眠ってしまおう。
 そう思い、踵を返しかけた時だった。

 ふわり。

 頬に温かな風を受けてそれを止める。
 後ろ髪引かれるような風だった。思わず振りかえる。

「……」

 紅真は言葉が紡げなかった。あまりにも信じられぬ事態に、ただ口をぽかんと開けたまま佇む。
 彼の目の前にいたのは、白銀色の髪の美しい少女だった。

 柔らかな衣服に、それと同じほどに柔らかく温かい藤色の瞳。頬は薄い桜色に染まり、しかし何より目を引くのはその美しい髪だった。
 肩先まで伸びた白銀色の髪。
 最も初めにこの目に飛び込んできた煌きだった。

「天使…?」

 呟き、紅真は自分の口をついて出た言葉に自嘲した。
 皮肉げに口の端が上がる。

 紅真はマンション暮らしだった。彼の家はそのマンションの最上階。実に十五階という高さにある。
 少女は宙に浮いていた。
 背後に、真っ白な…否、白ではない。月の色を薄めたような色の一対の翼を携えて。

 翼はとても大きなものだった。
 少女の歳は紅真と同じ位だろうか。十五、六と云ったところだろう。まるでそこに大地があるかのようにいる少女の足元には、当然のように大地など存在はしない。少女の足から十センチほど下の宙に、彼女の翼は最端を揺らしていた。地に降り立ったとしたならば、その翼は引きずるをえないだろう。
 そう思うと、少女が宙に浮かんでいる事が、実に当たり前に思えて――紅真は再び顔を歪めた。

「何なんだ?」

 紅真は再び呟いた。
 その言葉に、少女は哀しそうに顔を歪める。今にも消えてしまいそうな白い肌が、更に白く蒼くなった気がした。
 何故か胸の置くに痛みを感じ、紅真は何故そんな痛みを感じるのかと苦々しく思う。

 ――自分らしくない。

 言ってしまえばそんな事だった。
 今夜は何故こんなにも感傷的になっているのか。

 少女が僅かに口を開いた。
 哀しげな。切なげな。今にも泣き出してしまいそうな表情で。
 何かを伝えたいのだろう。しきりに口を動かしている。

「わかんねぇよ」

 紅真は言った。
 少女の口は確かに動いているのに。
 少女は確かに何かを伝えようとしているのに。
 紅真には微かな声の囁きさえ聞こえてはこなかった。口の形から何を言っているかを読むなど、そんな器用な事は出来なかった。

 少女は自分の声が届いていない事に気が付いたのだろう。
 諦めたように肩を幾分か落とし、顔を伏せた。
 ととのった眉が苦しげに歪む。

 チクン。

 紅真の胸にまた痛みが走った。
 小さな痛み。
 けれど何故だろう。
 とても痛い。

 風が吹いた。
 強い風だ。
 少女の細い身体が折れてしまうのではないか。
 とっさにそんな考えが浮かび、思わず身を乗り出しそうになって、軽く舌打ちする。
 他人の心配などしたくも無い。

 しかし。
 それでも、とっさに飛んでいれば良かったと。
 紅真は一瞬そんな思いにとらわれた。

 風が吹き止んで、少女の姿は消えていた。
 消えるその一瞬前に見えた、風になびく少女の白銀色の髪。そこから覗いた左に耳の金のカフスが月の光に輝いて。
 どうしようもない後悔が襲った。

 苦しくて、切なくて。

 今まで味わった事の無いような愛しさが込み上げてきた。
 胸が苦しくて、締め付けられるようで。思わずベランダの手振りにすがってしゃがみ込んでいた。

 星が煌き、月が冴えていた。
 胸が、痛かった。





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 モドル