桜…昼茜






陽が中天に在りて昼










 歩くのにやっとのうちはそれ以上のことに目など向けてはいられない。立つだけで精一杯だったそれは、やがて歩くことを覚え、それに慣れていく。立つことが当然で、歩くことが当たり前になると、今度は走り出し。
 互いに支え合い隣り合っていたそれらは、やがて激しい競争を繰り広げる。
 どれだけ早く走れるか。どれだけ自由自在に走れるか。どこまで遠く走れるか。競うものの種類は尽きることがなく、明確な勝敗は見えぬまま。
 やがて、どこへ辿り着くのかを誰も知らぬままに、誰もがただ走り続けるようになる。





 それは深い深い記憶だ。まだ、この世界があたかも限りなくあるかのような錯覚を覚えるほどに、大地が広がっていた頃の記憶。
 暗く、暗く霞んでしまいそうなほど、深い、深いところにある記憶だった。


「俺と一緒に来い」

 そう云って、先にその手を差し伸ばしてきたのは紫苑だった。
 紅真は蒼いその瞳にまっすぐと貫かれ、それでも固く口を閉ざしていた。その赤い瞳に、自分をまっすぐと見つめる彼女の姿を写して。
「…いったいどこに行くっていうんだ?」
 暫らくの沈黙の後に、口端を歪めた皮肉気な笑いをその面(おもて)に張り付かせて紅真は口を開いた。左手を腰に当てて胸をそらせるその様が、彼の答えそのもののようでもあった。
「どこにも逃げ場なんかないぜ。それこそ、救いや奇跡なんて起こるはずもねぇ」
「……」
「祈りなんていつだって通じない。人は海の中では生きていけない」
「すべてを救えるだなんて思ってないさ。ただ、それだけのことを知ってしまって、何も手を打たずにいられるほど潔くもない」
「それで?いったい何ができるってんだ?」
 斜に構えた紅真の態度は変わらない。しかし紫苑は紅真のそんな態度にいっさい意を払わなかった。その瞳を閉じ、ゆっくりと言葉を紡ぐだけだ。
「桜の伝説を知っているか?」
「血みどろの?」
「血肉(ちにく)はやがて花を咲かせ実になる」
「屍骸(しがい)で新大陸を作る気か?」
 紅真は眉を寄せた。
「広大な大陸だ。必要な屍(しかばね)はすぐに集まる。…いや、逆だな。せめてもの再利用か」
 紫苑は淡々と語る。
「大地が沈み、人は死ぬ。その死で新しい大陸を作る」
「生き残りがいなきゃ意味がねぇ」
「だから俺と一緒に来い。お前がいれば作れる結界の範囲が格段に広がる」
 紫苑の瞳が再び紅真を射抜いた。
 やがてゆっくりと、伸ばされたその手に重ねられる手があった。





「あ、あの、さっき初めて歌を聴いて…。黄鳥にぜひ会いたいんです」

 深夜だった。酒場には未だ煌々と明かりが灯り、人々の陽気なざわめきが店の外にまで漏れ出している。その喧騒から外れた裏口で、二人の客と酒場の主人が話していた。

「すまないが、本人が嫌がってるんだよ。うちとしても、一人のお客さんの要望に応えたら、他すべてのお客さんに同じようにサービスしなきゃならなくなるしね」
「でも、」
「悪いが諦めてくれないかい。ついこの間も君たちくらいの若者が来てね。どうしても黄鳥と会って話がしたいってそりゃぁせがまれたんだが、帰ってもらったんだ。ここで君たちの頼みを聞いたら、その若者にも悪いしね」
「…わかりました。だったら、せめて黄鳥の本名を教えてはもらえませんか?似てるんです。あの災害で行方不明になった友人に…」
「……そうか。そりゃ辛いね。話したい気持ちもわかるよ。だが、すまないね。彼女の本名は私も知らないんだ。本人も知らないだろうね」
「どういう…ことですか?」
「ある日ふらっと現れたんだよ。でも、あの災害の後じゃぁ別に珍しいことじゃなかった。あまりのショックに記憶がはっきりしない奴だって同じだ。生きていくためには何かして働かなきゃしょうがないからね、あの子はうちで歌姫をやってる。それだけだよ」
「そう、だったんですか…」
「知り合いに会えば記憶の戻ることもあるって聞くが、本人がそれを嫌がってねぇ」
「記憶が戻るのがですか?」
「いや、そうじゃなくて…そうなのかもしれんが、私にはわからないんだがね。歌い始めた頃に会いたいって客が殺到して、それに怯えちまったみたいなんだ。みんなあれこれ理由をつけてはどうにか直に会おうとするから。それこそ、君たちみたいに災害で行方知れずになった知り合いに似てる…なんてのも多くてね」
「私たちのはうそなんかじゃ…!」
「落ち着いて。私には君たちの言葉が嘘かどうかなんて確かめようもない。ただ、この酒場の主人として、君たちの要求には応えられない。それだけなんだよ」
「…わかりました」

 その客は諦めたように、一つため息を零した。体中から力が抜けていく様に。彼女の連れが半歩下がったところでまっていたので、彼を促して来た道を戻っていく。
 それが、とても寂(さみ)しかった。


 何もかもが明らかになったようで、何一つ明らかになりはしない。


 誰にとっても、そんな夜がやってきたようだった。
 自分に与えられた部屋の窓から、彼女は自分に会いたいとやってきた二人連れの客の帰るのを見下ろした。
 まただと思った。
 また、この胸が切なく痛みだす。
 それはあのときの方がずっと大きかった。
 いつもと何も変わらないはずだった。もうすっかり慣れた日常だ。いつもと同じように、歌を歌うために酒場へ赴く。ステージに上がって顔を上げた瞬間に、討ち取られたように視線が合った。真紅の力強い瞳だった。目を離したくないと思うのと同時に、声も出ないほどの切なさに躯が貫かれた気がした。
 帰っていく背中を見送りながら、それでも追いかけることができなかった。

「なんで…」

 その後に続く言葉を知らぬままに、その答えなど分かるはずもなく。
 彼女は無意識に呟いていた。










炎が昇る様はまるで堕落








----+ こめんと +-----------------------------------------------------

 ほぼ一ヶ月ぶりです。誰も覚えてないですか。というか読んでないですか。読んで下さっている方は楽しいですか?今回ちょっと短いですか?たぶん台詞ばっかだからだと思います。
 ご意見ご感想ありましたらぜひお寄せ下さいです---2004/02/07

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